変化がある方が面白い
――なぜ研究者ではなく、ビジネス、実業の世界に進まれたのでしょうか?
山田修氏: 国文は大学院まで卒業したのですが、なんとなく嫌になってしまった。専攻の伊勢物語は書かれてからもう1000年位経っている訳ですから、隅から隅まで研究し尽くされている。だから、伊勢物語について私が一生研究をしても大したことは積み上げられないし、1000年前に書かれているから、対象が固定されちゃってつまらない。だから転向することにしたんです。
――先人たちの成果の上から新たに塗っていくということよりも、新しいものを目指されたんでしょうか。
山田修氏: そうです。対象が常に変動する経済やビジネスの方が、「変化があって面白いな」と思い、就職をしました。
――衝動的に物事を決める方だとおっしゃっていましたが、その時はどのような感じだったんですか?
山田修氏: 当時、私はスキーの公認パトロールや正指導員の資格を持っていて、レベルの高いスキーヤーだったんです。レジャー系のところへ行って「御社のスキー場で、正社員として働きたいです」と言えば、どこも「入ってくれ」と歓迎してくれました。結局、太平洋クラブという、当時スキーを3つ持っていたゴルフ会社に入りました。「ゆくゆくはスキー場の支配人かな」などと思っていたのですが、会社は私をスキー場に配属してくれなかったんです。要するに「違うことをやってみろ」という会社だったんです。それで、海外部というところに配属されました。ずっと古文を研究していたから、英語なんて私の人生には絶対現れないだろうと思っていたし、全くやる気がなかったのですが、就職をきっかけに英語を始めることになりました。海外に行ったのも28の時の香港への出張が初めてで、飛行機に乗ったのもそれが初めてでした。
就職を機に英語の勉強を始め、32歳の時に留学
山田修氏: それからは「英語を使うビジネスで生きるしかない」と思って、英語を一生懸命に勉強しました。トミーという今のタカラ・トミー社ですが、おもちゃ屋さんで貿易の仕事をやって、それから今度は外資に行こうと思い、アメリカの外資では大手で名門のコーニングを受けました。コーニングジャパンの社長さんは日本人だったのですが、アメリカでMBAを取っていて、外人扱いをされていました。家に招かれて行ってみると、すごくいい暮らしをしていたので、「理不尽だな」と思っていました(笑)。結局、MBAを持ってないと中間管理職以上のグラスシーリングというガラスの天井の上には行けないなということが分かって、32歳の時にやっと留学しました。
――その時には不安などはありませんでしたか?
山田修氏: 出たとこ勝負の成り行き人生というか、私は非常に無鉄砲な男なんです。だから、こういう珍しいキャリアパスになったのかもしれません。社長であった6社も含めて、私の転職歴は10以上もあるんです。それも全部、まともな会社というか、名前を聞けば聞いたことがあるようなちゃんとした会社。多分、転職の数で言えば日本一の数じゃないかな。
――その原動力はどこから生まれるのでしょうか。
山田修氏: エネルギーですよね。私はエネルギーに溢れているんですよ。だから、嫌だったら嫌で辞めちゃうけど、好きなことはとことん突き詰めてやり遂げるエネルギーがあるし、次に向けてちゃんと準備するエネルギーもある。そういう風にやってきたんです。
――どういう思いでそれぞれのお仕事と向き合ってこられたのでしょうか?
山田修氏: 「他の誰かがやるよりも、私がやる方がまし」という位に仕上げよう、というのが私の信条。だから、そのために色々と勉強をしたり工夫をしたりします。転職の回数も多かったのですが、その度に専門学校に行きました。英語や貿易の学校にも行きましたし、コーニングの時は、日本電子専門学校に行って電気について学びましたし、ITの学校にも行ったこともあります。ポント・データ・ジャパンではお客さんが証券会社なので、その時は証券の株の学校にも行ったりしました。マネジメントの学校には嫌というほど行きましたね。
――1つ1つが別業種ですが、それをやりたいと思ったのはなぜだったのでしょうか?
山田修氏: 好奇心でしょうか。別のことをやった方が、変化があって面白いんです。1つのポジションで3年もやると飽きというか、それだけ誰にも負けない仕事をするというか、一生懸命仕事をして燃えつきてしまうという部分もあるんでしょう。疲れはしないので、飽きるという方がやっぱり合っているかもしれません。転職する時は、基本的には次の仕事が面白そうだと思ってするので、不安はありませんでした。
著書一覧『 山田修 』