小出裕章

Profile

1949年、東京都生まれ。東北大学工学部原子核工学科卒業、同大学院工学研究科修士課程修了(原子核工学)。研究分野は原子力安全、放射性物質の環境動態解析。1970年、女川での反原発集会への参加を機に、原発をやめさせるために原子力の研究を続けることを決意。以後現在まで一貫して「原子力をやめることに役に立つ研究」を行なっている。 『原発ゼロ』(幻冬舎ルネッサンス新書)、『100年後の人々へ』(集英社新書)、『原発のウソ』(扶桑社新書)、『アウト・オブ・コントロール 福島原発事故のあまりに苛酷な現実』(共著。花伝社)等、著書多数。

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親からも学校からも認められていた、学生時代


――東北大学を選ばれた理由はどのようなことだったのでしょうか?


小出裕章氏: 私は暑いのが大嫌いなので、寒い場所に行こうと思っていました(笑)。旧7帝大の中で寒い地域と言えば北海道か東北です。大好きなスキーもできるということで、最終的には、東北大学の工学部原子核工学科を選び、他の大学は受けませんでした。当時の東北大学の工学部では受験の際は、志望学科を3つ書き、第一希望がダメなら第二希望、それがダメなら第三希望に入れるという制度があったのですが、私は原子核工学科以外に行く気はなかったので、1つの学科しか書きませんでした。3日間の試験だったのですが、私の場合は他の大学を受ける予定がなかったので、その試験が終わったらスキーに行こうかと考えていました。「試験が終わったら蔵王に行ってスキーをしよう」と、一緒に受験に行った友人を誘ったのですが、即座に断られました(笑)。

――学科を1つに決められたということですが、試験に自信はあったのでしょうか?


小出裕章氏: 全然ありませんでした。高校3年の12月まで地質部で活動していたので、1月になってから必死で受験勉強をしました。東北大学受験用の模擬試験というのが仙台の予備校にあり、そちらに時々行って、模擬試験を受けていましたが、いつもABCDランクのDでした。「仙台まで遊びに行ける」という気持ちだったので、遊び半分でしたね。

――東北大学へ進むと決めた際、ご家族の反応はいかがでしたか?


小出裕章氏: 両親は驚いたかもしれませんが、高校2年生くらいから、東北に行くと話していたと思いますし、私が行くと決めたらもう止められないということを家族は知っていたので、特別反対もされないまま、出してくれました。

――ご家族から信頼されていたのですね。


小出裕章氏: 私は、中学、高校の6年間、350人いたうちの数人しかもらえなかった無遅刻無欠席の精勤賞をいただいたような従順な学生で、グレていたわけでもなく、タバコを吸うこともありませんでしたから、両親はもちろん学校から見ても、多分、いい子だったと思います。学校では、地質部で部長をしていました。私が通っていた開成高校は、クラブ活動は2年生まで、3年生は受験勉強に時間を使うという学校でしたが、地質が好きだったので、私は3年生になってもずっと地質部の活動に没頭していました。そして3年生の12月に、日本学生科学賞という賞を受けました。それぐらい学校の中でもきちんと活動をしていましたし、たぶん学校に対しても名誉ある賞を貰っていたのです。「あいつは自分で決めてやるんだから、任せておこう」という風に、親は思っていたのでしょう。

――大学でも、やはり理想的な学生だったのでしょうか?


小出裕章氏: 大学に入って1年間は授業を休んだことはありませんでしたし、信じられないかもしれませんが、大学生なのに学生服を着て通っていました(笑)。そんな生徒はほとんどいませんでした。1年間だけは、ひたすら勉強していました。

自分の生活を言い訳にする人生は嫌だと、反原発の道へ


――原子力への考え方が変わったことには、どういった理由があったのでしょうか?


小出裕章氏: 1970年の秋に、自分の人生を180度転換しまして、原子力を止めさせるために自分の人生を使おうと思いました。理由は、大きく言うと2つあります。私が大学に入った68年というのは、大学闘争というのがありました。67年から東大の青医連という医学部の学生たちの運動から始まり、左翼運動のようなものも盛んになりました。昔は左翼というのは共産党だったのですが、新左翼と呼ばれるような諸党が山ほど生まれ、大学の中での活動を始め、授業が次々と潰されていくというような時代でした。私はそんなことには全然興味もなく、勉強ばかりしていたのですが、69年の1月に、東大の安田講堂に学生が立てこもって、機動隊がその封鎖を解除しに行くという出来事があった時、「こういう時代に、私は一体何をやっているんだろうか」ということを考え始めたのです。

――原子力の勉強をすることに、疑問を持ち始めたのですね。もう1つの理由とは?


小出裕章氏: ちょうど大学闘争の時、東北電力が原子力発電所を建てると言い出しました。建てる場所は、女川という街でした。仙台から直線距離で60キロ位離れていると思いますが、いわゆる日本三大漁場という東北、三陸沖の漁場の1つで、海で生活をしている漁港です。日本中が、諸手を挙げて賛成していたのですが、女川の人たちが「なぜ女川なんだ?」と声をあげたのです。電気を使うのは仙台。仙台の近くには仙台火力発電所という火力発電所もあったのですが、なぜ原子力発電所だけは女川なのかということを、私自身も問われてしまったのです。大学闘争というのは、自分のやっている学問が社会的にどういう意味を持っているかを答えろという運動だったと私は思いました。そうなると私がやりたいと言っている原子力発電というものが社会的にどういう意味を持っているのか、また、なぜ女川なのかを、私は答える責任があると思い、回答を探し始めました。ただ、東北大学原子核工学科では、原子力発電はいいものですということしか教えてくれず、なぜ女川なのかという疑問に教員は答えてくれませんでした。だから自分で探すしかないと思ったのです。



――どのようにして、答えを出されたのですか?


小出裕章氏: ちょうどその頃、米国でも原子力に対する疑問が出てきて、原子力発電所の持っている危険性というようなものが、米国から発信されていました。私はその情報を自分で探して勉強するようになり、原子核工学科の教員たちと論争も始めたのです。論争していくと、原子核工学科の教員たちは危険だということを認めざるを得なくなるわけです。それでも彼らが最後に口にしたのは、「妻も子どももいるんだよ」という言葉でした。私は、自分の生活を言い訳にする人生はまっぴら御免だと思いました。都会が電気を欲しいと思うなら危険も承知の上で都会に発電所を作るというなら納得できますが、自分は電気を使うけれど危険は別のところに押し付けるというようなことを、認めてはいけないものだと思うようになったのです。それで私は70年の秋にその結論に到達して、これはもう止めさせるしかないと思いました。

――止めさせる活動としては、どういったことをされていたのでしょうか?


小出裕章氏: 1970年の10月23日に、女川で住民たちが第一回の総決起集会を開きました。私はその集会にビラを持って参加しました。東北大学の原子核工学科の中であるとか、或いは理学部の物理学科であるとか、農学部の水産学科であるとか、色々なところの学生が一緒に集会に行きました。そして、女川でボロボロの長屋を借りて、そこに住み込み、ビラを撒くというような生活を始めました。たくさんの仲間が一緒に女川原発の反対に加わりました。その後は、それぞれの人生を歩み始め、中には「原子力はもう駄目だ。こんなところに自分はもう居たくない。生活を言い訳にするようなことは決して言いたくないから、初めから生活を言い訳にしないでいいような立場になればいいんだ」と、原子核工学科の大学院をやめて、土方になった人もいます。

――そういった仲間がいる中で、小出さんは原子力の渦中に留まったわけですが、それはなぜですか?


小出裕章氏: 外できちんと生きるというやり方で抵抗する生き方も大切ですが、専門的な立場から反対するという仕事は絶対に必要なのです。私は常に、今を向いています。明日のことには、興味がありません。この場に残ることを決断したのも、その当時いた東北大学原子核工学科の大学院で、戦う課題があったからなのです。

著書一覧『 小出裕章

この著者のタグ: 『考え方』 『生き方』 『価値観』 『日本』 『研究』 『理系』 『研究者』 『エネルギー』

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