「社会を知らない弁護士」に疑問
浜辺陽一郎氏: 私は決して予備校を悪いものだと思っていませんが、自分自身の学力との関係で言えば、即席で勉強しただけですから、明らかに“棚ぼた”なんです。当時、司法試験は3万人受験して合格率が1%ぐらいの難関の試験だったわけですが、今考えるとそれほど高いレベルではなかったと思います。はっきり言って、今の司法試験の方が難しいくらいです。当時は受験する人が多くて、しかも勉強の仕方が全く体系化されていませんでしたが、予備校では比較的体系化されていたということです。大学では、わけの分からない講義しかないわけですから、みんな暗中模索で非効率な勉強をしていました。しかも、それは現実社会とはまったくかけ離れた勉強です。当時、大体2、3割は現役の大学生で受かっている人たちがいました。しかし、私も含めて、試験で受かっているだけなので、世の中のことは知らないわけです。私も弁護士にはなれましたが、世の中のことを何も知らないままでしたので、思い返してみると、しばらくはパッとしない時代が続いていたと思います。
――弁護士になってからそのような疑問を感じられた出来事はありましたか?
浜辺陽一郎氏: 私が入った最初の事務所では、入った年に色々な事件があり、2人のボスがパートナーシップを解消するということになって、私は作家の牛島弁護士(作家/弁護士:牛島信)について行きました。もう1人の残った先生は、慶応の先輩でしたが、その後、不祥事を起こして逮捕され、有罪判決を受けました。自分の人を見る目のなさ、あるいは世の中の表と裏のことを分かってないということを感じました。しかも法律知識だって、大したことはない。社会のためとか、国際的な仕事がしたいとか、若者特有の漠然としたものはあっても、具体的なものは何もありませんでした。今みたいにインターネットなどもないわけですから、情報も限られていたわけです。そういう中で、非効率な遅々とした進み方で、弁護士としての最初の時期を過ごしました。転機となったのは留学でした。留学する前は、自分で発信できるものは何も持っていませんでした。何かやりたいけど能力もないし、技術もなければ知識もない。ですが、アメリカに4年間留学したことで、方向性が見えてきました。
留学で形成された「思考の座標軸」
――留学ではどのようなことを得られたのでしょうか?
浜辺陽一郎氏: 日本で仕事をしているだけだと、日本の司法の現実が当たり前だと思いがちなんです。先輩からこれが合理的なんだと教えられれば、日本人的な弁護士の典型にどっぷり浸かる。それがアメリカで過ごして、文化や生活の在り方など、それから大学、教育システムをトータルに見た時に、欧米、特にアメリカと日本の大きな違いが、自分の思考の大きな座標軸としてできてきました。これが契機となって、日本に帰ってきてからは、日米の司法比較について書くようになりました。それを出版社に持ち込んだところ、三省堂さんから、「日米司法比較の中から、弁護士に絞って書いてみませんか」と提案されて、処女作の『弁護士という人びと』が1996年に出ました。
――『弁護士という人びと』への反応はいかがでしたか?
浜辺陽一郎氏: その本は、結構うけて5刷までいったのですが、私が日本に帰国した95年には、オウム真理教事件や阪神大震災があり、翌年の最初の出版後に横山(昭二)弁護士が私を訴えてきたという様なこともあり、そこで私の出版活動は1年休止して97年は出版ゼロでした。最高裁まで争われたその名誉毀損事件が、98年に全面勝訴で終わったので、晴れて三省堂から『弁護士という人びと』の続編として『取締役という人びと』を出しました。
『弁護士という人びと』を書いた後に、日弁連調査室の嘱託の仕事が偶然入ってきて、96年から2001年は、日弁連の会務にどっぷりと浸かっていました。ちょうどその頃は、弁護士会が中坊(公平)先生を中心とした司法制度改革の時代で、中坊先生や、今も司法改革を推進する人たちと一緒に色々なことができました。著作としてはその後、毎日新聞社から『アメリカ司法戦略』、『司法改革』を文春新書から出しまして、総合的な司法の話を書くことができました。新しいものでは、『弁護士が多いと何がよいのか』で、『弁護士という人びと』から始まる、弁護士論を含んだ司法制度の問題や、法曹人口問題も含めた弁護士の在り方についての議論を深めることができました。