目の前の毎日を精一杯生きることが、明日へとつながる
アナリスト時代は、各種アナリストランキングで1999年から2003年まで5年連続「中小型株」部門のトップに輝き、JPモルガン・アセット・マネジメントでマネジングディレクター兼ファンド・マネージャーを経て、2009年に太田忠投資評価研究所株式会社を設立し独立。インターネットによる個人投資家向けの「投資実践コース」では高く評価されています。『とっておき中小型株投資のすすめ』『投資をするならこれを読め』『就職・転職 会社選びはここが肝心!』『株式市場は現在進行形』をはじめとする著書も人気の太田忠さんに、トップアナリストになるまでの物語や、影響を受けた作家、電子書籍についてお伺いしました。
「今日から君はアナリストだ!」
――2013年8月に、日経のビジネス人文庫から新刊『株が上がっても下がってもしっかり稼ぐ投資のルール』を出されましたが、反響はいかがですか?
太田忠氏: タイトルは日経さんが付けたのですが、8月8日の日経朝刊に広告が出てからすごく売れているようです。今は本が売れない時代なので、本を出す当人も「本当に売れるのかな」と半信半疑だったのですが、結構売れているみたいで、正直、驚いています(笑)。
――投資は、この先、重要になっていくのでしょうか?
太田忠氏: 金融資産は自分で責任を持って作っていくしかないから、投資は必要になってくると思います。今、年金で暮らしている方は、既得権として、すでに生活がある程度保障されていますが、恐らく、私(49歳)より下の年代くらいは、年金はあてにできません。老後の生活を安定させるために、資産運用が重要な鍵を握る時代になってきていますから、投資への関心もどんどん高まってきています。
――大学ではフランス文学科でいらっしゃいましたね。
太田忠氏: 「就職」という視点だけから考えれば、役に立たない学科かもしれませんが、本が好きだったので仏文科を選びました。日本の作家にも、仏文科出身とかフランス文学に影響を受けている人は多い気がします。私は中学生頃から、フランス文学本を読むようになったのですが、高校まではどうしても受験勉強が主になってしまいます。だからこそ、大学ではそうした強制的ではない勉強をしたいと思いました。当時私は文学の頂点は、フランス文学にあるのではないかと思っていましたので、フランス文学科を選びました。実は、神戸大学の比較文学科も受けたのですが、難しくて2年連続落ちてしまって、一方、関西大学は2年連続で受かりました。もう1つ同志社大学の英文学科も受かりましたが、フランス文学科ではなかったのであまり興味がわかず、同級生にその話をしたら「なんで同志社大学へ行かなかったの?」と驚かれました。
――大学を選ぶ基準はどういったものでしたか?
太田忠氏: 偏差値などではなく、自分の好きなことができるかどうか、が決め手です。高校時代はあまり勉強ができませんでしたが、大学の4年間は自分の好きな勉強をすることができて面白かったので、文学部全体の卒業成績ではトップ3に入っていました。大学に残って勉強し続けることも考えましたが、働かずに勉強が続けられるほど裕福な家ではなく、教員免許を取りましたので、学校の先生になろうと考えたのです。でも、当時の大阪府は先生が多くて、教員試験の競争倍率が厳しすぎて不合格になりました。しかたなく、一般企業への就職の道を選んだのですが、いざ就職活動をしてみたら、フランス文学科の男なんて採ってくれるところがなくて困りました。それで、当時人気だった証券会社を受けたら、第一證券(現・三菱UFJモルガン・スタンレー証券)だけが採用してくれたんです。本当にありがたかったです。ただし本音は、モラトリアムの期間が終わるという漠線とした不安感もありましたし、自分が一般企業で働いている姿など想像したこともなかったので、その時は暗澹(あんたん)たる気持ちでした。証券の「しょ」の字も知りませんでしたが、国際本部室に配属してもらえたので、フランス語や英語を活かせそうな仕事に就けたことがうれしかったです。
――当時は、どのような仕事をされていたのですか?
太田忠氏: 海外拠点で海外の機関投資家を相手に営業している社員から「A社についてこういうことを聞かれたが調べてくれないか」というリクエストを受け、電話でリサーチをしたり、外人投資家が東京に来た場合に、通訳のような形で企業に連れて行くアテンドの仕事などが主でした。そういう仕事をしているうちに、海外拠点の多くの投資家から、銘柄分析のレポートのニーズが増えてきたのです。大型株については第一證券の子会社だった経済研究所のアナリストが調べていましたから「国際部は中・小型株を調べよう」ということになって、当時の国際本部長に「今日から君はアナリストだ!」と言われて、急にアナリストになったんです(笑)。
経験から得た自信と共に、自分で道を拓く
――第一証券にはどのくらい勤められたのですか?
太田忠氏: 約6年半です。ちょうどその頃、米国でアナリストがプロフェッショナル化して地位が高くなり、日本でもその追い風が吹いて、急に花形の仕事になりました。それで、お客さんの1社だった、当時のDB モルガン グレンフェル(現・ドイチェ・アセット・マネジメント)から声がかかって、引き抜かれたのです。当時のアナリストは、自分たちが仕事をやり始めた頃は花形の仕事でもなく、「突然追い風が吹いて」脚光を浴びたといった人が多かったと思います。私も最初はやり方も分からずに、とりあえず会社に取材に行ってレポートをまとめてといった感じで、試行錯誤を重ねました。その頃は会社にまだパソコンも1人に1台ありませんでしたから、すべて手書きのレポートです。それは実は今も大事にとってあります。
――暗中模索、試行錯誤の中で、ご自身で切り拓いてきたという感じでしたか?
太田忠氏: 誰も教えてくれないですから、切り拓かなければどうしようもない。まだアナリストの数も少なかったし、地方企業にイギリス人の投資家を連れて行ったら、日本の旗とイギリスの旗をミーティングルームの真ん中に立ててあって、「あなたが初めてうちに来た外人投資家です」と大歓迎されるといった時代でした。そうやって実践の場を踏んでいきましたが、最初は英語の証券用語などを知りませんでしたので、冷や汗もたくさんかきましたし、当時は自信はまだありませんでした。でも、普通の人では行けないような企業にも行けたので、面白かったです。
――引き抜かれた時はどのような気持ちでしたか?
太田忠氏: 第一證券はバブルが終わって厳しくなってきていて、ここに残っていても道が拓けるかどうか分からなかった。だから、自分で拓いてみようかなとちょうど思っていたので、「来るものが来た」と思いました。でも、そのモルガン グレンフェルにも結局3年ぐらいしかおらず、その後は、ジャーディン・フレミング証券(現・JPモルガン証券)でトップアナリストとしてやってきました。「自分で道は拓く!」という感じで、ジャーディンに移籍すると決めた時にはもう高い評価を受ける自信があったんです。私は機関投資家の立場を知っていたので、彼らがどういう情報が欲しいのか、どういう視点で分析すればいいのかを熟知していました。そういう要素は、証券会社で単にレポートを書いているアナリストにはないものなので、私はそれを前面に押し出して、1年でトップになりました。
著書一覧『 太田忠 』