藤原智美

Profile

1955年、福岡生まれ。 明治大学政治経済学部政治学科卒業後、1990年『王を撃て』で文壇デビュー。 2年後『運転士』で第107回芥川賞を受賞。 主な著書に『群体(クラスター)』、(共に講談社)、『ミッシング ガールズ』(集英社)、『暴走老人!』(文藝春秋)があり、中でも、住まいと家族を考察したドキュメンタリー作品『「家を作る」ということ』がベストセラーに、続編である『家族を「する」家』(共にプレジデント社/講談社文庫)はロングセラーとなり、『なぜ、その子供は腕のない絵を描いたか』(祥伝社)、『ぼくが眠って考えたこと』(エクスナレッジ)など、ノンフィクション作家としても活躍する。

Book Information

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「繋がるメディア」と「書籍」


――電子書籍の可能性については、どう思われますか?


藤原智美氏: 紙の本が電子書籍に引っ越しすると思う方が多いようですが、それは全くの間違いです。10年、20年後の電子書籍がどのような形になっているのか、誰も分かっていないと思いますし、ネットというメディアに本が合っているのかどうかは、まだ僕には分かりません。ネットは繋がるメディアですが、逆に本は個人に籠もるものなんです。例えば、仮定として村上春樹の『1Q84』が電子書籍になった時には、ページは全部バラバラになってデータ化されて、検索機能も入りますから、1ページ目から読む人もいるかもしれないし、単語の検索から突然110ページ目から読む人がいるかもしれません。『1Q84』を1ページ目から読み出したとしても、あるページでジョージ・オーウェルの『1984年』という小説があることが分かって、それは何だろうということでリンクから『1984年』に関するサイトへ飛んで、今度は、ジョージ・オーウェルとはどんな作家だろうと飛ぶ。すると、1945年のロンドンやスペイン戦争に飛ぶといったように、どんどん繋がっていくので、作品が自己完結しないんです。紙の本ならば、1ページ目から最後のページまで、完全な1人の世界です。そういうものがなくなって、データからデータへどんどん飛んでいくという、ネットの「繋がる世界」に書籍が入っていくんです。

――繋がる世界に書籍が適応できるのかどうかが問題なのですね。


藤原智美氏: 本の市場は10年前からずっと落ちてきていますが、そのままの形で移行できない書籍が、全て電子書籍に向かっているというわけではないのです。紙の本の世界は、あくまで読者対作品といった1対1の関係で、「自己完結させたい」というのに対し、ネットの世界は対話の世界、つまり「検索と会話の世界」なのです。紙の本の場合は1対1といっても相手は作品ですから、結局は、必要なのは自分の想像力だけなのであって、実は、紙の本は基本的に「自己対話の世界」なんです。

――それが、電子書籍の普及しないことの一因でしょうか?


藤原智美氏: 自己対話として自己完結することを、電子書籍に持ち込もうとしていますが、電子書籍は読みながら検索もできますし、他者の言葉と繋がる世界だから上手くいかないわけです。
残念ながら「紙の本はなくなる」と僕は思っていますが、それ以前に、人々の読書に対する意欲がなくなってきているから、本が売れないんです。読書の意欲が対話への意欲にすり替わってきているからです。自分で考えたり自分で言葉を得たりするのが読書だとすると、ネットは、他者の言葉やネットにある、ほかの言葉に依存するわけです。だから皆、悩みや社会問題に対しての思いがあっても、ネットで他者の言葉に依存するのです。本というのは多くの言葉が書かれていますが、努力して最後まで読み通してたとき、それは自己の内部にとりこまれる。つまりその言葉が消化されているわけです。でも言葉を消化する必要がないのがネットの世界です。

――私たちはどういう世界に向かうのでしょうか?


藤原智美氏: 紙の本が減るということは、自分で考えることを放棄する人が増えるということです。思考=検索という世界になってきているんだと思います。今は「絆」や「繋がる」という言葉がキーワードになっていて、「孤独」や「孤立」はネガティブワードになっている。でも、孤独、孤立の背後には個人主義という、近代社会が生み出した素晴らしい思想があるんです。個人主義は利己主義とは違い、自分で自分を客観視して、自分の視野で世界を見る。自分がつまずいたり困ったりした時に、自分を救ってくれるのは、やはり自分の言葉なんです。それが個人主義というもの。でも、今は他者の言葉に依存してしまっているので、色々なフレーズを持ってきて、「これで救われました」「勇気を貰いました」などと言うんです。「自己解決しないでもOK」ということになってしまうと、本当につまずいた時に困ると思うので、それを僕は心配しています。大きなお世話といわれそうですが。

書き言葉の絶滅が意味すること


――自分の言葉を持たず思考できない人たちは、現実の様々な問題に立ち向かえないのでしょうか?


藤原智美氏: 非常に難しいでしょう。実は日本が近代に入って150年、ヨーロッパは500年ほど経つわけですが、国を支えているのは、軍事力や経済力ではなく、実は書き言葉なんです。憲法、法律、あるいは行政文書など、これらは全て印刷されていたり、書かれている言葉によって、初めて近代は成り立ったんです。それが今、ネットに移行して、憲法や司法などに関わるような、問題の証拠捏造も、デジタルワードだから簡単にできてしまう。昔は書き言葉だったから、国会答弁が全部議事録として残っており、この議事録が重要な役割を担っていました。今はそのまま放送されたりTwitterでつぶやいたりして、その言葉で政治が動いていくという「話し言葉の政治」の時代なのです。ある研究者が、国会の議事録でオノマトペ(擬態語・擬声語)を調べたら、10年前と比べると3、4倍になっていたそうです。政治から、あるいは国から書き言葉が衰退し、話し言葉に入れ替わってきているんです。そういったように国家の土台に関しても、書き言葉から入れ替わっていくと、いずれは書き言葉が絶滅し、国の形が変わってしまうと僕は思っています。



だからこそ、今、僕はそういう本を書いたのです。私たちの見ている風景が、これから変わってくると思いますが、それは「書き言葉が終わるから」と考えると分かりやすいんです。僕が紙の本に拘りたいのは、書き言葉のすごさというか、自分がそれで支えられているという思いがあるからです。あと20年間生きたとして、やはり書き言葉だけで何かをやりたいと思う。100年後、どうなっているかは分かりませんが、ここ10年を振り返っても、ネットを検索して出てきた言葉で支えられたという記憶は、1つもないし、また、これからもないだろうと思います。

――紙の本、書き言葉を大事にして、電子書籍と両立できるのでしょうか?


藤原智美氏: 紙の本が残り、自己対話型の思考をする人が残り、なおかつ便利な検索を持つ情報としての本が両立できると最高だと思います。雑誌も新聞も記事の集合体なので、ネットに移行しやすいため、どちらもなくなりつつあります。でも、無理矢理に電子書籍に引っ越しさせようとしても、本は上手くいかない。本は手触りや、持っている感覚など、身体的なことに特徴があります。その身体的なものがすごく大事なのですが、電子書籍だと、画面1つで均一化されていて、文字情報があるだけで、顔とか肌触りのようなものが全くありません。でも、本は読み進める内に、折って印をつけていくといったように、読んだ痕跡を身体的に確認できるわけです。人間が言葉を発するのは、肺を使ったり筋肉を使ったりといった身体活動で、文字をつくる時も同じなんです。ここが原点なのであって、ネットでは、文字が情報になって、身体からどんどん離れていく。「身体性と言葉」という密接に繋がったものを分離するのがネット上の言葉なんです。

著書一覧『 藤原智美

この著者のタグ: 『思考』 『考え方』 『ノンフィクション』 『取材』 『小説』 『スタイル』 『フィクション』 『自己対話』 『個人主義』 『書き言葉』 『検索』 『作り手』

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