井村裕夫

Profile

1954年京都大学医学部卒業、内科学、とくに内分泌代謝学を専攻、77年より京都大学教授、視床下部下垂体系、心血管ホルモン、膵ホルモンの研究に従事、91年京都大学総長。98年科学技術会議(後、総合科学技術会議に改組)議員として、第2期科学技術基本計画の策定、科研費などの研究費の増額、新しい研究施設の整備等に努力。2004年より先端医療振興財団理事長として神戸医療産業都市を推進すると同時に、科学技術振興機構研究開発戦略センターで臨床研究の進行方策を提言、またこれからの臨床研究として先制医療の重要性を提言している。日本学士院会員、アメリカ芸術科学アカデミー名誉会員。

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原動力は「責任感」と「チャレンジ」



京都大学教授を経て、1991年~1997年同大学総長をつとめられ、その後、科学技術会議議員として、科学技術政策の立案、調整に関わられてきた井村さん。特に、第2期科学技術基本計画の作成に主導的役割を果たされ、現在は先端医療振興財団理事長、稲盛財団会長等をつとめられ活躍されています。あらゆる場面で指揮をとられる井村さんのお仕事についての近況、また、執筆や医学・医療というものに関する思い、現在の道に至った経緯などをお聞きしました。

新しい医療を生むことで、神戸市に貢献


――現在、先端医療振興財団の理事長をされてらっしゃいますが、どういったことがきっかけで入られたのですか?


井村裕夫氏: この「先端医療振興財団」というのは神戸の医療産業都市を作ること及びそのための研究を行うことを目的に作られた財団です。ご承知のように神戸は1995年に大震災で非常に大きな被害を受けました。私も以前、5年ほど神戸市民だったことがあるのですが、震災の時は京都大学の総長をしていましたので、自分では動くことはできず、救護班を送ったりお薬を送ったりしました。しかし、京都大学を辞めてから神戸中央市民病院の院長をしている時に、市長さんから「ぜひ神戸に医療産業都市を作りたい」ということを言われたのです。初めは「とても無理だろう」と思っていたのですが、非常に市の方が熱心であったのと、何か神戸市の復興のためにお役に立てることがあればと思い、引き受けることになりました。

――どのような仕事をしてらっしゃるのでしょうか。


井村裕夫氏: 私の仕事の1つは、研究のための先端医療センターを運営していくということ、もう1つは医療産業都市全体、このクラスター全体をどうやって成長させていくかを考えることです。それから、京都大学を辞めてから6年間、政府で総合科学技術会議の議員として、日本の科学技術政策全体の方針を決める仕事をしていたのですが、その議論の一部を、現在ここで実践しています。

――広い意味で、医療に携わっているのですね。


井村裕夫氏: 未解決の病気がたくさんあるわけですから、コンスタントに研究を進め、生み出していかなければいけません。新しい医療技術を生み出していくことが、今の大きな目的です。それからもう1つは、新しい医療を通して神戸市に貢献するということです。神戸が震災から立ち直っていく上で何か新しい事業、新しい旗印が必要ですから、その旗印として医療産業をここで育てようということです。おかげで10年あまり経ち、色々な施設が整ってきて、日本ではユニークな都市の1つになってきました。

――他にはどういった活動をしてらっしゃるのでしょうか。


井村裕夫氏: 京都では「稲盛財団」という財団に関係していて、「京都賞」という賞を選ぶ仕事をやっています。責任者ということではないですが、それに近い形で仕事をしています。

突然の選抜から得た、進化の視点


――京都大学の総長として選ばれた時のことをお聞かせ下さい。


井村裕夫氏: 私は医学部を卒業して医者になり、その後「やはり分からないことが多いので研究をしなければ」ということで研究を始めました。要するに研究職ですから、一緒に研究をして若い人を育てることと、患者さんのために現場で診療をするということをやっていました。ところが、91年に突然総長に選ばれ、人生が変わりました。今は副学長などがありますが、当時はそういった職もなかったため、全く学長としてのトレーニングを受けないままでなりました。さらに当時は学長になると、研究費はなくなってしまう。「もう研究をする必要はない」ということなのでしょう。あまりに突然のことですから、非常にさびしくなったことを覚えています。

――総長になり、それまでと変わったことはありますか?


井村裕夫氏: 医学や医療を、今までとは違った視点で見るようになったんです。どういうことかと言うと、それまで私は内科の医者であって、内分泌、糖尿病といった分野を専門にしていましたから、自分の専門から医療を見ていました。ところが総長になり、専門をなくしてからは、外から医学・医療を見るようになったわけです。それは私にとって初めての新しい経験だったので、また違った視点というものがあるんだなと思いました。

――外から医学・医療を見て、分かってきたことはありますか?


井村裕夫氏: ちょうど総長になって2年ぐらい経った頃、アメリカの本屋で進化医学『Evolutionary Medicine』という本を見つけました。とても面白く、病気に対してそういう見方もあるんだな、と思いました。人間の体は極めて長い進化の中で作られてきたものですから、その進化が人間の病気とものすごく関係があるということが分かってきたんです。そういう見方で勉強してみようと本を読み、2000年に岩波書店から『人はなぜ病気になるのか―進化医学の視点』という本を書きまして、その後も進化に関する本を2冊ほど出したんです。岩波の本は、科学に理解のある人だったら全部分かるような本ですが、一番最近、羊土社から出した本は、本当の教科書的なもので、医師や医学生向けの本です。

――病気を進化の視点で見ると、人間とは、どういったものなのでしょうか。


井村裕夫氏: 進化の視点で見ると、我々の体も、心も、進化の所産です。人間は「万物の霊長」だなんて威張っていますが、やっぱり生物、動物なんです。だから進化の影響を受けているわけです。その中で、非常に脳を大きくして広い心の世界を持ってきました。他の動物とは全く違って言葉があるし、字を発明したし、音楽があり、それから舞踊があり、美術があり、宗教がある。他生物とは全く違うように思われますが、基本的には他生物の持っていたものを発展させただけであって、例えば音楽なら、鳥のさえずりと類似点がありますね。それから字でも、言葉は喋れないけれどもチンパンジーはある程度の言葉を理解することはできるわけです。進化の視点で、人間の病気も、色々な人間の能力も見ていく必要があるだろうということを感じています。それから、これは総合科学技術会議に関係してからですが、医学・医療と社会との関係をもっと考える必要があるんじゃないかと思っています。

――必要な考えとは、具体的にどういったことでしょうか。


井村裕夫氏: もともと医療というのは、極めて社会的な性質を持ったものですから、社会の中のある1つの役割を果たしているわけです。それを外から、「社会」という角度から見るとまた違ったことが見えてくるんです。例えば、今、日本は急速に少子高齢化が進んでいるわけですが、これは今までの人間社会は経験したことがありません。
人間の社会も動物もそうですが、生まれた時が一番多く、少しずつ死んでいって最後はゼロになるというのが人口ピラミッドです。だから、今までの人類も、あるいは生物も経験したことのない状況に、現在入りつつあるわけです。その中で医療というのは何をしないといけないのか、医学はどういうことを研究しないといけないのか、という見方を今まであまりしてきませんでした。そういう見方をしていく必要があるだろうと、その視点での本を出しましたし、まだもう少しそのテーマで書きたいと思っています。

――先ほど、アメリカに行った時に手に取った本から勉強されたというお話がありました。数々の実績をたくさん上げられていますが、まだ「勉強だ」と思われるのでしょうか。


井村裕夫氏: そうですね、これはもう終生です。知的好奇心だけは失ったらいかん、と思っています。ですから、今も本をいろいろもらったり買ったりして、興味があると読むようにしています。かつてはよく寝る前に「ベッドサイドライブラリー」と称して、ベッドのそばに本を何冊か積んでおいて、気に入ったのを寝る前に少し読んでいました(笑)。ですが最近は、だんだん視力が落ちてきていたのと、疲れが出てしまってあまり読めていません。

町医者希望から、研究の道へ


――もとは滋賀のご出身ですね。


井村裕夫氏: 滋賀県の田舎出身です。家庭は、あまり医学とは関係ありませんでした。子供の頃は、非常に体が弱くて、よく病院に連れていかれたのです。病院には人体模型なんかが置いてあって、そういうものを見ているうちに「医学というのは面白そうだな」と思い、「大きくなったら医者になろうか」と思うようになりました。いつ頃そう決めたか分かりませんが、中学に入った頃には医学を目指そうと思っていました。

――研究を始めたきっかけはなんだったのでしょうか。


井村裕夫氏: 医学部を卒業して、私は初め、町のお医者さんになろうと思っていたんです。ところが、医師になって最初に受けもった患者さんが難しい病気で診断がつかず、2人目は糖尿病で、当時はまだ治療法が極めて少なかったので、なかなか良くなりませんでした。これは町の医者になってもどこまでお役に立てるか分からないので、「じゃあ少し研究をしようか」ということで、大学院に入って研究を始めました。そして、アメリカのカリフォルニア大学へ行きました。

ビジョンを持って努力し、成功することこそやりがい


――アメリカから戻られてからは、どういったお仕事をされていましたか。


井村裕夫氏: アメリカから帰ってきてからはずっと内科にいましたので、患者さんを診て、教育をして、そしてその中で研究をして、「少しでも新しいことを見つけていこう」と、そういう生活をずっと続けてきたんです。大変忙しい生活でしたから、決して読書家というわけではありませんでした。専門の雑誌などは読みますが、専門外のことは、ほとんど勉強してこなかったと思います。ところが、さっき申し上げたように、ある日突然、ポン、と今までの仕事を取り上げられ、総長をすることになり、専門外のことについて色々と勉強することになりました。京大の総長としての悩みは、3月になりますと卒業式、それから次いで入学式で訓辞をすること。大勢の前で話すことはおろか、新聞にも掲載されます。きっちりとした内容を考えて、「卒業生の心に残るようなことが少しでも言えないといかん」、あるいは「新入生に少しでも新しい気持ちで勉強できるようなことを言わないといけない」ということで、今まで全くやってこなかったことを、少しずつ勉強するようになりました。

――新たなことに挑戦する時の気持ちは、どのようなものでしたか?


井村裕夫氏: 選ばれてしまった以上、責任がありますから、役目を果たそうという責任感が一番強かったと思います。以降6年間学長職をやったのですが、「今まで知らなかった世界がここにある、だから挑戦してみよう」という、非常にチャレンジングな6年間でした。だから、今までと全く違うことをやっていかないといけない、そういう中で少しずつ色々な専門外の本を読むようになりました。

――「責任感」と「チャレンジ」が、キーワードとなっているのでしょうか。


井村裕夫氏: そうですね。新しいことへの挑戦はその後もありました。大学を辞めてから、神戸中央市民病院の院長を頼まれて院長になった途端、今度は中央政府から、当時は科学技術会議と言いましたけれども、その議員をやってほしいと言われました。大学の学長職をやっている時に、日本の大学はお金がなくて建物も老朽化しているし、研究費も乏しいので、「これは何とかしないといけない」と思っていました。ですから、「じゃあ、やってみようか」と引き受けて、「院長はもう辞めさせてほしい」と神戸市長に申し出ました。すると、市長さんからは「新しい医療産業都市の構想だけは、きっちりやってくださいね」と(笑)。結局それからは足が洗えませんでした。当時は顧問という形で時々ここに来て、そして構想を作ってスタートをさせるということをやったんです。主な仕事は科学技術会議、次いで総合科学技術会議で、全く違った視点から、科学技術全体にかかわる大変難しい仕事でしたが、それはそれでまた大変やりがいのある仕事でした。

――仕事のやりがいというのは、どこから生まれてくるのでしょうか。


井村裕夫氏: 興味、それから、ある程度ビジョンを持ってそのビジョンに向けて少しでも努力していき、成功すれば、それがやりがいということです。ここの医療産業都市でもそうです。大学の先生方に来てもらって、私の考え方を話し、さらにいろいろ議論してもらって、ビジョンを作り、スタートしました。ビジョンがなければ、みんなはなかなか付いてきてくれません。科学術政策をやる時も、「今から5年間やらなきゃいけないことは何か」というのを十分議論して、それに向けて皆さんに協力してもらうという形でやってきました。

こだわりは、分かりやすい文章にすること


――ご自身にとって、本の執筆とは?


井村裕夫氏: 医学をやっている時には、研究をして、研究の成果が上がればそれを論文にするわけですよね。やったことをある程度記録として残すことが、他の人の参考になるわけです。執筆は、それとちょっと似ているんです。例えば、学長職を6年つとめたら、その間のことを少し書いておくとか、それから総合科学技術会議も6年近くやりましたから、その間経験したことを本にするなど、やったことをまとめていました。

――本を書く上で、心がけてらっしゃること、こだわりみたいなものはございますか?


井村裕夫氏: 私は決して文章が上手い方ではないけれども、本を出す以上はできるだけ多くの人に理解してもらえないといけないので、分かりやすい文章でなければならないと思います。ですから、難しいことをどうやって分かりやすく表現するのかということだけは、常に考えるよう心掛けています。なかなかうまくいかないところもあって、「ここ難しいよ」とよく言われてしまいます。本を書く以上は、できるだけシンプルなセンテンスにすることと、誰が読んでもある程度理解できるような分かりやすさというのが必要だろうと思います。しかし内容はレベルや質が高くなくてはいけない。これは難しいことだけれど、それをどうやって分かりやすく表現するのかというのが1つの技術です。60点ぐらい、合格点までいければいいんじゃないかと思っています(笑)。

――60点の合格点に到達するまで、編集者との色々なやり取りも、すごく大変そうです。


井村裕夫氏: そうですね。ですから編集者の方が、「ここは分かりにくい」とか、非常に克明に見てもらえると助かります。私は文章に癖があるので、表現について「こうやった方がいいんじゃないか」という助言をしてくれる人もいますし、字の間違いも見つけてもらえます。そういう意味で私は、編集者というのは本を作る上で非常に大事な仕事をする方だと思います。一番最近出した、羊土社の『進化医学 人への進化が生んだ疾患』という本を出す時には、編集者の方とはずいぶんといろいろなやり取りをしました。

――電子書籍について、どんな風にお考えですか?


井村裕夫氏: そうですね、私もKindleを買いまして、これから活用していこうかと思っているんですが、なかなか慣れません。率直な感想としては、本の方がいいんです。なぜかと言うと、本は斜めに読めますから、「あ、このページはもうこれで、だいたい内容は把握できたから飛ばしていいだろう」ということができるんです。でも本というのはどんどん溜まっていきます。書いた人の色々な気持ちも、苦労も理解できる。そうすると「やっぱりこれは捨てられない」となり、溜まってしまって困ります。その点、電子書籍だったらそれがありませんから、今のように大都市で、あまり大きくない家に住んでいると便利だと思います。そして、電子書籍は本よりも便利な面がいくつもあります。医学書は非常に分厚いものが多いので、電子書籍の方が引用項目でパッと見つかりますし、辞書もページを開いて見るよりは、電子辞書で検索した方が早い。しかし、こういった利点を見出しても、本というのはまた独特な味わいがあって捨てがたいと、それが私の気持ちです(笑)。それぞれの長所をできるだけ活かしながら、両方を使い分けると良いのではないでしょうか。

高等教育と長寿を目指して


――これからのビジョンをお聞かせ下さい。


井村裕夫氏: もう私も年ですから、大したビジョンはないんですけれどね。この20世紀から21世紀にかけての非常に大きな特徴は、1人ひとりの人が高い教育が受けられるようになって、そして健康で長寿を達成できるようになったことです。人間がせっかくこの世に生まれてきたわけですから、できるだけその人が力を発揮して、しかも長寿を達成できるようにしていくことが非常に大事だと思います。また、それが21世紀の大きな特徴だろうと私は思っています。おそらく世界のこれからのトレンドを考えていく上で、世界のどの国でも高等教育を受けた人が増えていく、そしてその人たちが長寿で活躍できる、これは素晴らしいことです。できるだけ多くの人がそういった環境をあたえられるようにするにはどうしたらいいのかということを、本当に人生の初めの段階から考えていかないといけないだろうと、今考えているんです。

――具体的にはどういうことを考える必要があるのでしょうか?


井村裕夫氏: お母さんのお腹にいる時から、どうやったら健康な子供が生まれるのかということを考えておかないといけない。今は「ライフコースヘルスケア」と言われていますが、母親のお腹の中にいる時からヘルスケアは始まるんだと思います。そうしなければ健康長寿は達成できないと思います。単に生きているだけではだめですから、質のいい長寿を達成するためにはどうしたらいいのかということを、医者として考えていこうと思っています。また、日本は世界一少子高齢化が進んでいる国です。だから「日本モデル」というのを考えていかなきゃならないとも思っています。
元気な間は、少しでも誰かの役に立てればと思っていますし、常に、何か少し新しいことを加えようと思っています。時々、老醜をさらしているんじゃないかなと思うこともあるのですが、何と言われようと老人の特権と考えて(笑)、動ける間はもうちょっと仕事をしようかなと思っています。

(聞き手:沖中幸太郎)

著書一覧『 井村裕夫

この著者のタグ: 『大学教授』 『チャレンジ』 『原動力』 『研究』 『医療』 『医者』 『技術』

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