変化の時代こそ、多面的な「批評の目」を
宮沢章夫さんは、劇作家・演出家として、岸田國士戯曲賞受賞作『ヒネミ』など、既成の演劇の概念にとらわれない数々の作品を発表。小説家としても高い評価をうけています。また、さまざまな日常の事象を独自の視点で描き出すエッセイも人気です。宮沢さんの創作の根底にあるのは、多くの人が見過ごす物事に足を止め、面白がること。その好奇心を増幅し、また満足させる読書の魅力を含め、宮沢さんの活動の原動力に迫りました。
目的がないから、とりあえず見る
――このほど、エッセイ集『彼岸からの言葉』が復刊されたそうですね。
宮沢章夫氏: 『彼岸からの言葉』は、最初90年に刊行されました。その後93年ぐらいに文庫になったんですが、単行本も文庫も絶版になっていました。「復刊ドットコム」でもかなり票が集まったんですけどね。なかなか復刊されなくて、懇意にしている新潮社の編集者がいましたので、新潮文庫から出そうということになりました。
――20年以上前の作品が、復刊によって新たな読者を得ることは意義深いことですね。
宮沢章夫氏: とてもうれしいです。『牛への道』も、新潮から出たのが93、4年で、今度また文庫が増刷されるんですけど、何刷り目になるか忘れましたが、過去のものが現在も読まれているようなこと、時間に耐えられているってことはやはりうれしい。もちろん、例えば固定電話の話とか、今読むとちょっとわかりづらいところがあるかもしれないけど、『牛への道』の序文の、自動販売機の話などは今でも通用すると思っています。
――自動販売機で、缶コーヒーを買おうとしたら、スポーツドリンクが出てくる話ですね。あのエピソードは何度読んでも笑ってしまいます。
宮沢章夫氏: あれは鉄板なんです(笑)。どこで読んでも絶対うけるので、このあいだも、上野で読書のフェアがあって、野外ステージで朗読しました。あれは自動販売機というものが消滅するまで通用するかもしれない(笑)。
――宮沢さんのエッセイは、ほかの人の目に留まらない日常のできごとに着目するものが多いですね。
宮沢章夫氏: 全然記憶にないのですが、僕は小学校1年くらいのころから、学校からの帰り道、ちょっと歩いては立ち止まって、路上のなにかを発見してしばらく立ち止まるということをしていたらしいです。しばらくすると歩き出すんだけど、なにか発見してまた立ち止まる。全然帰ってこなくて、それを遠くから見ていた父親が、ウチの息子はどうなっているんだろうと言っていたらしい。それは今もそうだなと思っています。これはエッセイにも書いた話ですが、軽井沢にワークショップに行った時に、A班とB班に分けてフィールドワークをしたんです。A班は最初からしっかり目的地を決めて歩き出した。B班はなにも考えないダメなチームなんですね。だけど、フィールドワークの結果として、それをもとに簡単な芝居を作ったら、B班の方が素晴らしかった。A班は最初から目的地を決めているから途中が見えないんですよ。発見が少ない。B班は目的がないからとりあえず全部見る。途中の軽井沢商店街で「振れば振るほどおいしくなる牛乳」っていう謎のものを見つけた(笑)。大発見です(笑)。で、自分たちも振ってみたら、人よりももっと振りたくなるということを発見した。だめだったからこそ発見できたんです。
「今ここにいること」を意識する
――いわゆるビジネス書は、目的に最短距離で到達する方法を解説するものが多いですね。
宮沢章夫氏: 確かに、目的地があれば合理的だと思います。仕事をやる時には計画をたてて、そこに達成するためにはどうするかということも必要条件だけれど、そうではないものもあります。目的はわからないけど、過程でなにかを発見する作業。その最たるものが読書だと思います。たとえば、百科事典だってそうでしょう。今でこそGoogleで検索って簡単にできますけど、百科事典の面白さは、調べるとその横に書いてある、まったく関係のないことが気になって読んでしまうことですよね。ものを読む面白さはそういうところにもありますね。
僕たちは、常にあるところにいて、その先はわからない。でも「ここにいること」を、常に意識することが面白いんだと思っています。先が見えていると面白くない。ただ、全員がそのようにばくち打ちのような生き方をしたら社会が崩壊するだろうな(笑)。例えば日本銀行総裁がそんな感じだったら、経済がどうなるのか知れたものじゃないですから(笑)。
――大学では建築を学ばれたそうですが、それはなぜだったのでしょうか?
宮沢章夫氏: 実家は大工で、父は棟梁です。家を継げっていうのが子どものころから言われていたことで、建築関係しか選択肢がなかったです。「文学部に行きたい」なんて言ったら、おやじに殴られそうな感じでした(笑)。まったく受験勉強をしていなかった高校3年の秋に、多摩美術大学に建築科があるということを友達に教えてもらったんです。芸大は試験の教科が5教科で、多摩美は3教科だった。5教科は無理だろうと(笑)。しかも芸大のデッサンの試験は8時間です。受験勉強をまったくしてないし、デッサンもやったこともない者がそんな受験に耐えられるわけないじゃないですか(笑)。しかも、試験科目に平面構成というデザインもあったけどやったことがない。持っていかなきゃいけない画材だけ調べて試験に行きました。試験は上野毛でやるのですが、駅に着いたら、どうやら受験する人たちが、変な格好をした得体の知れないヤツばっかりで、なんてところに来ちゃったんだろうと思いました。でも運がいいとしか言いようがないんですが、なぜか入学しました。
――大学では、どのような学生でしたか?
宮沢章夫氏: むしろ、入ってから苦労しました。そもそもデッサンの描き方を知らないんですから。みんなうまいんですよ。浪人を重ねて、美術の予備校で徹底してデッサンやってますからね。ただ、僕は仕事でも、なにかを与えられるとそれが面白くなる。だから建築をやり始めると、それはそれで面白かった。当時、『都市住宅』っていう雑誌がありまして、この本がすごくよかった。雑誌そのもののデザインにも惹かれたし、住宅建築の魅力を『都市住宅』に教えられましたね。あるいは、『SD』という雑誌からは、建築のコンセプチャルな面白さを教えられたんだと思います。
演出家は大工の棟梁のようなもの
――芸能の方面のお仕事は、ラジオ番組の構成が最初とお聞きしました。
宮沢章夫氏: お金がないから、部屋にこもって暖房を付けずに、毛布をひざまでかけて、ひたすら本を読んでいるような生活をしている時期があったんですね。見かねた知り合いから「ちょっとラジオの仕事を手伝え」と言われて、ハガキの整理とかをしたのが最初だった思います。アイドル番組の仕事もして、当時、80年代は松田聖子とかアイドル全盛のころで、そういう番組を僕に担当させるのだけれども、相手は子どもだし、何の興味もない。ディレクターに「もっと楽しそうにやってくれ」と怒られました(笑)。だけど、怒られてもねえ、楽しめないし……。
――演劇にはいつごろから興味を持たれたのですか?
宮沢章夫氏: 僕はもともと映画が好きで、大学に入ってからも学校に行っているよりは映画館にいる時間の方が長かった気がします。大学の8ミリを作るサークルにもいました。それで将来的に、映画を作るような現場、シナリオライターになりたいとか、そういうことは考えていましたね。短期のシナリオ教室みたいなところに通っていたこともあります。ただ、なにを勉強したかわからない。一般的なドラマに興味がなかったのかな。今でもドラマらしいドラマは書けません。書こうとしないわけじゃなくて、書けないとしか言いようがないですね。
――その後は舞台の演出で評価が高まっていくわけですが、宮沢さんにとって演出家はどのようなお仕事でしょうか?
宮沢章夫氏: 父親は大工の棟梁ですが、演出するというのは、父がやっていたことと、ほとんど同じだと思います。棟梁は、様々な仕事、大工だけじゃなく、左官屋さんや建具屋さんたち職人さんをまとめて指示を出す。役者と職人さんってよく似てるんですよね。酒ばっかり飲んでいるところも似ています(笑)。演出家は全部を統括して、作品全体のイメージを作り上げる。建築的なんです。家を建てる工程とかなり似ている。ただ、映像というか、映画と演劇は全然違うんですね。映画は監督のものですよ。演劇、舞台はちがいます。主役は俳優です。俳優がどんな身体を持ってそこにいるかということ、そこにある身体をどのように魅力的に見せるかが演出家の仕事だと思うし、では、いまの時代に有効な身体とはなにか、そういったことしか考えていません。それって「俳優の魅力」に繋がるんですよ。まず第一に、人が好きだから、新しい才能に出会うと、その人の良さってなんだろうと考えて発見していく。稽古場で共有する時間が長いですから。そういった面白さが舞台の演出にはあると思います。
「今」は未来に奉仕するためのものではない
――演劇、小説、エッセイと、幅広い創作の原動力はなんでしょうか?
宮沢章夫氏: 「面白がる」ということだと思います。別の見方を発見するのが面白い。その発見自体が面白いというより、発見する過程、読み解いていく行為が面白い。それと、自分でなにかを考えていると、同時期に同じようなことを感じていた人がいるというのも面白いところです。今、70年代に活躍したTBSのアナウンサーだった、林美雄さんという人に興味を持っています。ごく最近、TBSラジオのプロデューサーとたまたま知り合って、その人に林さんの話をしたら、TBSに録音が全く残っていなかった。彼がいろいろなところに手を尽くして探して、当時TBSにいたディレクターとか、林美雄さんと仕事した人の談話が取れることが少しずつわかってきた。だったらこれを特番にしようという話になったんですね。そしたら、ある雑誌で、林美雄さんのことを追ったルポルタージュの連載が始まることがわかったんです。そういう共時性、偶然というのは本当に面白いですね。
――昔の事象が、今日的な問題にリンクするような部分があるのでしょうか?
宮沢章夫氏: それはあるかもしれない。林さんは、70年代に活躍して80年代に入ってからはパーソナリティーとして深夜放送をやらなくなってしまうんです。そこには彼の時代に対する複雑な想いがあると思います。林美雄という人は忘れられた存在だったけれど、再評価することによって、70年代という時代をもう一度問い直してみることができる。それは80年代の問い直し、現代の問い直しにもなる。今を問い直す時に、林美雄という、70年代の人物の存在が浮かび上がってくるのはとても興味深いし、発見自体が楽しいんですよ。
――その時々の、「楽しい」と思ったことに意味を見いだして、お仕事にされてきたのですね。
宮沢章夫氏: 今面白いと思ったことに興味を持って、それを調べていくことが、自分でやっていてもっとも楽しいですから。今は、未来のために奉仕するためにあるわけじゃない。僕の場合、そういう仕事ができたのは幸福だったし、たまたまそういうのがうまくいったとしか言いようがない。
100mを「3日」で走る方法を考える
宮沢章夫氏: 学校の教育とかでは教えてくれないことは絶対あって、そこに作家の役割があるんだと思っています。いろいろな作家が、こんな生き方もあるんだということを見せることで、違った見方を示すことができる。僕も特別な人たちに出会うと、その生き方にちょっと驚かされることがある。「そんなでたらめなのか?」っていうことも多い(笑)。でも、例外的な天才を中心に考えるとダメだとも言えます。オリンピックの100mの決勝に残る人って8人です。そして全員9秒台で走る特別な人たちです。天才たちですよね。なかでもウサイン・ボルトはすごい。そうなると、10秒台で走る人はなにかってことになる。たしかにそれもすごいんですけど、まあ、10秒台で走る人、世界に10万人はいるでしょう。それ凡庸ですよね。だったら、走ると100%転ぶ人がいたら絶対面白い(笑)。一生懸命走ろうと思っているのにスタートと同時に必ず転ぶ人はすごいですよ。われわれはボルトにもなれないし、いきなり転ぶ人にもなかなかなれない(笑)。
――ではどうするか、というところに宮沢さんの創作の秘密がありそうですね。
宮沢章夫氏: 演劇もそうだしダンスもそうですが、天才じゃない人間にとって、その世界に入り込む余地をどこに見つけたらいいかですね。100m走だったら、たとえば、100mをいかにして3日で走る方法が考えらるか。3日かけるのは大変なことです。いろいろなことをしなきゃ時間が余るから(笑)。
たいていのことはほんとは面白くないんです。日常は退屈です。退屈の連続のなかに人は生きている。普通に見れば面白くないかもしれないけれど、こういう切り口で見れば面白い、というのが、批評する目です。今ではすごく単純化された「ツッコミ」という言葉でみんなが語ってしまっていて、まあそれでも構わないけど、ツッコミのクオリティが大事ですよね。誰だってそれ気がつくよってことをツッコんだってつまらない。今なにが面白いのかを見分ける目が大きいと思っています。
電子では味わえない、ものとしての本
――宮沢さんは電子書籍についてはどのようにご覧になっていますか?
宮沢章夫氏: 単純に言うと、本が何冊もiPadの中に入れられると、旅行に行った時に助かるというのは当然あります。ただ、紙で読みたい時もある。まず僕は小説でもなんでも、線を引かないと読めない。付せんもたくさんはります。それにブックデザインがすごく好きです。特に平野甲賀というデザイナーが好きで、平野さんがほとんど装幀を手掛けていたころの晶文社という出版社は大好きでした。絵画の大きさは現場に行かないとわからないように、美術品はなかなか電子媒体の中に入れることはできない。実際のものを見ることの楽しさ、よろこびというのは電子書籍では味わえません。よく、本のカバーが要らないということで、買ってすぐに捨てる人がいますよね。ま、それあたりまえなんです。それが正しいに決まってる。だけど正しいことだけが「真」とは限らないでしょう。僕は本という「もの」が好きだからそれはしない。本は中身であると割り切って、カバーをすぐに捨てる人は確かに電子書籍でいいと思います。
電子書籍の良いところをもう一つ言うと、昔の本は、活字が小さい(笑)。今は老眼ですから、昔の本を取り寄せて読むと、うまく読めない、っていうか腹立たしくなるんですよ(笑)。そういう時は電子書籍だったらいいだろうなと思います。そういう実質的な利便性と、本のものとしての価値は別だと考えています。
ただ、本の歴史を探っていくと、1830年ころまでは本は中身だけで売られていたそうです。印刷された本を買った人が製本業者に託して子牛の皮などを表紙にして、家紋も押してとじる。表紙は内容とは関係ない、というようなことが、ある時代まであった。だから、「ものとしての本」の形も時代によって変わっているのは事実です。
――電子書籍によって紙の本がなくなるなどという議論もありますが、紙と電子が共存していった方が良いとお考えでしょうか?
宮沢章夫氏: テクノロジーが進化する時に、それに対する批判は出てくる。ただ、それが当たり前になった時に考えてみると、あの批判はなんだったんだろうっていうのは過去に数多くありますよね。携帯電話だって今だったら当たり前だけど、出始めのころはやっぱりいろいろ言われていました。ただ、新しいテクノロジーが登場したら、それをいかに上手に使うかですよね。使われるのではなく、自分にとって有効なものにできるかだと思います。
出会いにより新しい興味が生まれる
宮沢章夫氏: ワープロが出てきて、手書きじゃなくてキーボードになって文学が変わってしまったと、ある時期言われましたが、今そう語るのはちょっと古い感じがします。でも、逆に言うと、なにが違うのかということを、もう少し議論することから、別の文学の可能性が生まれたんじゃないかなと。例えば、人間の思考って真っすぐではない。散発的に出現しますよね。でも書くっていう行為は順番に考えて文字を記していかなければならない。だから頭の中で編集しています。坂口安吾がエッセイで書いていたのは、文章が意識のなかで電光のように出現しているんだけど、それをそのまま書けないという意味の話でした。これすごいですよ。だから安吾がコンピュータを手にしていたらどうなんていただろうと想像するんですね。コンピューターであれば、電光のように出現する言葉をどんどん書いて、後で編集できる。直線的じゃない思考をどのように言葉として定着させていくかということにコンピューターの可能性があると15年ほど前にブログに書いたことがあります。読書にしても、こういうものには紙は向いている、こういうものには電子書籍が向いているっていうのは絶対あるはずですので、一面化してはいけないと思います。議論をしながら、らせん状に進んでいくのかなと思います。
――そういったところにも、事象をさまざまな角度でとらえ直す宮沢さんのものの見方が現れていますね。
宮沢章夫氏: 経済原理のみを追求すれば、無駄はいらないということになりますが、無駄なことの中に面白いことって潜んでいるということがある。そもそも、歴史をさかのぼると、そんなに本って売れるものじゃないということに立ち返らないといけないかもしれません。小説家なんて大抵貧乏だったし、昔の私小説を読むと、もう貧乏のことしか書いてない(笑)。もうかっていたのは一部の大衆小説の、特別な人だけです。本を大きな産業にする必要があるのかどうかということも考えてみる必要がありますね。
――最後に、今後の展望などをお聞かせください。
宮沢章夫氏: いや、あんまりないです。林美雄さんの特番もそうですが、その都度、興味を持ったことをやっていくということです。『80年代地下文化論』だって、別に出版するつもりはなかったんですが、大学で80年代のことをしゃべろうと思ったら、というのも、80年代のある部分について誰も語ってくれなかったですからね、だったら自分でやるしかない、それを知った人が本にしたいと申し出てくれた。その時の興味と、「それ面白そうだな」という人との出会いで、これからも仕事をしていくのだと思います。
最近では、市川海老蔵さんの歌舞伎を書いて、8月にやるんですけど、まさか自分が歌舞伎を書くとは考えてもいなかったし、歌舞伎の世界と関わりを持つとも考えてもいませんでした。でも依頼が来たら、興味を持つわけです。歌舞伎という劇世界もそうですし、市川海老蔵という團十郎の大名跡を継ぐ人が、今後どんな俳優になっていくのだろう、という興味が出てくる。
自分でやりたいと思ったことをやると大体うまくいかなくて、しかもうまくいかなかった時に非常に落ち込むでしょう(笑)。だからそういう風に思うのをある時期から止めて、待っているとなんか来る、と思うことにしました。そちらの方が生き方として気持ちが楽です。あるいは、思いつきでこのあいだ沖縄に行ったんですよ。9月に『夏の終わりの妹』という舞台を上演するんですが、まったく書けないし、なにを書いたらいいか出てこない。だったら、沖縄に行こうと。意味はないんです。行きたかったんです。でもそれが刺激になる。そこからなにかが生まれるんです。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 宮沢章夫 』