人との出会いと「締め切り」が、学究生活を豊かにした
嶋口充輝さんは、マーケティング理論を研究する経営学者です。教育者として、公益団体の役員として、また大手企業の社外役員・顧問として幅広く活躍される一方、多くの論文誌の編集長も務められています。学生時代の大きな病気の体験、恩師や仲間に支えられた学究生活で得られた、周囲の人への感謝を忘れない人生観、そして書籍執筆の原動力にもなっている他者からの働きかけなどについて伺いました。
教え子、仕事仲間から絶えず情報収集
――お仕事の近況をお聞かせください。
嶋口充輝氏: 昨年、法政大学の教授と早稲田大学の客員教授をリタイアしました。元々慶応大学で37、8年間教鞭を執り、その後も様々な学校で教員をやっていましたが、全てクリアにしました。もう大学生活はやめようと思っていたんですが、嘉悦大学の当時の学長である加藤寛先生より博士課程を新設したいというお話があり、博士課程の教授として就任させていただいています。
――団体や企業の役員としてのお仕事も多数されていますね。
嶋口充輝氏: 財団の仕事は昨年、医療科学研究所というところをリタイアさせていただいて、現在は理事の評議員を8つほどさせていただいています。企業の方は、ライオンの社外取締役と、サントリーホールディングスの社外監査役、YKKの経営顧問がメインで、紀文さんは昔から付き合いがあって、アドバイザーのような形になっております。
――大変お忙しいのではないですか?
嶋口充輝氏: 以前よりもゆっくりやらせていただいています。会社の役員会というのは大体、月に1回、多くても2回ぐらい。企業の研修も、昔は週に4、5回は当たり前にやっていましたが、今は年に何回かという状況です。私は肉体的にバタバタしているのはあんまり疲れないんです。頭を使ったり、講演など準備に時間をかけなきゃならなかったりすることが疲れます。今は基本的にはその場で判断して意見を述べるということが多くなりましたから、負担はありません。当日質問を受けても、長い経験があるので、ちょっと考えれば話ができます。経験の中からの情報に、新しい時代の感覚を少しふりかけるような感じです。
――新しい情報はどのように仕入れられているのでしょうか?
嶋口充輝氏: 学生や教え子たちと年中会いますし、会社の方とはいつも会っていますから、そこから情報が得られます。本はあまり読まなくなりましたが、テレビはよく見ています。半分引退したようなしないような状況でも、人とはまだ会いますから、新しい動きとか、世の中の考え方みたいなものは分かるような気がします。
――過去に指導された方々では、研究者や経営者になられた方も多いのでは?
嶋口充輝氏: 私のゼミを出て、教授になったのがもう20人を超えて、みんな私より偉くなっています(笑)。ビジネススクールは、もともと優秀な経営者を育成する機関としてあるものなんですけど、なぜか私のゼミのOBは大学に行って先生になっている人が多いです。コンサルをしながら非常勤講師をしている人を含めれば、膨大な数になります。
――研究者や指導者になられる方が多いのはなぜだとお考えですか?
嶋口充輝氏: ビジネススクールがこの20年ぐらいでたくさんできて、教師が必要になったことが挙げられます。それからもう1つは、私の生活を見て、会社の中で激しいリスクをかけて仕事をするよりずっと楽だと思ったのかもしれません。だいたい昔から、学者だとか役者だとか、儒者だとか、「者」といわれる人たちはリスクを負いません。「者」としてやっていくことは私の性格に合っていて、かなり自由にやってきましたが、それを見て、反面教師的に「あんな楽なことはいかん」という人と、それから同調的に「私たちもやってみよう」という人がいたということでしょう。
「死病」から生還、アメリカへ
――今に至る歩みを、学生時代まで遡ってお聞かせ下さい。
嶋口充輝氏: 高校1年の時、ネフローゼという病気になりまして、休学して、寝たきりの生活を1年近くしました。我々の時代、この病気は死病で、実際に私の周辺の人たちはほとんど死んでいました。私が生き延びたのは奇跡だったと思います。大学へ行くことも医師から止められていました。高校2年生ぐらいの学力で大学へ入ったと思います。医者から「重いものを絶対に持っちゃだめだ」と言われていたので、大学には紙と鉛筆だけ持って、授業を聞いていました。体育実技もありましたが、水泳や剣道、バドミントンなど、全て見学でした。4年になった時、まだ体の不安もあったし、会社に勤めるのも気がすすまないと思っていたら、友人からアメリカに一緒に行かないかと誘われまして、たまたまフルブライトの留学生として一緒に受かったので、アメリカに行くことにしました。
――アメリカではどのような生活をされていたのでしょうか?
嶋口充輝氏: 1年間でマスターを終わらせようと、睡眠3、4時間で、とにかく必死に勉強しました。でも英語は苦手な上に授業にも慣れないので、自分で勉強をするしかありませんでした。私の友人で和田充夫くんという、慶応から関西学院の教授になった人がいますが、彼が書いた『MBA』という本の中に「嶋口伝説」というのがあって、「彼は靴を脱いで寝たことがない」と、当時のことを面白く書いてくれています。それはウソですが、本当にそのぐらい一生懸命でした。マスターを取った段階で、これで完全に病気から回復したと思いました。高校の時も復学してから再発し、医者から「つぎ再発したら必ず死ぬ」と言われていて、心配しながら大学に通っていたんですけど、もう大丈夫だと確信しました。
――命の危険のあった状態から、そこまでの達成ができたのは、どうしてだと思われますか?
嶋口充輝氏: やっぱり仲間でしょうね。アメリカに行くのも、仲間が「一緒に行こう」と言ってくれたのがきっかけですし、大学に入って色々な仲間ができて、喫茶店に初めて連れてってもらったり、バンドをやっている親友に、「お前も何か弾いてみろ」と言われて楽器をやってみたり、大学の時に世界が広がったのは、仲間のおかげだったと思います。
そして良い先生に恵まれました。大学の教師になった時、僕の恩師に「教師としての立場を築くには、良い環境の学校にいることと、良い仲間、そして良い師匠を持つことが重要で、自分の実力は残りのほんの一部だけだ」と言われました。本当にそうだと感じます。
行けば世界が好きになる
――アメリカで学位を取られてから、どのような道に進もうと考えられたのでしょうか?
嶋口充輝氏: マスターを取ったとき、そのまま博士課程に行こうかというのが1つあったのですが、私の恩師が、「とにかく1回、慶応に戻ってこい」と言ってくれまして、慶應の大学院で助手になりました。幸せなことに、授業を持たず、給料を頂いて自分の研究だけやっていました。しかし、それなら日本で研究するよりも、アメリカで研究した方がいいだろうということで、慶應で今度は教師のための奨学金を使ってアメリカの博士課程に入りました。博士課程を出たら、慶応の助手としてそのまま日本に戻ってきました。
――その後は世界各国で教員をされていますね。
嶋口充輝氏: そうですね。英語は大してうまくないのに、あちこちの学校に呼んでいただいたことはありがたかったです。私はなぜか行った場所が好きになって、離れたくないような気持ちになります。だからヨーロッパに行っても、アジアに行っても、後ろ髪を引かれる思いで、日本に帰ってきました。海外では非常に自由を感じていたんです。
――今も海外にはよく行かれているのでしょうか?
嶋口充輝氏: 今でも好きで、よく行きます。ついこの間も、早稲田大学の私の教え子で、前にボストンコンサルティンググループにいた内田和成教授と、ゼミのOBと一緒にベトナムへ行きました。それまでもモンゴルや上海、タイなどへ行きました。
――海外でご覧になったことがお仕事に生かされることも多いのでは?
嶋口充輝氏: 見てその時に感じることは色々ありますが、そこで得たものを次に使おうという野心は、もうなくなりました。昔だと全部メモを取って、何か講義のネタにしよう、本のネタにしよう、と思っていましたが、今はそういう邪心がなくなり、素直に見たことに感動するということが多いです。
メディアの過渡期、臨機応変な使い分けを
――普段の読書スタイルについてお聞かせください。
嶋口充輝氏: 最近、大きなガチッとした本はなかなか買わなくなって、どっちかというと乱読、素読です。講演で必要な部分だけを読むとか、雑誌も大きくてかさばるので、家で読みたいところを破って、持ち歩いています。
――電子書籍はお使いになっていますか?
嶋口充輝氏: 今のところはあまり電子書籍を使うほどの必要性がなくて、紙の本でだいたい足りているかな、と思います。やっぱり僕らは紙に慣れているところもありますし、そういった紙への愛着がなければ最初から電子書籍で十分だと思います。要するにコンテンツだけの問題で、媒体は別になんでもいいわけです。だから若い人にとっては電子書籍の方がはるかにいいでしょう。
――論文誌の編集長もされていますが、論文はかなり電子化されていますね。
嶋口充輝氏: ジャーナルはもう電子化されています。日本マーケティング学会の『マーケティングジャーナル』は、全て電子化にしました。前にいた医療科学研究所の『医療と社会』も完全に電子化しています。ただ、『マーケティングジャーナル』は、読む人が課長さん以上のような人たちで、紙に慣れがあるので、リクエストに応じてプリントしたものをお渡しするという、電子と紙の二段構えでやっています。過渡期的なツールとして、しばらくはそういうスタイルになるでしょう。
――紙と電子は併存していったほうが良いとお考えでしょうか?
嶋口充輝氏: 電子に慣れるには、やっぱり時間が少しかかりますからね。私は、コンテンツにお金を払って、それをどのぐらいの頻度で見るかということを考えると、紙媒体でも不便を感じません。それに今、紙媒体は安いです。それと、厚いガチッとしたタイプの本は飾り的な意味で必要性があるかもしれないので、臨機応変でいいんじゃないかと思います。でも、いずれ電子媒体の方になっていくとは思います。
「書かざるを得ない」がモチベーション
――文章を書くということについて、特別な想いはありますか?
嶋口充輝氏: 私は若い頃、論文や記事を頼まれた時は絶対に断りませんでした。ジャーナルは後に残るし、それをまとめれば本になるからです。後に残るということが重要で、これが文章を書くことのモチベーションになっているのです。もう1つ、私の知り合いに非常に高名なカナダの彫刻家がいて、ある時「嶋口さん、論文を書かないと大学はまずいんですか」と聞かれたので「いや、全く論文を書かなくても、大学は永久雇用だから」と答えたんです。そうしたら「じゃあなんで論文を書くんですか」と聞かれました。その時に、ちょっと考えて「締め切りがくるから、書かざるを得ないんでしょうかね」と答えたら、その人が「そう!我々芸術家も、作品を世にどんどん出している人たちは、ほとんど締め切りがある人なんです」と。流行作家などのモチベーションもそれに似ていると思います。
僕の処女作は、英語で『Marketing Channels in Japan』といって、博士論文をむこうの方で出版化したものですが、日本に帰ってきた後、自分の先生が本のシリーズの統合編集者みたいなことをやっていて、「君も何か1冊やれ」と各々に振り分けるわけです。そうすると締め切りができて、書かざるを得ないから書く。すると、それをベースに関連出版社から話があって、また締め切りができる。これが良いモチベーションになっています。例えば講演で新しいテーマについて頼まれると、資料を用意して準備しますから、それがだいぶ溜まり、他にも雑誌の特集などで記事を書いたものもたまってくる。出版社の方から、そういうものを1冊の本にしていくという話が多かったような気がします。
――本を作るときには編集者の働きかけが重要なのですね。
嶋口充輝氏: 締め切りを守らせるために鬼の催促をしてくれる編集者は、やっぱりいいです。締め切りを明確にして催促しないと、7割がたはズルズル締め切りが延びてしまう。1回区切っておかないといつまでたってもできない。締め切りは、もっと書きたいことがあっても、一応そこまでのところでまとめます。これだけ本が氾濫して出ている中で、それなりに出し続けるためには、締め切りは重要な役割をはたしているのだと思います。
びしっと「古典」ができる学者に
――今後の活動の展望をお聞かせください。
嶋口充輝氏: 今まで通り、言われるままにやってくというのが一番いいのかなと思います。我々は研究を生涯やりつづけ、頼まれれば講演もします。僕たちの世界は、落語の世界に似ていて、落語には古典落語と新作落語がありますが、若い人たちは新作落語をやればいいんです。同様に僕たちの世界でも、若い人たちは新しい情報をどんどん取り込んで、時代に合ったコンテンツを出していけばいい。しかし僕らはそんなことはできない。情報は一応追っているからフォローはできますが、自ら新作落語をしたら、滑稽な感じになってしまうかもしれません。原理原則をびしっと明らかにして、しっかり伝えていくという役割です。情報が氾濫してくると、色々なものは出てくるけれど、重要なことは結局、「原則」なのです。理論といってもいいかもしれません。基礎的なことをやるにあたって、もう1回古典のようなものをちゃんと読んでみたいです。
――チャレンジしてみたいことなどはありますか?
嶋口充輝氏: 今まではあまり関心がなかったのですが、もう1回経済学と、生物学の中の生態学のようなもの、エコロジーや科学哲学といったものをしっかりやってみたいと思っています。科学方法論は大学院の時に博士課程で教えていて、仲間たちが集まって、せっかく授業でやっていたのに何もしないのはもったいないから、ということでマーケティング科学方法論の本を書いたのですが、非常に難しい本になってしまいました。僕はもともと経済学部からマーケティングをやっていますから、やっぱり経済学の論理性や、物事の考え方というような基本的なところが活かされているので、そこをもう一度しっかりやってみたいです。そこに、動態的な均衡というものを目指す生態学のような考え方がうまく入ってきたらいいな、という気持ちがあります。でも、締め切りがないから、どうなるかは分かりません(笑)。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 嶋口充輝 』