人間と「真剣」に向き合うことが創作の源
牧秀彦さんは、時代小説作家として、今最も注目される一人です。剣道や居合に精通し、綿密な考証を基にした、真に迫る描写で人気を集めています。牧さんに、サラリーマン、雑誌記者時代など、作家デビューまでの軌跡や小説の執筆スタイル、今後の創作の展望をお聞きしました。また、電子書籍の普及を踏まえ、作家像や出版の世界における「時代」の変化についても考察していただきました。
失われた日本人の美徳を見つめる
――いつもこちらのお店で執筆されているのですか?
牧秀彦氏: そうですね。仕事の場でもあり、勉強の場にもさせてもらっています。家はもちろん使いますけれども、パソコンを持ち込んで仕事をすることが多いですね。今もちょうど新刊を執筆していました。
――店内の雰囲気は英国風ですが、ここから日本の剣豪が活躍する時代小説が生み出されているのは不思議な感じがします。
牧秀彦氏: 時代物だから環境も昔風というわけでもありません。読者が現代の方ですから、今の方にアピールするには、やっぱり色々知らなくちゃいけない。和のテイストだけでもいけないなというところがあります。もちろん歴史のことを調べて書くのだけれども、それプラス、感覚はやっぱり現代人でなくてはならない。そうはいっても、若い人におもねるばっかりでもいけない、それは難しいところです。
――日本人といっても昔と今では異なる部分が多いですね。
牧秀彦氏: 残念な話、日本人の良かった部分が失われていると感じます。最近すっかり言われなくなったけど、「江戸しぐさ」っていうのがあって、傘をさして人とすれ違う時は、傾けてぶつからない様にするとか、昔の日本人はそういった習慣が美徳としてあったんです。終戦直後も、百田先生の『海賊と呼ばれた男』を読むと、出光佐三さんが戦後の逆境の中、日本中の人のために命をかけて頑張ったということがわかります。こういう立派な方がいらっしゃったことには、非常に感銘を受けます。
――ほかの先生方の作品が創作の刺激になっているのですね。
牧秀彦氏: もう一人挙げると、深田祐介さんという作家がいらっしゃいます。もともとJALにいらっしゃって『スチュワーデス物語』とか、最近では『フライングラビッツ』の原作者の方ですが、深田さんの直木賞受賞作の『炎熱商人』を、高校1年の頃に読んだんです。『炎熱商人』は住友商事のマニラ支店長殺害事件で、殺されてしまった人がモデルになっていますが、そこにも日本人の美徳があります。フィリピンと日本の架け橋になることを、日本の戦後の贖罪という意味も含めて、命をかけて頑張った方がいました。
深田先生も百田先生も大変尊敬していますが、社会人経験のバックボーンがありますよね。僕も大学卒業後、6年間東芝でお世話になりましたが、社会人経験がなくてはならないと思ったのは、『炎熱商人』の影響というか、深田先生の影響ですね。社会人経験なくしては、読者に訴えられるものを書けないという思いはありました。
作家への想いと、父の言葉
――牧さんのお生まれは東京ですね。
牧秀彦氏: 両親が熊本出身で、結婚して東京に来て私が生まれました。父は時代物が大好きで、本棚に池波正太郎先生、柴田錬三郎先生の本がどかっとあって、それを抜き出して、ちょっと大人の世界をのぞき見る様な感じでした。内容がわかってきたのは中学校へ入ってからです。また、小学生の頃から、テレビの時代劇を父とよく一緒に見ていました。そういったものへの興味が培われて小説を書くようになりました。こういう原体験を持っている人は僕に限らず多いと思います。
――作家になりたいという想いはその頃からありましたか?
牧秀彦氏: お話を書く楽しみを知ったのは小学生です。小学校の授業で、椋鳩十先生の『大造じいさんとガン』という話の続きを自由に書くという授業があって、それが楽しかった。中学に入ってから時代小説をよく読む様になって、高校生の時は陸上部と文芸部の両方に入部しました。大学ではワセダミステリクラブに入りまして、先輩方に作家が多いクラブでしたから、よく本を読んだり書いたりしていました。
――大学は早稲田の政経ですね。どういったきっかけで進学を決めましたか?
牧秀彦氏: 父はOA機器や文具関係の商社にいて、40代から政府開発援助に関わって、それこそ『炎熱商人』の主人公の様な仕事をしていました。その親父から「作家になるにしても、堺屋太一さんみたいに堅実な仕事をしてからのほうがいい」と言われたんです。確かに自分の今の筆力では人様の評価に耐えられるものは書けないと思ったし、深田先生を見習う気持ちもありましたから、就職で有利になる早稲田の政経を選びました。
サラリーマンとライター、二足のわらじ
――東芝に就職されたのはどのような経緯があったのでしょうか?
牧秀彦氏: 電機メーカーを選んだ理由は、当時パソコンがどんどん普及していましたから、電機メーカーは成長企業だなと思ったんです。その中で東芝から内定をいただきました。
そして実は、サラリーマン生活6年の内、後半の3年くらいは二足のわらじで雑誌のライターをしていたんです。「別冊宝島」から始めて、リクルートの「ビーイング」や「就職ジャーナル」の仕事をやって、経験を積んだわけです。お小遣いを稼ぐっていうより、文章を書いてお金をいただくことを経験したかったんですね。本当に忙しくて、1日2、3時間睡眠の生活を、2ヶ月くらい続けたと思います。