次の目標のために東大へ
――読書遍歴と絡めて、どのようにして今の道に進まれたのかを、幼少時代まで遡り、お聞かせください。
柴田明夫氏: 子どもの頃はほとんど読書をしておらず、どちらかというと小枝の刀を差して、近所の仲間たちとチャンバラごっこに明け暮れていました。栃木県北部の那須高原に住んでいて、当時はまだ開拓農民などがいました。山や森、田んぼもある自然溢れる環境だったので、読書よりは外遊びの方が多かったですね。
――ご両親は本がお好きでしたか?
柴田明夫氏: 父は、よく本を読んでいました。文芸春秋や岩波新書などが積み上げられていた記憶があります。大正12年生まれで、東京物理学校時代に学徒出陣。海軍少尉として横須賀の軍港でエンジンを作っていた話をよく聞かされました。終戦と同時に祖母が疎開していた那須に戻って農機具の製造会社を設立しました。耕運機やサツマイモなどの芋掘り機など、那須の土地にあった農業機械を創意工夫して製造。酪農家向けに牛舎なども作っていました。
――勉強はいつ頃から本格的に始められたのですか?
柴田明夫氏: 本格的に受験勉強を始めたのは高校に行ってからです。中学校までは相撲部と陸上競技部に所属。陸上は当時80メートルハードルの選手で、県の放送陸上で優勝しました。相撲は団体戦で県優勝しました。今でも私の母校の黒磯中学校では、これらの記録が記念の銅板に刻まれています。
高校は、新しくできた宇都宮東高校に入りました。私は5期生でしたので、当時は若い先生が多くて、「宇都宮高校に追いつこう」と意気高く、それが私にとって良かったと思います。
――その時には将来のことを考えられていましたか?
柴田明夫氏: まだ決まっていませんでした。最初は家の跡を継ぐつもりで慶応の工学部に入ったのですが、籍を置くだけで翌年、東大の理科Ⅱ類を受け直しました。大学には受かったものの、次の目標を喪失。何をしたら良いか分からなくなった時期もありました。当時は本を書くことは、頭になかったと思います。
読書の必要性を感じる
――大学時代は本を読まれていましたか?
柴田明夫氏: 大学時代は周りが優等生ばかりで、その中で、自分はあまり本を読んでないなというのが分かりました。それで、手当たり次第に本を読み始めました。当時は、大江健三郎や開高健、安部工房などを駒場寮の学生たちは読んでいましたが、私には難し過ぎて少しも面白いとは思えませんでした。そこで、「野菊の墓」や「次郎物語」などから読み始め、柳田國男の「遠野物語」といった民族学に惹かれていきました。
――どのような本がお好きですか?
柴田明夫氏: 雑学です。学生時代は、岩波新書や中公新書など、教養が身に付くような本を手当たり次第に読みました。当時はよく分からなかった本も、「ものいわぬ農民」や「大地の微生物」など、今改めて手にとってみるととても面白い。丸紅に入って研究所に異動になると、益々読書の必要性を感じて、単にマーケット追いかけるだけではなくて、全体を把握する俯瞰的な考えや目を養うための読書。それから、専門的な分野の読書。穀物のマーケットであれば、トウモロコシや砂糖、あるいはコーヒーの世界がどうなっているのかということを、深く知ることができる読書をしました。それからやはり、歴史を見ることも必要ですね。当時は、読書によって知識や色々なものを吸収していたので、1日1冊読もうと自分なりに誓ったのです。友人の遠藤健(後に損保ジャパン専務)さんとよく飲みに行ったり遊んだりもしましたが、その後にも必ず本を読むことを心掛けました。
著書一覧『 柴田明夫 』