意思決定のヒントを伝えたい
一橋大学商学部卒業後、スタンフォード大学よりPh.D(経済学博士)取得。INSEAD 客員研究員、ハーバード大学フルブライト研究員を経て、2005年より神戸大学大学院経営学研究科教授を務められています。著書である『実践力を鍛える戦略ノート』、『知識転換の経営学』『MBA戦略立案トレーニング』などの、専門である経営学、経済学のほか、プライベートでは茶道や禅、インド哲学など様々な学問に関心を寄せられる原田勉さん。お仕事に対する思い、影響を受けた本などについてのエピソードをお聞きしました。
英語で論文をしっかり書くこと
――近況をお聞かせ下さい。
原田勉氏: イノベーションの経済学的な分析を中心とした研究をしており、今は論文作成にいそしんでいます。英語で論文を書き、海外の学術誌に投稿するのが学者の本務だと考えていますので、私はそれを中心にやっています。あと3、4年後ぐらいには、それらを本にまとめたいと思っています。経営学者のなかには、あまり英語で論文を書かない人もいらっしゃいますが、英語で学術論文を書き、学術誌に投稿するという作業を続けられるのは、若いうちだけだと思いますので、いまはそれをやることが重要だと思います。実際、うちの大学でも、きちんとした審査を受けていない自己満足本や俺様本などを書いて満足するのではなく、地道に論文を書けと、上から事あるごとに指示されています。自己満足本や俺様本が悪いとは思いませんし、それはそれで一般読者を啓発している限り有用だと思います。しかし、学者である以上、その仕事だけに終わるのは才能の浪費であるとも思っています。ただ、これは経営学者の世代的な役割分担ということも関係しています。私よりも上の先生方は、海外の著名な経営学者の本を日本に紹介する作業から、日本発の理論を構築しようとされた世代です。かれらは主に日本語で著作を世に問うていき、その延長線上でそれらが英訳されて海外でも紹介されていきました。しかし、私を含めてそれよりも下の世代は、明らかに最初からグローバルな地平で情報発信すること、すなわち、英語で学術論文を執筆していくことが求められています。それが私たちの世代の使命だと思います。そのためか、英語での論文を書かず、ビジネス書だけしか書かないという状況になってしまうと、いまの段階では傍流意識のような、「自分の立つべき土俵で勝負していない」という感覚が強く自分の中に現れてしまいます。
――スタンフォード大学での経験は、研究スタイルや考え方に影響を与えましたか?
原田勉氏: 色々と影響があったのかもしれません。私は今、どちらかというと数学的なモデルをベースとした研究をやっていますが、これも経済学の基礎的トレーニングを受けたからできるともいえます。もう1つ、論文を書いて学術誌に投稿すると、レフリーから色々と批判され、リジェクトされるとプライドも傷つきます。日本の大学はどちらかといえば競争があまりないので、研究者として勝負しなければ、周りからちやほやされ、プライドばかりが強くなっていきます。そうすると、たまに学術誌に投稿して完膚無きまでに批判されてリジェクトでもされると、もう二度とこんなことはやってやるか、ということになりがちです。その点、スタンフォードに留学中は、徹底的にプライドは破壊されました。具体的には、授業の内容はなんとか理解できても、宿題が解けず、スタディグループの仲間に助けられてなんとか辻褄を合わせるということの繰り返しでした。だから、批判されることにはかなり慣れました。「雑草のように、石ころのように生きなさい」というのが私の座右の銘の1つですが、まさにそのような経験をしたことがいま大きく効いていると思います。
推理小説が好きだった
――幼少期の頃は、どのようなお子さんでしたか?
原田勉氏: 勉強はできませんでした(笑)。小学生の時は京都の田舎の方に住んでいて、1学年20人ほどの学校に通っていました。中学受験をしているような人もいないし、塾もありませんでした。どちらかというと、遊ぶことの方が好きで、かなりやんちゃだったと思います。
――本はよく読まれていましたか?
原田勉氏: テレビの影響で『シャーロックホームズ』や『怪盗ルパン』などのシリーズはかなり読みました。テレビを見て、少し関心が出てきたところに、ルパンの好敵手のホームズという存在を知り、それで「ホームズはどうなのか?」と思って本を読んでみると、ホームズもめちゃくちゃ面白い。読んだ本は推理小説が多く、いわゆる文学作品と呼ばれるものはあまり読まなかったと思います。それが小学4年生ぐらいだったでしょうか。
――中学・高校はどのような感じでしたか?
原田勉氏: 地元の高校に行きたくなかったので、中学ではしっかり勉強をしました。近所の先輩が京都市内の私立高校に通っていたのですが、それが非常にかっこよかった(笑)。先輩から京都市内の話などを色々と聞いて、とても憧れました。それで、洛南高校に進むことにしました。でも当時の洛南は、お坊さんの学校だから校則も厳しくて、丸坊主。華やかな学生生活のイメージとはかけ離れていました。
著書一覧『 原田勉 』