「死病」から生還、アメリカへ
――今に至る歩みを、学生時代まで遡ってお聞かせ下さい。
嶋口充輝氏: 高校1年の時、ネフローゼという病気になりまして、休学して、寝たきりの生活を1年近くしました。我々の時代、この病気は死病で、実際に私の周辺の人たちはほとんど死んでいました。私が生き延びたのは奇跡だったと思います。大学へ行くことも医師から止められていました。高校2年生ぐらいの学力で大学へ入ったと思います。医者から「重いものを絶対に持っちゃだめだ」と言われていたので、大学には紙と鉛筆だけ持って、授業を聞いていました。体育実技もありましたが、水泳や剣道、バドミントンなど、全て見学でした。4年になった時、まだ体の不安もあったし、会社に勤めるのも気がすすまないと思っていたら、友人からアメリカに一緒に行かないかと誘われまして、たまたまフルブライトの留学生として一緒に受かったので、アメリカに行くことにしました。
――アメリカではどのような生活をされていたのでしょうか?
嶋口充輝氏: 1年間でマスターを終わらせようと、睡眠3、4時間で、とにかく必死に勉強しました。でも英語は苦手な上に授業にも慣れないので、自分で勉強をするしかありませんでした。私の友人で和田充夫くんという、慶応から関西学院の教授になった人がいますが、彼が書いた『MBA』という本の中に「嶋口伝説」というのがあって、「彼は靴を脱いで寝たことがない」と、当時のことを面白く書いてくれています。それはウソですが、本当にそのぐらい一生懸命でした。マスターを取った段階で、これで完全に病気から回復したと思いました。高校の時も復学してから再発し、医者から「つぎ再発したら必ず死ぬ」と言われていて、心配しながら大学に通っていたんですけど、もう大丈夫だと確信しました。
――命の危険のあった状態から、そこまでの達成ができたのは、どうしてだと思われますか?
嶋口充輝氏: やっぱり仲間でしょうね。アメリカに行くのも、仲間が「一緒に行こう」と言ってくれたのがきっかけですし、大学に入って色々な仲間ができて、喫茶店に初めて連れてってもらったり、バンドをやっている親友に、「お前も何か弾いてみろ」と言われて楽器をやってみたり、大学の時に世界が広がったのは、仲間のおかげだったと思います。
そして良い先生に恵まれました。大学の教師になった時、僕の恩師に「教師としての立場を築くには、良い環境の学校にいることと、良い仲間、そして良い師匠を持つことが重要で、自分の実力は残りのほんの一部だけだ」と言われました。本当にそうだと感じます。
行けば世界が好きになる
――アメリカで学位を取られてから、どのような道に進もうと考えられたのでしょうか?
嶋口充輝氏: マスターを取ったとき、そのまま博士課程に行こうかというのが1つあったのですが、私の恩師が、「とにかく1回、慶応に戻ってこい」と言ってくれまして、慶應の大学院で助手になりました。幸せなことに、授業を持たず、給料を頂いて自分の研究だけやっていました。しかし、それなら日本で研究するよりも、アメリカで研究した方がいいだろうということで、慶應で今度は教師のための奨学金を使ってアメリカの博士課程に入りました。博士課程を出たら、慶応の助手としてそのまま日本に戻ってきました。
――その後は世界各国で教員をされていますね。
嶋口充輝氏: そうですね。英語は大してうまくないのに、あちこちの学校に呼んでいただいたことはありがたかったです。私はなぜか行った場所が好きになって、離れたくないような気持ちになります。だからヨーロッパに行っても、アジアに行っても、後ろ髪を引かれる思いで、日本に帰ってきました。海外では非常に自由を感じていたんです。
――今も海外にはよく行かれているのでしょうか?
嶋口充輝氏: 今でも好きで、よく行きます。ついこの間も、早稲田大学の私の教え子で、前にボストンコンサルティンググループにいた内田和成教授と、ゼミのOBと一緒にベトナムへ行きました。それまでもモンゴルや上海、タイなどへ行きました。
――海外でご覧になったことがお仕事に生かされることも多いのでは?
嶋口充輝氏: 見てその時に感じることは色々ありますが、そこで得たものを次に使おうという野心は、もうなくなりました。昔だと全部メモを取って、何か講義のネタにしよう、本のネタにしよう、と思っていましたが、今はそういう邪心がなくなり、素直に見たことに感動するということが多いです。
著書一覧『 嶋口充輝 』