デビュー作はすんなりと、それから苦労を重ねた日々
―― 最初の本を出版されるきっかけはどのようなものでしたか?
清水克彦氏: 私は41歳の時に最初の本をPHP新書から出しました。子供のお受験の話を番組の放送作家に面白おかしくしゃべっていたら、彼がPHPに話を通してくれたので、一作目はすんなり出せました。それもPHPという大手からしっかりとした新書で出たので、「自分には才能があるんだ」と過信してしまって、なんのあてもないのに2作目、3作目を書いて、色々な出版社に持ち込んだんです。でも、ある大手の出版社では、「あなたのような無名な作家が、こんなテーマの本を書いても売れるわけがないでしょう」と編集者に言われ、1年かかっても返事がこないというところもありました。3冊目の本を出す時は、15連敗ぐらいしたと思います。大手と呼ばれているところはほぼ回りましたが、次々と落とされてしまって、残っているのが文藝春秋と新潮社しかなくなりました。自分の本は文藝春秋や新潮社から出ることはないだろうなと思いながらも、一応、神楽坂に行ってみたんです。たまたま編集部員が外に出ていたのか、応対に出たのが、今『新潮45』の編集長をされている三重博一さんという人でした。三重さんは、私のその『ラジオ記者、走る』の原稿の前書きだけをパッと見て、「これは本にしましょう」と言ってくださいました。その日がくしくも自分の誕生日の10月18日だったので、おいおい泣いてしまいました(笑)。その方が『バカの壁』を手がけていた敏腕編集者を自分につけてくれまして、かなりリメイクしましたが、それから5か月後の3月に出るということになりました。
――三重さんとの出会いが、転機となったわけですね。
清水克彦氏: 結局どういう業種でも、自分を引っ張り上げてくれるメンターのような人がいないと出世しないとか、大きなプロジェクトに参画できないなど、そういう運・不運はあると思います。本を出したいと思う場合でも、そういう目利きの編集者にめぐり合わないとうまくはじけないのかなと思いました。そういう意味では新潮社の三重さんと知り合えたのはすごく転機になったと思います。
――自分の行き先がなかなか見えない、そういう時はありましたか?
清水克彦氏: 10社以上に持ち込んでもダメだった時は「才能ないのかな」とか、「大手では通用しないのかな」などと思いました。1冊出ただけでももうけもので、2作目以降はもう出ないんだろうなという思いもありました。3,000社ぐらい出版社が全国にありますし、3,000社回れば1社ぐらいOKをくれる出版社はあるんじゃないかと思ってはいたのですが、実際には、そこまで回れないので、めげていたという時期もありました。でも、社会性のあるテーマを選んで、自分の伝えたいこともきちんと書いていたので、これを読んでくれる人は必ずいる、なんとか世に発表したい、という気持ちが一番強かったです。
編集者は、自分以外の視点やアイデアを与えてくれる人
――編集者というのは、どのような存在ですか?
清水克彦氏: 自分の視点には持っていないものを与えてくれる、アナザービューを与えてくれる存在だと思っています。「私はこうだ」と思っていてもそれが必ずしもベストじゃない時もあります。私と編集者とは見方もキャラも違いますから、「こういう見方もあるんじゃないんですか?」と内容やタイトル、あるいは帯の文言やデザインにしても、アイデアを与えてくれる人だと思います。
――本に対して、清水さんはどのような思いがありますか?
清水克彦氏: 本で得られるコンテンツは、大学や大学院などに行くと、1コマで4,000円から、高いところでは7~8,000円かかるので、それと比べると、単行本では1冊1500円くらいですから、安いですよね。それが新書や文庫だったらもっと安いわけで、電子書籍ならさらに安くなるんですから、すごくお得なツールだと思います。
大事なのは「マス」を意識すること
――執筆される時に大事にされていることはありますか?
清水克彦氏: すごくシンプルなことですが、分かりやすい言葉で書くということと、多くの人に読んでもらえることを前提とすること。大きく言えばこの2つで、実はその2つは私の欠点でもあるのです。難しい専門書はたくさんありますが、私はマスじゃないものは本ではない、少なくとも1万とか、その位の単位で出ないとメディアとは言えないと思っています。今、本を読まない人が多いので、読書週間の時に新聞社がアンケートをとった結果、ほとんどの人が本を1冊も読んでいない、ということもあると思います。でもそういう本を読まない人たちにこそ本を届けないといけないと私は思っているので、あえて平易な言葉で書いて広く届けることが、私の中で重要なポイントとなっています。