型を知っているから「型破り」ができる
――ものづくりやデザインについて小さな頃から興味がおありだったのでしょうか?
赤池学氏: 僕は生まれも育ちも東京都大田区の大森で、家の周辺には旋盤屋さんや金型屋さん、メッキ屋さんなどがあって、しょっちゅう工場に潜りこんでは、職人さん達に教わりながら旋盤を使って、金属をバイトで削らせてもらったりしていました。何を作るというわけではないのですが、金属をピカピカにするだけでうれしかったですね。そういう経験をずっと重ねてきたので、高校時代にはバックロードホーンを作ったり、それが進化して仲間とシンセサイザーを作ったりしていました。僕らの時代は電子ブロックみたいな理科系、ものづくり系の玩具が流行っていたので、将来は工学部に入ろうと思っていました。
――大学では生物学を学ばれていますが、どのような経緯だったのでしょうか?
赤池学氏: 僕らが大学受験をした頃は、ワトソン、クリックがDNAの解析に成功したりしていて、「21世紀はバイオの世紀だ」というトレンドがあったので、趣旨替えをして大学院までは生物学、具体的には昆虫発生学を研究していました。ただ、昆虫発生学とか形態形成の世界は、最先端の非線形の物理学とか波動理論とか、高度な物理・数学の能力がないと成り上がっていくのは難しい。「これは無理だな」と思いました(笑)。そんな時、電子顕微鏡などで昆虫とか卵(らん)を観察していて、ある時「生物が形作るデザインの合理性を人工物に展開できる」と思ったんです。もともとものづくりが好きだったこともあって、大学院を受けました。芸術の大学院を受けましたが見事に落っこちて、静岡大学の大学院へ行って工学部で設計や美学を学びました。2年で中退しちゃったんですけど、それがデザインの世界に入ったきっかけです。
――就職してからはどのようなお仕事をされたのでしょうか?
赤池学氏: 読売新聞の広告局に入って、そこで『読売住宅案内』の創刊とか、広告企画の仕事をやらせてもらいました。たぶんその時、広告局も科学技術が理解できる広告マンを欲しがっていたんだと思います。僕はサイエンスについても技術についても浅く広くは分かるので、単なる商品のイメージ広告企画ではなくて、新商品が持っている技術的なバリューというものを理解した上でいろんな広告企画を作りました。この時代に体験したことが、今のビジネスとつながっています。自動車の広告企画から、ペット食品、不動産、金融の広告企画など、いろんな業種を浅く広く見てきたので、食品から地域開発まで、その課題とノウハウを蓄積することができました。
――科学の知識がデザインや商品開発にどのように活かされるのでしょうか?
赤池学氏: 知識とか技術を、従来にはなかった価値とかインパクトのある商品としていかに展開するかということを絶えず考えています。逆に言うと、型が分かっているから「型破り」ができる。例えば少し前の仕事で、人工光とか太陽に当てると8時間ぐらい光り続ける蓄光タイルがあって、それのまっとうな使い方は避難誘導灯を無電力化するとか、夜間の電力のいらないバリアフリーのサインとして活用したりといったことなのですが、光るんだったらネイルアートとかプチデコとか、違う商品領域にも展開できると思いました。生花を光らせられないかと考えて、粉にしてインクを吸わせるようにすると、夜に暗闇で光るシクラメンの切り花ができたりするわけです。
子育てに向き合って気づいたこと
――独立されて、デザインコンサルタントやジャーナリストとして活動されるようになったのはなぜだったのでしょうか?
赤池学氏: 読売新聞に4年間いたんですが、その時代はバブルが好景気に向かっていく最中で、広告局の企画マンとしての経験や人脈を活かして、独立して新規事業提案や新商品開発の企画コンサル会社を立ち上げ、不動産とか住宅などの商品開発を始めました。その時代はバブルでしたから、いわゆる億ションのデザインとか、石亭グループさんと日本一の金持ち達が集まるリゾート施設の開発・提案をしたり、バジェットの大きい仕事をやってウハウハしていた時代でもありました。ところが、僕が32歳の時、親父が脳出血で半身不随になって、経営していた注文紳士服の店を畳んで家族中で介護をするようになりました。でも僕は、家族の目が障がい者になった父親に向けられている間にも、家庭をほったらかしにして仕事ばかりしていました。すると、翌年33歳の時に、うちの嫁さんが「背中が痛い、腰が痛い」と言い出して、病院で診てもらったら、悪性ガンの末期で、もう3カ月しかもたないと言われたのです。半年ぐらい闘病しましたが、2歳の長男と6歳の長女を残して逝ってしまいました。子育てをしながらベンチャー企業はやれないので会社を相棒に任せて、どうやって生活していくかと考えた時、地元の素晴らしい技術や技能を持った町工場を取材する、いわゆる技術ジャーナリストに転身し、読売新聞や雑誌に書いたり、本を出版したりするようになりました。
――ユニバーサルデザインへの興味もそのころからおありでしたか?
赤池学氏: 半身不随になった父の介護や、嫁さんの闘病生活、幼い子ども達と接した経験が、おそらくユニバーサルデザインやキッズデザインに直結しているのだと思います。例えば、娘が幼稚園の上の学年のころ、2歳の弟と遊ぶ。仕事をしながら見ていると、お姉ちゃんは物心ついていますから安心、なんですけれども、お姉ちゃんがやることを乳幼児が真似をする瞬間、とてつもなく危険なことをし始める。お姉ちゃんが絵を描いているマーカーのキャップが床の下に転がっちゃうと、下の子がそれを舐め出して、飲み込みそうになる。誤飲すれば窒息死してしまうかもしれない。
子育てをしながらジャーナリストをやっている時代に、バリアフリーデザインに関わっていたインダストリアルデザイナーのパトリシア・ムーアさんや、彼女の紹介でユニバーサルデザインを提案したロナルド・メイスさんとご縁ができて、彼らの話に衝撃を受けました。先ほど言ったセンスウェアとか感性価値で、技術に頼らなくても物に共感できるというデザインの力、商品の魂みたいなところにお客さんが共感してくれることが分かってきたのです。
また、長男が生まれたころに家を新築したのですが、長男がアトピーとぜんそくになりました。その時はシックハウスなんて言葉はなかったのですが、アメリカの低所得者の住宅で全く同じ症状が出て、建材の化学物質が原因だという論文にたどり着きました。そこで、心ある建材メーカーさんとか、住宅メーカーさんと一緒に、シックハウスという考え方を世の中に発信をして、シックハウス症候群を起こさない住宅商品とか建材の開発コンサルなどもやるようになりました。