柴田明夫

Profile

1951年、栃木県生まれ。1976年東京大学農学部卒業後、丸紅に入社。鉄鋼第一本部、調査部を経て、2001年に丸紅経済研究所主席研究員、2009年に丸紅経済研究所代表を務め、2011年に資源・食糧問題研究所を設立、代表に就任。農林水産省「食料・農業・農村政策審議会」「国際食料問題研究会」などの委員を務める。日本大学、法政大学、日本女子大学非常勤講師。主な著書に『食糧争奪』『資源インフレ』(日本経済新聞出版社)、『水戦争』『飢餓国家ニッポン』(角川SSC新書)『資源に何が起きているか?』『今、資源に迫っている危機』(TAC出版)など。近著は『「シェール革命」の夢と現実』(PHP研究所)。

Book Information

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一歩踏み込んで、提言し続ける



柴田明夫さんは、1976年に東京大学農学部卒業後、丸紅に入社。鉄鋼第一本部、調査部、業務部産業調査チーム長を経て、丸紅経済研究所では代表を務められました。2011年には定年退職を機に株式会社資源・食料問題研究所を開設し、代表に就任。世界の資源・エネルギー・食糧問題に対し日本はどう立ち向かえばいいか、といった講演や執筆を行う傍ら、農林水産省の政府委員や法政大学大学院の非常勤講師を務めるなど、精力的に活動されています。長期のコモディティーマーケットを見通す柴田さんの目から見た、今世界で起こっている様々な変化についての考察をお聞きしました。

資源を切り口にして世界経済を眺める


――近況を交えながら、30年以上に渡る資源・食糧問題への取り組みや、現在の研究所のお仕事をご紹介いただければと思います。


柴田明夫氏: 資源のエネルギーなどへの問題提起をした『「シェール革命」の夢と現実』を含め、今年は全部で3冊上梓しました。法政大学大学院での授業(国際資源エネルギー食糧政策)や農林水産省の農業農村振興整備部会などの委員に関しては、丸紅時代の研究活動の延長といった感じもあります。

――丸紅時代はどのようなことをされていましたか?


柴田明夫氏: 入社後4年間は鉄鋼部門で営業を行っていました。80年に調査部に異動し、そこで穀物やエネルギー、鉄鉱石、非鉄などの資源市場の調査分析を行うようになりました。と同時に、これら資源市場に共通するファクターとして、為替や海運市況や主要国経済などの分析を行いました。当初は、資源市場に影響を及ぼす国としてはアメリカ経済が重要でしたが、90年代以降は、中国も主要な調査対象になりました。特に、今世紀に入ってからは、資源を切り口にして世界経済を眺める、ということをやってきたわけです。
商社は資源をトレードしています。海外の資源を買い、需要家に売るのですから、そこに価格変動リスクが生じます。だから当時は商社の資源部隊にとってはwhenとhow、つまり「いつ買う」のか、「どのようにして持ってくるのか」という2つが重要でした。「いつ買う」のかというのは「相場を張る」ということになってくるのですが、おおよそ相場では10回のうち8回買っても、残りの2回で大負けしてしまう。その負けが大きいということから、基本的には商社は「宵越しのポジションは持たない」すなわち相場を張るのを避けるようになりました。となると、商社にとって資源ビジネスではhowが重要になってくる。Howというのはロジスティックス(原材料調達から生産・ 販売に至るまでの物流)のことで、これを他社よりも如何に効率的に行うかが重要になってきます。

――whenよりもhowが重要、ということでしょうか?


柴田明夫氏: そうですね。しかし、商社がwhenにこだわらなくなれば、結局マーケットをよく見なくなっていく、ということに繋がるのです。例えば昔は、穀物トレーダーは自分の「買い」あるいは「売り」ポジションを持っていましたから、夜に銀座で取引先と酒を飲んでいても11時を過ぎるとシカゴのマーケットが気になって仕方がないという状況でした。「市場を見る」ということは、将来予測するということです。当時は、トウモロコシや大豆に関する相場のプロが商社の中に必ずいましたが、howだけ考えれば良いということになると、次第にそうしたプロも少なくなり、あまり相場に真剣ではないトレーダーが多くなった気もしています。
資源については、原油や金属、穀物など、どれもそれぞれ相関関係があります。例えば、原油価格が上昇すれば穀物など農産物価格も上がります。何故なら、近代農業はトラクターの燃料、農薬肥料など石油付けであり、原油が上がると穀物価格も生産コスト面から押し上げられるためです。そういった資源の全体的な関係を見ていると、今世紀に入って、特に中国が大きな存在として台頭してきたことによって、資源市場のステージが変わったと私は感じています。

中国という大きな存在



柴田明夫氏: 例えば鉄です。現在の世界の粗鋼生産量は15億トンを超えていますが、90年代位までの過去30年間は、7億トン台で推移していました。それが2000年以降、中国がマーケット入ってきたことによって8億トンの壁を超え、いまや2倍に増えた。中国の粗鋼生産は以前から拡大基調にありましたが、特に2001年にWTO(世界貿易機関)に加盟したのを契機に経済成長が加速したことで、世界経済に非常に大きな影響を与えるようになりました。現在、世界の粗鋼生産量の半分は中国一国の生産によるものということになります。他の非鉄や穀物などの分野でも生産量の3~4割が中国です。経済規模も、2001年にGDPでイタリアを抜き世界第6位となり、2010年では日本を抜き世界第2位のGDP大国となりました。2012年現在では、日本が5兆ドル台に留まっているのに対し、中国はもう8兆ドルを超えています。その累積的な拡大が、翌年の累積拡大をもたらし、資源のマーケットにも累積的な需要拡大というかたちで、大きな影響を与えてきた。だから、資源のマーケットを見る時には中国をはずせない。そういう時期に私は定年を迎えたのですが、食糧やエネルギー、あるいは鉱物資源の問題など「まだやり残したことがある」という思いがあったので、研究所を立ち上げたのです。やっていることはそれほど変わっていないのですが、今は丸紅経済研究所という立場を離れて、自由に判断ができるようになったとは思います。



――今の激動の時代を見て、どのような思いがありますか?


柴田明夫氏: 何が起きるか分からないので、毎日遣り甲斐があって面白い。今世紀においては、少なくとも3つの大きな出来事がありました。1つは2001年9月11日の同時多発テロ。以後世界はテロとの戦争が始まりました。現在のシリアの内戦も関連があります。2つ目は2008年9月15日のリーマンショック。3つ目は中国の台頭です。2010年の末からはアメリカ発の金融危機がギリシャの債務問題というかたちでヨーロッパに飛び火して、今はその影響が中国に現れてきています。中国はリーマンショックの対策として4兆元(約60兆円)の財政支出を行いましたが、その後遺症が現れてきています。EU向けの輸出が減少し、2011年に入って中国経済が減速しているにも関わらず、地方政府による固定資産投資の伸びが止まらない。中央政府は銀行に対しこれら地方政府への融資を禁止しているにもかかわらず、銀行を経由しない資金が流れていく。いわゆるシャドーバンキングという問題で、もう成長が止まったにも関わらず不動産など、固定資産投資が止まらないから、このままいくと過剰投資という問題も出てくる。これは地方融資台と呼ばれる信託銀行や正規の銀行でない投資銀行が、高利回りの理財証券を発行して資金集め地方政府に買いだすというもので、まさにアメリカのリーマンショックと同じ構図なのです。だからこそ中国の成長がスローダウンすれば、様々な影響が起きるのは避けられない。そういう面では、世界経済の先行きには暗雲が立ち込めていると感じています。

次の目標のために東大へ


――読書遍歴と絡めて、どのようにして今の道に進まれたのかを、幼少時代まで遡り、お聞かせください。


柴田明夫氏: 子どもの頃はほとんど読書をしておらず、どちらかというと小枝の刀を差して、近所の仲間たちとチャンバラごっこに明け暮れていました。栃木県北部の那須高原に住んでいて、当時はまだ開拓農民などがいました。山や森、田んぼもある自然溢れる環境だったので、読書よりは外遊びの方が多かったですね。

――ご両親は本がお好きでしたか?


柴田明夫氏: 父は、よく本を読んでいました。文芸春秋や岩波新書などが積み上げられていた記憶があります。大正12年生まれで、東京物理学校時代に学徒出陣。海軍少尉として横須賀の軍港でエンジンを作っていた話をよく聞かされました。終戦と同時に祖母が疎開していた那須に戻って農機具の製造会社を設立しました。耕運機やサツマイモなどの芋掘り機など、那須の土地にあった農業機械を創意工夫して製造。酪農家向けに牛舎なども作っていました。

――勉強はいつ頃から本格的に始められたのですか?


柴田明夫氏: 本格的に受験勉強を始めたのは高校に行ってからです。中学校までは相撲部と陸上競技部に所属。陸上は当時80メートルハードルの選手で、県の放送陸上で優勝しました。相撲は団体戦で県優勝しました。今でも私の母校の黒磯中学校では、これらの記録が記念の銅板に刻まれています。
高校は、新しくできた宇都宮東高校に入りました。私は5期生でしたので、当時は若い先生が多くて、「宇都宮高校に追いつこう」と意気高く、それが私にとって良かったと思います。

――その時には将来のことを考えられていましたか?


柴田明夫氏: まだ決まっていませんでした。最初は家の跡を継ぐつもりで慶応の工学部に入ったのですが、籍を置くだけで翌年、東大の理科Ⅱ類を受け直しました。大学には受かったものの、次の目標を喪失。何をしたら良いか分からなくなった時期もありました。当時は本を書くことは、頭になかったと思います。

読書の必要性を感じる


――大学時代は本を読まれていましたか?


柴田明夫氏: 大学時代は周りが優等生ばかりで、その中で、自分はあまり本を読んでないなというのが分かりました。それで、手当たり次第に本を読み始めました。当時は、大江健三郎や開高健、安部工房などを駒場寮の学生たちは読んでいましたが、私には難し過ぎて少しも面白いとは思えませんでした。そこで、「野菊の墓」や「次郎物語」などから読み始め、柳田國男の「遠野物語」といった民族学に惹かれていきました。

――どのような本がお好きですか?


柴田明夫氏: 雑学です。学生時代は、岩波新書や中公新書など、教養が身に付くような本を手当たり次第に読みました。当時はよく分からなかった本も、「ものいわぬ農民」や「大地の微生物」など、今改めて手にとってみるととても面白い。丸紅に入って研究所に異動になると、益々読書の必要性を感じて、単にマーケット追いかけるだけではなくて、全体を把握する俯瞰的な考えや目を養うための読書。それから、専門的な分野の読書。穀物のマーケットであれば、トウモロコシや砂糖、あるいはコーヒーの世界がどうなっているのかということを、深く知ることができる読書をしました。それからやはり、歴史を見ることも必要ですね。当時は、読書によって知識や色々なものを吸収していたので、1日1冊読もうと自分なりに誓ったのです。友人の遠藤健(後に損保ジャパン専務)さんとよく飲みに行ったり遊んだりもしましたが、その後にも必ず本を読むことを心掛けました。

資源の濃縮、情報の濃縮


――その読書経験が今のお仕事に影響を与えていると思いますか?


柴田明夫氏: その頃から、読んで気に入ったところや、後で資料作製や執筆の際に使えそうなところを読書ノートに書き留めておくことにしました。そのノートが今は45冊くらいあって、内容的には、8000冊近い情報が蓄えられています。例えば原油をテーマに寄稿文を書く場合、読書ノートを引っ張り出して、関連する本の情報に一気に目を通す。そうすることで、重要なキイワードや歴史を再確認し、新たな分析手法や切り口を発見することができる。そういった意味では貴重な資料だと思っています。



私はよく「資源は濃縮だ」と言っているんですが、これらのノートもある意味、情報の濃縮なのです。本を読んで、ノートに濃縮するといった方法で、自分の中へ取り入れていく。石炭にしろエネルギー石油にしろ、偶然にその場所に濃縮されたものなので、そういう意味では同じような気がしています。また、頭の整理という意味では、大学で教えることも有効です。人に理解してもらうために創意工夫することも、重要だなと思っています。

――丸紅に入社されようと思ったきっかけは、どういったものでしたか?


柴田明夫氏: ある意味、偶然でもありました。当時は昭和51年でオイルショックの時代だったので、採用数が減っていました。就職活動では友人と農林中金か商社か、という話になり、2人で会社訪問しようということになったのです。まず住友商事に行こうと、東西線の竹橋で降りたら、目の前に丸紅がありました。そこで丸紅を受けようということになったのです。幸い、農林中金も丸紅も両方内定をいただいたので、友人は農林中金、私は丸紅を選んだのです。今考えると丸紅に入社して非常に良かったと思います。どの商社にも経済研究所がありますが、それぞれスタンスが違います。内部指向で、経営企画的な研究所もありますし、著名な個人が大きな権限を持っている研究所もあれば、地方の自治体に対して強い研究所もある。丸紅の場合は、比較的に個々の研究員には自由な活動を認めてくれたことが、良かったと思います。

――本を出す、ということはいつ頃から考え始めましたか?


柴田明夫氏: 90年代には色々と原稿依頼などは来ていたので、書き溜めていくうちに次第に本を出すことを考え始めました。当時も、湾岸危機やアジア通貨危機など新たな研究テーマとなる問題が次々に起こり、原稿依頼があれば引き受けていましたが、その際、自分にとって無理難題だなと思われるテーマなどにも積極的に取り組みました。当時は、日経産業新聞に「本の紹介」欄があって5年間ほど、月に2回、400字位で新書の紹介をしていました。初めにまず、私の方から候補となる本を6冊選び担当の新聞記者に知らせて、その中から2冊選んでもらい書評を書く。でも、その2冊を改めて読んでみると、内容が薄く紹介分を書くのに一晩中かかったこともありました。本全体を紹介しようとすると味気のない解説文になってします。私のほかにも書評を依頼されている人がいましたので、内容によっては、ほかの人の書評が載ったりして、悔しい思いをしたこともあります。

――そこで鍛えられた、という感じでしょうか。


柴田明夫氏: そうですね。書評は全体を紹介する必要はなく、本の中の「あっ」と思う一言二言や、こんな切り口がある、ということを具体的に採りあげる。また、著者はどういう人なのかということも必ず書きますし、本のなかで著者が何を主張しているのか、それに対して自分の考え方も加えます。それらを織り交ぜればすぐに400字になります。そういった意味ではかなり苦労したので、文章を書く上ではその5年間で、ずいぶん鍛えられたと思います。

研究をしてきたのは、本を書くための準備だったのかもしれない


――研究を積み重ねて、それを一般の読者に伝えるようになった執筆のきっかけはどういったものだったのでしょうか?


柴田明夫氏: 本を書きたいという思いは漠然と抱いていましたが、2006年の頃に日経から話を持ちかけられ、執筆を始めました。私もそろそろ定年という着地点も見えていたので、それまでに自分が研究してきたことを、まとめておこうと考えたのです。それまで研究などをやってきたのは、本を書くための準備だったのかなという感じもしていました。

――初めての執筆はどのような感じでしたか?


柴田明夫氏: 初めての執筆ということもあり、自分のやり方で良いのかどうかも分からなかったのですが、幸い担当してくれたのが、細谷さんという優れた編集者だったのです。出版できたのは、やっぱり良い編集者ありき、というところもあると思います。

価値判断が重要


――執筆に対するこだわりや、書く上で大事にされていることはありますか?


柴田明夫氏: 私は研究所の部下にも話していたのですが、あるテーマをまとめる際、事実認識だけでなく価値判断が重要だと考えています。データ、事実をきちんと捉えていても、そこで終わっては、単に過去を分析したに過ぎない。一歩踏み込んで予測まで行う必要がある。現状分析に比べて予測は次元が1つ上がるのです。結果が付いてくるし異なる見方の者からの批判も受ける。だから研究者も真剣になる。それから価値判断というのも必要になってくる。自分が価値判断を行っていれば、これはおかしいとか、良いとか、こうすべきだという判断ができますから、自ずと提言につながるわけです。でも、今の情報時代ですと「これは間違っているだろう」と、批判されることもあるのですが、そうした批判に応えることで初めて自分の文章や、見識になっていくのだと私は思っています。

――価値判断の上の、提言が必要なのですね。


柴田明夫氏: そう思います。冒頭に話した今世紀に入ってからの3つの大きな出来事は、資源の市場にその影響がより先鋭的に現れてきたので、そこに着目して『資源インフレ』と『食糧争奪』という本を書きました。安い資源の時代は終わったのだから、これからは濃縮された資源を大事に使っていかなくてはいけない。資源価格の高騰を嘆くのではなくて、新しい省エネ技術や、社会の変革などへ繋げていかないと解決にならない、ということを消費者に対して主張したかったのです。しかし、社内でもなかなか理解してはもらえなかった。
以前、チリの銅鉱山に投資をするという話がありました。銅の値段は、過去20年を振り返ってみると、トン当たり大体1500ドル。それが2005年には3000ドルを超えてきました。安価な銅時代は終わって、新しい水準に上がっていくといった動きが始まった、と私は見ていました。しかし、投資する立場に立てば、現在の3000ドル台というのは一時的かもしれず、投資して良いのか、という話になるわけです。今までならば、過去20年の銅の値段から将来のことを判断するというやり方でも良かったのですが、今は時代が変化して、そういったやり方ではあまり意味がないのです。チリの鉱山を買った当時、銅は3000ドルだったのが、今は7000ドル台で、高い時は10000ドルまで上がりましたので、その投資をして良かったと思います。そういった2、3歩も踏み込んでの提言主張がなければ、単なる評論家でしかありません。ただし、間違うとリスクもあるので、常に時代の流れを見ていかなければなりません。

――リスクがあっても提言し続けるということは、使命感のようなものがあるのでしょうか?


柴田明夫氏: 自分で本を読んだり、情報を発信していくと、それに応じて色々な情報網を得ることができ、必要な情報が集まるようになった。だからこそ、常に発信していけというメッセージを感じます。自分の持っているものを著作にも反映させて、分かりやすく伝えようと思っています。
「伝えたい」という思いがあれば、必要な情報はおのずと集まってきます。便利なので、私は情報収集にはインターネットも活用します。でも、気をつけなければいけないのは、インターネットにおける情報は膨大で、個々には整理されているけれど、自分なりの見方が必要だということです。

体積を持った情報が必要


――たくさんの情報の中で、それぞれをどう捉えるのか、ということですね。


柴田明夫氏: インターネットの情報は表面的なものなのですが、私たちが必要としている情報というのは言わば体積を持った情報です。歴史、全体像として1つ1つの深みのある情報は、なかなか得られない。インターネットは、表面を見たり、確認するのには、非常に良いです。電子書籍も同様です。でもじっくり向き合って考える時は、読書メモや本の走り書きなどを見ると、その当時はなんでこんなのを書いたんだろうという、その思いや発想などが浮かんでくるのです。

――今後の展望をお聞かせください。


柴田明夫氏: 講演活動と執筆、そしてコンサルの仕事の3本立てです。電話でのやりとりも多く、農水省や外務省など政府サイドからの報告などもありますし、ロイターも日々のリポートを送ってくれて、意見の交換もするので、勉強になります。そういったやりとりがあるから、毎回、おのずと次のテーマが浮かんでくるのだと思います。必要な時期に必要なものを受け取り、そこからどんどんと推察していくので、次の研究テーマを何にするかは、明確には固まっていません。

――次に書きたいと思っているテーマは、どういったものですか?


柴田明夫氏: こうした中で今、私が書こうとしているのは、中国の豚についての話です。アメリカの農務省の今年の7月の需給報告を見ると、中国の小麦の輸入が、6月までの見通しだと320万トンだったのが、7月になると突如、850万トンに増えた。それが9月には950万トン。その急激な動きは、なんの予兆だろうと考えた結果、キーワードは「豚」ではないかと私は思うようになりました。中国では2008年に四川大地震がありました。四川省は中国での豚生産の4分の1を担う豚の生産地なので、供給面で影響が出てきている。食料品企業の多くが豚肉を欲しがるから、供給が減れば豚肉価格が上がる。それが食料品価格を押し上げ、インフレが高まり、社会不安に繋がりかねないということで、今中国では必死に豚の増産をしている。養豚産業は成長産業となり、色々な企業、例えば石炭企業や、鉄鋼企業、金融機関、商社などが入ってくる。そして、今まで農家が庭先で残飯を与えながら数頭から数十頭の豚を飼うという規模だったのが、企業養豚というかたちで数万頭から数十万頭の豚を飼う、という形態へと変わりつつあります。そうすると飼料も、購入飼料に依存するようになり、中国だけでは足りないから海外からの輸入という数値に表れてくるのです。
そうやって考えているうちに、なんでイスラムは豚食べなくて、キリストは食べるのかなど別の疑問が色々と出てくるようになりました。世の中の不思議を、豚という視点から考えると、思いもよらぬ色々なものが見えてきます。それを書いていくのはなかなか難しいのですが、年明けには本を出そうと思っています。

(聞き手:沖中幸太郎)

著書一覧『 柴田明夫

この著者のタグ: 『経済』 『海外』 『考え方』 『研究』 『資源』

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