小出裕章

Profile

1949年、東京都生まれ。東北大学工学部原子核工学科卒業、同大学院工学研究科修士課程修了(原子核工学)。研究分野は原子力安全、放射性物質の環境動態解析。1970年、女川での反原発集会への参加を機に、原発をやめさせるために原子力の研究を続けることを決意。以後現在まで一貫して「原子力をやめることに役に立つ研究」を行なっている。 『原発ゼロ』(幻冬舎ルネッサンス新書)、『100年後の人々へ』(集英社新書)、『原発のウソ』(扶桑社新書)、『アウト・オブ・コントロール 福島原発事故のあまりに苛酷な現実』(共著。花伝社)等、著書多数。

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原子力を止めさせるために、自分の人生を使いたい



東北大学工学部原子核工学科卒業後、同大学大学院工学研究科修士課程修了。現在は、工学者であり、京都大学原子炉実験所、また京都大学大学院工学研究科都市環境工学専攻の助教。原子力発電に異議を唱えられ、原子力発電を止めるための研究を行われています。ラジオフォーラム「小出裕章ジャーナル」では、チェルノブイリ事故や、アメリカの原発事情、戦争と原発などについて述べており、講演会なども開かれています。著書は、『この国は原発事故から何を学んだのか』『福島原発事故 原発をこれからどうすべきか』『子どもたちに伝えたい 原発が許されない理由』など。反原発として注目されている小出さんに、学生時代に夢中になったこと、そしてどのようにして原子力への考え方が変化していったのかについてお聞きしました。

ペナルティーなど、たいしたことではない


――昔から、反原発のお考えを持っていらっしゃったのでしょうか?


小出裕章氏: 私が原子力の世界に足を踏み込んだのは、1968年でした。当時はすでに、国家が原子力をすすめており、原子力学会もでき、一丸となって原子力を広げるという形ができてしまっていました。ですから、もちろん私自身も、原子力が素晴らしいものだと思っていましたし、日本中、世界中が原子力に夢を賭けようと思っていた時代でした。また、七つの旧帝国大学にはすべて原子力工学科や原子核工学科が設立され、原子力をガンガンやるという時代でした。私も原子力の勉強をしていたのですが、その途中で「これはダメだ。原子力だけはやってはいけない」と考えるようになりました。

――国のすすめである原子力に反対するということは、大変なことだったのではないですか?


小出裕章氏: そうですね。国家が原子力をやると決め、周囲には電力会社、巨大な企業、ゼネコン、土建屋、科学者や技術者、さらには大量の労働者、労働組合なども集まっていましたから、そういうものに抵抗するということは勿論ペナルティーがあるわけです。企業にしても、大学にしても、職を追われるということもあるのだと思います。ただし、私自身は大変なことなど何もありませんでした。私がいる京都大学、原子炉実験所は、日本の大学の中では一番教員の独創性を重んじるということを校訓にしてきた大学だと私は思います。特にここは、京都大学の中では遠隔地と呼ばれるような場所にありますので、大学の統制もなかなか及ばないのです。原子力発電を推進するための大学だと思っておられる方が多いのですが、全然関係ありません。物理学や化学、生物学、農学、医学など、ファンダメンタルな学問をする場所です。そして、それぞれ中性子という素粒子を使いたいという学問分野があって、どうすれば中性子を使えるかと考えたところ、「原子炉を作ってしまえば山ほど中性子が出てくる」と。それを使って自分たちが研究をしようということで原子炉実験所ができたのです。今、80人の研究者がいますが、殆どは物理学、化学、生物学、医学などをやっており、原子力のことを知っているのは、私のような特殊な人間だけです。原子力の旗を振るという役目はこの実験場は負っていないので、私のように原子力に反旗を翻す研究者がいても特別問題にはならなかったのだと思います。

――ペナルティーを受けたことは?


小出裕章氏: 長年にわたって、大阪の四天王寺の境内を借りて集会を開いてきた人たちがいます。去年の秋に、その人たちから話をしてくれと依頼がありました。原子力のことを皆さんに知ってほしいという想いがあり、そのお話を受けたのですが、数日前になり、お寺から主催者に抗議の連絡が入ったのです。「小出は原子力発電に反対していて、デモにも参加しているような奴だ。そんな奴に四天王寺の会場を使わせるのは嫌だ。原子力とか原発という言葉を一言も使わないで講演するならいいけれど、一言でも使うのなら駄目だ」と言ってきたのです。私はそんな条件はのめないと話し、四天王寺を使えなくなりました。そういう意味ではペナルティーを受けていますし、民主主義国家と言えるような国ではないと、その件で思い知らされました。でも、そんなことは私にとってはたいしたことではありません。他の場所で話を聞いてもらえばいいわけですし、昔のように、特高警察に捕まって、「お前、転向しろ」と、1本1本爪を剥がされたり指を潰されたりなど、そういう拷問を受けるほどのことは一度も経験していないわけですから、この程度の経験は、なんてことはありません。

遊びのような世界を出て、人のために働きたい


――上野のご出身ですよね。どのような環境で過ごされていたのでしょうか?


小出裕章氏: そうです。でも、昔のことはみんな忘れてしまいました(笑)。父方の祖母の顔は見たことがありますが、祖父の顔は見たこともありません。祖父は、東京の下町で呉服屋をやっていたそうです。父はその呉服屋を継いで、いわゆる繊維産業の零細企業をやっていたのですが、兄貴にも私にもそのお店を継がせようとは思わなかったようです。「お前らに残すものは何もないけれど、教育は受けさせる」と言っていました。ですから、やりたいことをとにかく自分で見つけて、それなりの教育を受けて自立すればいいんだなと思っていました。

――子どもの頃は、どういったことに興味を持たれていたのでしょうか?


小出裕章氏: 中学と高校の時は、地質部という部活に入っていました。広く言うと“地球がどうやってできたのか”ということを調べる学問領域があり、そのジオロジーというクラブで6年間過ごしました。その場所は私にとても馴染みました。私が子どもの頃は、東京も良い街でした。上野、浅草の辺りは本当の下町で、自分の家から半径200メートルの中になんでもあり、生活の全てがその中で完結できるような場所でした。それが東京オリンピックで激変。それまでの道路は、鬼ごっこや缶けり、馬跳びなどで遊んだり、ただ人が歩いたりするための場所だったのが、車が走る場所になったのです。また、コンクリートの高いビルが建ち並び、川の上に高速道路ができました。日本橋が高速道路の下に沈んだのです。私はそれまでの東京が好きだったのですが、すっかり変わってしまってからは、この街は駄目だと思いました。地質という学問の場は、コンクリートで固めた街ではないのです。どこかの山であったり、化石を掘り出すことのできる崖であったり、川であったり、そういう自然豊かなところがジオロジー学問分野の現場だったのです。東京が嫌いになるにしたがって、再びそういう場所に行くのが喜びとなっていきました。そして、「いずれは地学、地質の世界で生きたいな」と思っていました。

――どのようにして、原子力の分野に魅かれていったのでしょうか?


小出裕章氏: 1966年に東海第一原子力発電所が動き出し、それから70年の万博を目指して敦賀と美浜の若狭湾の原発を動かすというようなことがあり、日本中が原子力の夢に酔っていた時代がありました。私自身もその1人でした。それからは、人間の幸せや、豊かな生活を支えるということにあんまり関係ない、遊びのような世界で生きるよりは、原子力という場に行って、人類のために働きたいと思い込んでしまったのです。

親からも学校からも認められていた、学生時代


――東北大学を選ばれた理由はどのようなことだったのでしょうか?


小出裕章氏: 私は暑いのが大嫌いなので、寒い場所に行こうと思っていました(笑)。旧7帝大の中で寒い地域と言えば北海道か東北です。大好きなスキーもできるということで、最終的には、東北大学の工学部原子核工学科を選び、他の大学は受けませんでした。当時の東北大学の工学部では受験の際は、志望学科を3つ書き、第一希望がダメなら第二希望、それがダメなら第三希望に入れるという制度があったのですが、私は原子核工学科以外に行く気はなかったので、1つの学科しか書きませんでした。3日間の試験だったのですが、私の場合は他の大学を受ける予定がなかったので、その試験が終わったらスキーに行こうかと考えていました。「試験が終わったら蔵王に行ってスキーをしよう」と、一緒に受験に行った友人を誘ったのですが、即座に断られました(笑)。

――学科を1つに決められたということですが、試験に自信はあったのでしょうか?


小出裕章氏: 全然ありませんでした。高校3年の12月まで地質部で活動していたので、1月になってから必死で受験勉強をしました。東北大学受験用の模擬試験というのが仙台の予備校にあり、そちらに時々行って、模擬試験を受けていましたが、いつもABCDランクのDでした。「仙台まで遊びに行ける」という気持ちだったので、遊び半分でしたね。

――東北大学へ進むと決めた際、ご家族の反応はいかがでしたか?


小出裕章氏: 両親は驚いたかもしれませんが、高校2年生くらいから、東北に行くと話していたと思いますし、私が行くと決めたらもう止められないということを家族は知っていたので、特別反対もされないまま、出してくれました。

――ご家族から信頼されていたのですね。


小出裕章氏: 私は、中学、高校の6年間、350人いたうちの数人しかもらえなかった無遅刻無欠席の精勤賞をいただいたような従順な学生で、グレていたわけでもなく、タバコを吸うこともありませんでしたから、両親はもちろん学校から見ても、多分、いい子だったと思います。学校では、地質部で部長をしていました。私が通っていた開成高校は、クラブ活動は2年生まで、3年生は受験勉強に時間を使うという学校でしたが、地質が好きだったので、私は3年生になってもずっと地質部の活動に没頭していました。そして3年生の12月に、日本学生科学賞という賞を受けました。それぐらい学校の中でもきちんと活動をしていましたし、たぶん学校に対しても名誉ある賞を貰っていたのです。「あいつは自分で決めてやるんだから、任せておこう」という風に、親は思っていたのでしょう。

――大学でも、やはり理想的な学生だったのでしょうか?


小出裕章氏: 大学に入って1年間は授業を休んだことはありませんでしたし、信じられないかもしれませんが、大学生なのに学生服を着て通っていました(笑)。そんな生徒はほとんどいませんでした。1年間だけは、ひたすら勉強していました。

自分の生活を言い訳にする人生は嫌だと、反原発の道へ


――原子力への考え方が変わったことには、どういった理由があったのでしょうか?


小出裕章氏: 1970年の秋に、自分の人生を180度転換しまして、原子力を止めさせるために自分の人生を使おうと思いました。理由は、大きく言うと2つあります。私が大学に入った68年というのは、大学闘争というのがありました。67年から東大の青医連という医学部の学生たちの運動から始まり、左翼運動のようなものも盛んになりました。昔は左翼というのは共産党だったのですが、新左翼と呼ばれるような諸党が山ほど生まれ、大学の中での活動を始め、授業が次々と潰されていくというような時代でした。私はそんなことには全然興味もなく、勉強ばかりしていたのですが、69年の1月に、東大の安田講堂に学生が立てこもって、機動隊がその封鎖を解除しに行くという出来事があった時、「こういう時代に、私は一体何をやっているんだろうか」ということを考え始めたのです。

――原子力の勉強をすることに、疑問を持ち始めたのですね。もう1つの理由とは?


小出裕章氏: ちょうど大学闘争の時、東北電力が原子力発電所を建てると言い出しました。建てる場所は、女川という街でした。仙台から直線距離で60キロ位離れていると思いますが、いわゆる日本三大漁場という東北、三陸沖の漁場の1つで、海で生活をしている漁港です。日本中が、諸手を挙げて賛成していたのですが、女川の人たちが「なぜ女川なんだ?」と声をあげたのです。電気を使うのは仙台。仙台の近くには仙台火力発電所という火力発電所もあったのですが、なぜ原子力発電所だけは女川なのかということを、私自身も問われてしまったのです。大学闘争というのは、自分のやっている学問が社会的にどういう意味を持っているかを答えろという運動だったと私は思いました。そうなると私がやりたいと言っている原子力発電というものが社会的にどういう意味を持っているのか、また、なぜ女川なのかを、私は答える責任があると思い、回答を探し始めました。ただ、東北大学原子核工学科では、原子力発電はいいものですということしか教えてくれず、なぜ女川なのかという疑問に教員は答えてくれませんでした。だから自分で探すしかないと思ったのです。



――どのようにして、答えを出されたのですか?


小出裕章氏: ちょうどその頃、米国でも原子力に対する疑問が出てきて、原子力発電所の持っている危険性というようなものが、米国から発信されていました。私はその情報を自分で探して勉強するようになり、原子核工学科の教員たちと論争も始めたのです。論争していくと、原子核工学科の教員たちは危険だということを認めざるを得なくなるわけです。それでも彼らが最後に口にしたのは、「妻も子どももいるんだよ」という言葉でした。私は、自分の生活を言い訳にする人生はまっぴら御免だと思いました。都会が電気を欲しいと思うなら危険も承知の上で都会に発電所を作るというなら納得できますが、自分は電気を使うけれど危険は別のところに押し付けるというようなことを、認めてはいけないものだと思うようになったのです。それで私は70年の秋にその結論に到達して、これはもう止めさせるしかないと思いました。

――止めさせる活動としては、どういったことをされていたのでしょうか?


小出裕章氏: 1970年の10月23日に、女川で住民たちが第一回の総決起集会を開きました。私はその集会にビラを持って参加しました。東北大学の原子核工学科の中であるとか、或いは理学部の物理学科であるとか、農学部の水産学科であるとか、色々なところの学生が一緒に集会に行きました。そして、女川でボロボロの長屋を借りて、そこに住み込み、ビラを撒くというような生活を始めました。たくさんの仲間が一緒に女川原発の反対に加わりました。その後は、それぞれの人生を歩み始め、中には「原子力はもう駄目だ。こんなところに自分はもう居たくない。生活を言い訳にするようなことは決して言いたくないから、初めから生活を言い訳にしないでいいような立場になればいいんだ」と、原子核工学科の大学院をやめて、土方になった人もいます。

――そういった仲間がいる中で、小出さんは原子力の渦中に留まったわけですが、それはなぜですか?


小出裕章氏: 外できちんと生きるというやり方で抵抗する生き方も大切ですが、専門的な立場から反対するという仕事は絶対に必要なのです。私は常に、今を向いています。明日のことには、興味がありません。この場に残ることを決断したのも、その当時いた東北大学原子核工学科の大学院で、戦う課題があったからなのです。

人生は1度きり。自分のやりたいことをしたい


――原発の敷地として受け入れさせられてしまった場所がありますが、そのことについてどうお考えですか?


小出裕章氏: 経済的にどんどん疲弊していって自分のところでは仕事もない、出稼ぎに行くしかない、家族もばらばらの生活をしなきゃならない、これはなんとか抜け出したいなと思っているようなところに、押し付けられてきたのだと思います。だから一概に押し付けられてしまった、立地をされてしまった人たちのことを私は責めることはできません。なんでもかんでも東京に集中していってしまって、地方はますます過疎になります。そして1度原子力発電所を作らされてしまうと他の産業は全然寄ってこなくなり、原子力発電所が年を経ていくと固定資産税や交付金が減っていきます。そうするとどんどん貧乏になっていき、また次の原子力を作ってくれと寧ろ地域から頼まなければいけなくなるという構造になってしまっているのです。それは必ずしも地域の問題なのではなくて、日本の国造りが間違っているのだと思います。だから、原発を止められないのです。

――ご自著でも、「そんなことは言いたくないけれど、生きている間に、もしくはこの100年の間にガラッと構造が変わることはないだろうな」とおっしゃっていましたが、それでもなお反旗を翻してやっていこうというのには、どういう思いがあるのでしょうか?


小出裕章氏: 言わなければいけないことはあるわけですから、言わないでいたら面白くないじゃないですか(笑)。私は1回しか生きられない。そして、明日死んでしまうかもしれない。私は、世界中、70億人の人がいる中で、他の誰でもない私なのです。みんなそれぞれ、ある歴史を背負ってかけがえのないその人としてこの場にいる訳じゃないですか。なのに、かけがえのない存在として生きなかったら損だと思いませんか?せっかく生きているのに、金のためや地位のために生きても面白くない。「これだけはやりたい」と思うことをやるのが一番いいのではないかと私は思います。

私の仕事は、私にしかできないことをすること


――執筆についてお聞きしたいのですが、本を書こうと思ったことはないそうですね。


小出裕章氏: はい。今でもあまり興味がありません。例えば私が180度転換した時、私の前には、女川という町があり、そこで生きている人々がいて、東北電力がブルドーザーで原発を作ろうとする、そういう現場がありました。ですから、その現場でやらなければいけないことに、私は向き合いたいと思いました。今も同じです。皆さんがいる場所とは少し違う特殊なこの場所にいて、この場所でしかできないこと、私にしかできないことということがあります。それをやるのが私の仕事です。本を書くことは、私にしかできない仕事ではありません。今この場所で私がやらなければいけないこと、例えば福島の放射能で汚染された試料を測定するということは私の仕事です。他の人にはできないから私がやるのです。その報告書を書くのも私の仕事です。ですが、一般の人たちに向けて何か易しい言葉を使って啓蒙書を書くということは私の責任ではないと私は思います。

――何がきっかけで本を出すことになったのでしょうか?


小出裕章氏: 92年に出した最初の本、『放射能汚染の現実を超えて』では、出版社と私との間を橋渡しした人がいるのです。「お前がこれまで書いてきたものを集めて、1冊の本にして出すことは価値があることだと思う。この出版社が引き受けてくれると言っているから出さないか」と私に声をかけてきたのです。私は、「そんなことに私の時間を使う気がありませんから、お好きなようにやってください」と言いました。そして、間に入ってくれた人と出版社の人が話をして、私が現場で書いた報告や、問題にぶち当たってどうしても発言せざるを得なくなって書いた文章などを集めて、1冊の本にしてくれたのです。今まで出した本は全て、私が書いたものや発言したものを編集者が集めてきて、本にするという形で出版されました。

――本の価値について、どのようにお考えですか?


小出裕章氏: 歴史とは、無数の出来事でできていますが、その無数の出来事のうちのほんの一部だけが歴史として残されてしまいます。私からすると、権力者がただ歴史を作っているという風に思えてしまうのですが、無数の歴史にはそれぞれに価値があるはずであって、70億の人間がいれば70億の大切なことがあるわけだし、70億の個性があるわけです。どれに価値があってどれに価値がないかというようなことは、私はないと思います。でも残念ながら、歴史は権力者が自分の都合のいいようなものだけを残し、書き残さなければ消されてしまうのです。そういう意味で言えば記録や本というものは、大変価値があると思います。権力の側ではない、民衆の側のものをきちんと書き残す、本にしておくということは大切だと思います。

――今後の活動予定は?


小出裕章氏: 朝寝、朝酒、朝湯が大好きで、それで身上を潰したと言われる、小原庄助さんになろうと思っています(笑)。実は私は、先のことを考えないので、約束しているのは半年先までなのです。「それ以上先は生きているかどうかも分からないので、一切約束はしません」と言っていて、講演会の約束も半年先まで。ですから、あと1年経ったら私がどうなっているかは、自分でも考えていません。こういう考え方になった決定的な理由は、自分自身が次郎という子どもを亡くしたことです。その次郎が半年生きただけで逝った時に、「ある時生まれて、ある時突然死ぬ。命ってそういうものだ」ということを納得してしまったので、「明日死ぬかもしれない」と心底思っています。私は今やれることをやる、それだけです。

(聞き手:沖中幸太郎)

著書一覧『 小出裕章

この著者のタグ: 『考え方』 『生き方』 『価値観』 『日本』 『研究』 『理系』 『研究者』 『エネルギー』

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