有馬哲夫

Profile

1953年生まれ。 早稲田大学第一文学部卒業後、東北大学大学院文学研究科を修了。 メディア・コミュニケーション研究、アメリカ研究、日米放送史専門とする。 ほぼ毎年のペースで単著を出版しており、多くの雑誌媒体へ寄稿を行う。 日本の占領・戦後期に関する研究のほかに『ディズニーランドの秘密』『ディズニーの魔法』(ともに新潮社)など、ディズニー関連の著作もある。 近著に『児玉誉士夫 巨魁の昭和史』『原発と原爆 「日・米・英」核武装の暗闘』(ともに文藝春秋)など。

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マス・メディアの崩壊、
人はマイクロマスになってつながりを失う時代へ



有馬哲夫さんは、日本の社会学者であり、早稲田大学社会科学部・社会科学総合学術院教授として教壇に立たれています。ご専門は、アメリカ研究、日米放送史、広告研究、文化産業研究と幅広く、メディア・コミュニケーション研究に関しても造詣が深い有馬さんに、本とのかかわり、これからの電子メディアについて伺いました。

印刷会社は印刷をしない


――有馬さんはメディアとコミュニケーションがご専門ですが、紙の電子書籍化については、どのようなお考えをおもちですか?


有馬哲夫氏: 今、指紋照合や顔認識など、埋め込み式のICチップの技術の分野へ印刷会社が進出しているようです。学生の中に、大手印刷会社へ就職した人がいて、「先生、もう我々は印刷をやっていませんよ」と言う。ですから出版社が一生懸命頑張ったところで、印刷会社側が「紙には将来がない」と思っていたら、危ないのではないでしょうか。普通の中小の印刷会社は、昔だったらカレンダーや名刺など、いろんなものをやっていたわけですが、今は皆ウェブに移行していて商売あがったりです。

――有馬さんはいつもこのように分かりやすく事例を出して話されるのですか?


有馬哲夫氏: 院生を教えていると、メディア関係者がたくさんいて生の情報が早くなります。テレビがおかしくなる前から「もうこれまでのようにはいかない」といううのは分かっていました。もちろん僕の立場は、今までのように本・雑誌を擁護するものですが、今の学生たちを見ていると、基本的にタブレット育ちなので、紙で育ってきた世代と違って、写真の良さや物理的な大きさは関係ない。だから我々が非常にこだわって差別化してきたものが、新しい媒体では意味を失う。
でも、雑誌でいうと『文藝春秋』も『週刊新潮』もCDの二の舞になるのが分かっているから、電子媒体へ移行したくない。音楽業界は、CDが売れないから今はライブで稼いでいるようです。中国の学生が「CDを売って収入を得る、売り上げを上げるというビジネスモデルは古い、中国では通用しない。」と言っていました。「タダでもいいから配って、それでライブで儲けるんだ」と言っていましたが、ライブを中国でしたらお金はほとんど中国に入るので、韓流スターたちが日本に来てライブなどをしても、日本の運営プロダクションや呼び屋さんが儲かるだけ。だから結局ライブでも大した収入にならない。

紙は縮小し、電子書籍に移行するのは時間の問題



有馬哲夫氏: 本の場合、ライブと言えばせいぜいサイン会をやって、講演会をやるくらいです。要するに「移行できない」ということです。1990年代の初めにはMITの連中は、当時はコンピューターが分厚くてすごく重たかったPCが、下敷きの薄さぐらいのものになるということを予想して、タブレットを開発していました。タブレットが普及した時に活字メディアに何が起こるかということも、彼らは考えていました。その当時MITに、出資しているのはほとんどベネッセや学研などの日本の会社でした。だからすでに未来は決まっていて、どのぐらいのスピードで移行するかという話なんです。紙に印刷したものというのはおそらくだめです。それで、一生懸命抵抗してなるべく進行を遅らせるということです。

――縮小傾向というのは間違いないのですか?


有馬哲夫氏: 要するに、メディアというのは受容習慣です。例えば漫画を日本人はちゃんと読めるけれど、外国人は最初は読めない。あれもリテラシーです。「何でこの次のコマはこうなるの?」「何で目が飛び出るの?」など、日本人は小さい時から見ているから当たり前のことなのですが、外国人はそれが分からない。逆にいうと、メディアのインストラクションの中でどういう風に受容するのかというのを、これまでに勉強してきているということです。
そうすると今の活字もこういう受容習慣で出来上がってきているので、自分たちは従来型のメディアの方がいいと思っているだけであって、最初からインターネットやタブレットで育っていけばなんの抵抗もないはずです。これから活字メディアを喜ぶ人たちが、そのまま年をとっていってマーケットが縮小していけばそれで終わりです。新しいメディアが出てきて、それぞれの受容習慣とそのバランスの中で我々は育ってきているわけですから、今の形が変わっていって、もっと利便性の高いものになり、そちらが主流になっていく。今度は、若い人たちがメインの消費者となるので、必然的に変わっていきます。

――それは過去の歴史を見れば明らかということでしょうか?


有馬哲夫氏: だって「テレビを見るとばかになるから、お前たちは見るな、本を読め!」と言われても、誰も言うことを聞かなかったでしょ?その時の常識というのは、その状況の中での常識なので、それは常に変わっていって、いったん変わったら後戻りはしない。日経にしても、ネットに移っていいことは1つもない。
結局、紙に印刷したものはすごく効果があるので、広告は紙に印刷したものに出したがる。例えば、コマーシャルで放送するのと、放送局の宣伝用うちわとどちらが効き目あるかというと、しょっちゅう目に触れるから、うちわの方が効き目がある。コマーシャルで見るとインパクトがあるけれど、次の日になると忘れている。フリーペーパーがありますが、あれは発行部数ではなく、回覧率が高いのから、意外と見ているんです。だからやはり、「もの」には永続的なインパクトがあり、繰り返し見ますので、お金を出す人は紙に出したがるというのはよく分かります。印刷メディアにはすごくいいところがありますが、今の状況でいくと、これからは難しいと思います。

団塊の世代は、古典を読むという共通体験があった


――有馬さんの読書体験もお伺いします。


有馬哲夫氏: 僕は1日に何冊読むかという目標を決めて、どんどんやっていくという団塊の世代の典型的なタイプです。我々はどのぐらい本を多く、早く読み、それから内容を覚えているか、そういった習慣できています。本は学生時代から読み始めましたが、僕の場合は、1953年つまりテレビ元年生まれですから、その前に圧倒的にテレビや映画にさらされている。その点では、文学全集や百科事典などの印刷メディアが娯楽だった前の世代とは少し違うと思います。僕たちの世代では放送メディアと印刷メディアと半々ぐらいになって、年をとるにつれ印刷メディアの比率が落ちてくるわけです。

――本を読まれた数を競う文化があったのでしょうか?


有馬哲夫氏: 「お前、読んだのか?」という習慣、価値観はありました。しかも古典は全部読まなければいけないといった風に、マルクスの『資本論』を読めなどと無茶なことを言う。今、学生に「マルクスの『資本論』読んだか?」と聞いても、まず知っているかどうかというところです。読んでもみんな分からないのですが、「読んでない」と言ったら話に入れない、そういう教養主義です。教養主義というのは要するに、本を読んでいて、挫折しても、とにかく一通り体験しているというようなものです。文学全集だったら代表作は全て読んでいる、テレビなどもみんな見ているというのが前提です。
昔は、知識も、レジャーも全部印刷メディアだった。それが僕の時代になるとおおよそテレビと半々になってきましたが、みんなだいたい読んでいるものが共通していて、それはテレビの場合も同じでした。今はテレビ以外にもインターネットやいろんなゲームなどすごく細分化されていて、それらが我々の時間の中のシェアを分け合っていて、人によってそれぞれその比率が違う。ゲームが好きな人はあまりテレビは見てない、雑誌も全然読んでないとなると、話していても共通のものがない。時間を費やすためのいろんなレジャーやエンターテインメントなど、やることがたくさんあって、しかも今は僕自体がそうですが、iPadなどをやりながらテレビを見ています。テレビを見つつiPadからも情報を入れているから、同じようにしていても触れてる情報により個人差が出てきます。
「我々はコミュニケーション、共感などする場合に、共通の知識と共通の基盤が必要である」と昔のアメリカの学者が言っていました。だから彼の場合は「Cultural Literacy」なんです。アメリカ人としてこれだけは最小限知っていないとコミュニケーションできないし、価値観を共有できない。

メディアが多様化することで、我々は共通の基盤を失った


――確かに、共通のものがなくなると、価値観を共有できないですね。


有馬哲夫氏: 「お前マルクス読んだことあるか?」「いや、おれは挫折したんだ」と話すと、そこで共感する。ところが「マルクスの『資本論』を読んだか?」「いや、そんなのは知りません」って言うとそこで話は終わり。じゃあ、自分と何か共通の基盤で話し合うものはないのかと「昨日、なんのテレビ見た?」と聞いても、全然違うものを見ているでしょうし、「テレビなんか僕、見ませんよ」と言う人もいるでしょう。そうするとコミュニケーションよりも、「どうやったらこの人と共通のものを見いだして、共感できるところがあるんだろう」とまずお互いの探り合いをやらなければいけないのですが、まずそれが見つからないんです。
印刷メディアから電子メディアへ移行して、電子メディアが細分化されてきて我々の共通の部分がなくなったわけですから、印刷メディアが滅びたということは、我々がこれは常識だろうと言っているものがもうなくなったということです。本も読まなくなって、テレビも見なくなり、我々は共通の基盤を失ったわけだから、我々がこれから向かうのは、あまりいい未来ではないと思います。結局、そういう風に断片的に知識を得られなくて、一貫性がなく共通の部分がないわけですから割りと扇動されやすいデマなどが多くなっている。
広告の世界でも、昔は「マス」があった。とりあえずテレビにコマーシャルを流しておけば何千万人で、時々その補完として新聞に宣伝を出しておけば何千万人などとやっていれば良かった。今はテレビと、インターネットと、スマートフォンとガラケーと細分化をされていて、それぞれのバランスなどを考えて、結局広告費自体の収入は増えないんだけど、仕事が増えている。

――「マス」がなくなったんですね。


有馬哲夫氏: つまりベースになる、共通するというようなものがなくなるということです。非常に個別的で細かいセグメントに分かれて、お互いが助け合わなくなったし、共有できないというところに入ってくると思います。この間母子がドメスティックバイオレンスか何かを受けて大阪府に引っ越して、餓死したという事件がありました。誰にも助けを求めなかったということを信じられますか?いろんな接触があってお互いに共感するとか、共通だという部分がないと、相手を助けよう、あるいは相手に助けを求めようなどとは思わない。個を支える集団など「コミュニティ」のようなものがあるはずなのにそれがなくなっている。
今、メディア論でマクルーハンを教えていますが、果てしなくそっちに向かっている。以前は部族社会で、親族とその延長線上のクラウンがいて、声を中心としたコミュニケーションで、血縁関係を中心としたつながりです。その中では集団を維持して、集団として外敵から守って、それから食料生産をして自然から守るのが大切で、「私」という概念は重要ではない。そこから離れて活字になってくると文字でコミュニケーションをするので、この部族がもっと大きくなってきて、逆に言うと今度はグーテンベルグの活版印刷以降の西洋市民社会になってくるんですよ。そうすると「個」なんです。個人でやって、個人主義であって、それから自我が出てくる。

部族社会は、みんなの役に立って、みんなで生きていけばいいという社会なんですが、今はもっとそれが先に進んでいる。「個」というのは、中産階級などで「マス」だったのが、電子メディア以降、分解していって「マス」が「マイクロマス」になったのです。広告関係の人も「もうマスっていない」と感じていたんです。我々はこれからマイクロマスを相手にしていかなきゃいけない。テレビも含めていろいろな媒体に少しずつのターゲットがいるから、それを全部細かく拾っていく。それを全部集合していくとだいたい2、3千万になる。昔のようにテレビだけで2千万、3千万ではなく、これからされにそのマイクロマスが細かく溶けていく。
広告代理店には、全体を見て「どうやってこの連中を拾えばいいのか」という悩みがある。共通の部分がなくて、塊になってないって言うんですが、みんなバラバラで何も共通性がないし、助け合いもしないし、お互いに結合できなくなっている状態です。今、結婚も個人の問題になってしまって、個を追及していくから結婚も壊れていきます。子供は生まれても、それぞれの目標があって個となっていくので、家族も分解していくわけです。

メディアがもたらす影響に「良い・悪い」はない


――そういうバラバラになっていく時代にどうしていくべきなのでしょう。


有馬哲夫氏: 私はいろんなものを書いているけど基本はメディア論で、僕はマクルーハニストです。人間と人間がどういう風に結びつくか、その結びつきにいろんなメディアなどがどうかかわるかということですが、マクルーハンが言っているのは「良い、悪いはない」ということです。良い、悪いはなくて、そういう風に変わっていくのを受け止めざるを得ない。そうしないと自分がどういうところに立っているのか、今どういう姿をしているのか分からないから、我々はそれを意識しないといけないと言っています。
分かることは重要だけれど、分かった結果悪いものだけをなくすことができるかと言うと、答えはノーなんです。我々は、いろいろな便利なものが出てくれば、必ず悪いことがあるんだよということを常に意識して生きていくしかないのです。また、マクルーハンは「良いことと悪いことがある。それからいったん変わってしまったら比較はできない。この状態がノーマルであってここがアブノーマルだとか、この状態が前の状態よりも悪くなった、良くなったと言っても、もうすでに変わってしまっているから無駄だ」、ということ言っています。例えば「携帯電話の利便性だけを追求して悪いところはなくせばいい」と言う人もいますが、悪いところは絶対になくせないので、それも含めて変化というのを受け入れるしかない。そして、前のものとは比較できないから、良い、悪いということを言ってもしょうがないということです。

――例えばそれは出版や電子書籍、こういった業界においても同じことが言えますか?


有馬哲夫氏: ええ。文化によって違うところがありますので、スピードや変化の濃淡もあると思いますが、だいたい同じ方向に進んでいます。マクルーハン的に言えば、部族社会の声の文化の時からどんどん細分化してきて、今はいろいろなメディアが入ってきたからそれのスピードが速くなっているだけであって、方向性は全然変わってない。人類の歴史の中でずっと続いているわけです。
コミュニケーションにメディアがかかわっていくたびに、我々が分散していって、変化のスピードも速くなっています。江戸時代の変化のスピードと我々のスピードとは違うわけで、変化が速すぎるので我々はついていけない。マクルーハン言っていますように、「メディアが発達しても我々にはいいことは1つもない」という話です。ある意味で我々は江戸時代の人間の50倍ぐらい長く生きていると言えます。一瞬のうちに体験する変化は江戸時代ではほんのわずかですが、我々は彼らの何百年分生きているのと同じぐらいの体験をしている。変化が起こる速度というのは加速度的に速くなってくるから、我々の経験の密度もそれだけ濃くなっている。エンターテインメントにしても、昔の人とは全然違うエンターテインメントを楽しんでいるので、それをプラスだと思わなければいけない。

紙でも読書でも、読者の受け止め方は千差万別


――読者が有馬さんの紙の本を買い、その後iPadなどの電子メディアで先生の作品を読むということに対して、書き手として何か思うところはありますか?


有馬哲夫氏: 今生徒たちにゼミで教えているのは、スチュアート・ホールという人の『Encoding/Decoding』という本です。それは何を言っているかというと、「我々は理解できない」、理解というのがいかに不能かということです。僕は自分で本を書いていてAmazonの書評を見ると「こんなこと全然書いてないのに何でこうなるの?」と腹が立つのですが、スチュワート・ホールの理論でいくとそれは当然なのだということを学生に言っています。
彼の場合「Encoding/Decoding」というのは、コンピューターの例で分かるかと思いますが、こちらがすごくハイディフィニションのデータを送っても、デコーダーがすごくだめなやつだったらすごく粗い画像しか出ないのですが、その画像の中で判断してしまったらどうしようもない。じゃあ「粗いデコーダーをもっているのなら僕のものを読むな」などと言えるのかというと、言えない。我々は1つのスタンダード、正しい理解、受け止め方などを想定しているんですが、実際にはそれはないということであって、みんなそれぞれの受け止め方がありそれを許容するしかない。「私は出演者だから」ということや「私は作者だからこういう風に読んでくれ」とは言えない。そこはもう読み手側のレコーダーのキャパシティー次第ということでしょうか。

今を知るには、いろいろなメディアを歴史的にたどって、本来の機能を確認すること


――今を「知る」という意味ではどのようなことが必要ですか?


有馬哲夫氏: スマートフォンにカメラがついていてるおかげで、カメラが売れなくなったりしています。いろいろな機能が全部一緒になっているから分からないのならば、あれを分解していけばいい。いろいろな機能を獲得する前の状態を、歴史をどんどんたどっていくと据え付け電話になる。
歴史的に元の状況に戻して、その時どういうものだったか明らかにすることによって、分解して分析的に見ることができるということを僕は学生にも教えていて、「確かに、今の状態だと分からない」「生まれた時からインターネットがあるから、僕たちは当たり前だと思っていたけれど、前の時代はそうじゃなかったんだ」という風に、彼らは納得してくれています。実際に分かるかどうかは別として「みんな本を読んでいたんだ」「文学全集を読んでいたんだ」など、そういうものがあったというのが分かってくると、客観的に見ることができると思います。歴史的なパースペクティブをもつことによって、客観的に前のものと比べて見ることができるということが重要だと思います。

――今を知るには、歴史的な展望をしっかりと見据えて、分化していくことによってそのものが見えてくるということでしょうか?


有馬哲夫氏: メディアを使うことによって、我々は直接的なコミュニケーションをしなくなっているわけですから、なんでもメールや電話で済まさずに、その人とかかわりたいと思ったら、意識して直接本人と会うことが大事だと思います。例えば、「先生、原稿を送ってください。それを編集して載せますから」とできるわけですが、こうやって会うことは重要です。だからその重要性というのを理解してもらって、出会いを大切にするということを教えることができると思います。とはいうものの、利便性に流されることもあると思います。

――でもそこを「知る」ということが大事なのですね。


有馬哲夫氏: みんなコストをかけなくなっているから、人間関係が細くなっているわけです。今はこういう時代だから、失われた価値というものに対応するようにしたかったら、「それに対するリスクとコストをかけなければいけない」と僕は学生に言っている。お金だけではなく、時間、労力、いろんなものを含めて、コストをかけないと得るものは少ないと僕は思っています。

――最後に有馬さんの今後の展望を伺えますか?


有馬哲夫氏: 自分でもどこに向かうか分からないのですが、「もともと先生はメディア論だから、もう少しメディア論を書いてください」ということを編集者から言われています。尖閣の問題や北方領土の問題、それから韓国の従軍慰安婦の問題などに関して、「まず分かり合えないんだ」ということと、「なぜ分かり合えないのか」ということをメディア論で書きたいと思っています。

© 有馬哲夫

(聞き手:沖中幸太郎)

著書一覧『 有馬哲夫

この著者のタグ: 『大学教授』 『コミュニケーション』 『考え方』 『紙』 『ビジネス』 『メディア』 『方法』 『印刷業界』 『コストをかける必要性』

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