分かりやすく書くために大事なのは、「視点」
――最初の本は、どのようにしてできあがっていったのでしょうか?
佐倉統氏: 米本さんが不在だった3、4ヶ月の間に、「この参考文献を読んでこういう研究をやれ」といった指示はあったので、そのレポートを書いて提出しました。でも、それも次第に机の色々な書類の山に埋もれていってしまいました(笑)。そういった時に、ある研究会で、現在東大教育学部にいる川本隆史さんと知り合う機会がありまして、川本さんも環境思想のことを少し研究していらっしゃったので、お会いした時に、「こんなことを書いたんです」とそのレポートを見ていただきました。すると「これ、面白いじゃない。今度環境問題に関して『現代思想』で書くから、これを載せてもらおうよ」という話になりました。そういう経緯で『現代思想』に載ったものを、今度は中公新書の編集者の早川さんが見て、「新書を書かないか?」と電話をくれたので、本当に驚きました。色々な幸運が重なりましたね。
――一般向けに書かれる時に、工夫されていることはありますか?
佐倉統氏: 分かりやすく書くというのは非常に難しいです。正確さを緩めて荒く書くことが分かりやすく書くことだ、と思っている人もいるようですが、実はそうではなくて、読み手、聴衆によってどこが要求されているか、そしてそこにフィットするかどうかということを考えるのが大事だとぼくは思うのです。学会や専門の学術論文で書く時は、読み手、聞き手は専門家なので、背景の知識がたくさんあります。だから、文脈の上で「ここの部分が出てきたのはどういうことなのか」、「本当にそうなのか?」などといった話になります。でも、そういう背景や知識がない人が知りたがっている情報というのは専門の人間とは別のもので、例えば「手続きがどれだけ厳密か」といったことなどには、そもそも興味がないわけです。もちろん専門的な情報の粗密という部分も大事だとは思いますが、それよりも、語っている中身や現象に関して「どういう視点で語るか」という、その視点の違いの方が分かりやすさにとっては、一番大きい部分だと思うのです。読み手が科学のどういうところに関する情報を欲しているか、そこをきちんと考えないと、分かりやすい文章にはなりません。
――編集者の役割については、どのようにお考えでしょうか?
佐倉統氏: 「分かりやすい本にする」ということに関してもすごく大きな役割を担っているとぼくは思います。自分でも「いい本ができたな」と思う時は、編集者さんとの関係がすごく上手くいった時で、共著者といった感じでもあります。中公文庫の『わたしたちはどこから来てどこへ行くのか? 科学が語る人間の意味』という、進化論的に人間を考えるということを書いた本があるのですが、あれは編集者の若月眞知子さんという方と、イラストを描いてくれた木野鳥乎さんと3人で作りました。おふたりがぼくに質問をして、ぼくがそれに答えるという形で、最初から、若月さんと木野さんを聴衆、読み手として書いた本で、ぼくの好きな作り方をした本なのです。妻は研究者ではないので、結婚する時に「大学院で何の研究をしているの?」と聞かれて、それを分かるように話をするのがすごく大変でした。“利己的な遺伝子”という話をしても、そこから分からないわけですから、結構いい訓練になりましたね(笑)。
サイエンスコミュニケーターは、科学者とは別の領域の専門家
――読み手、聴衆によって言語を使い分けるような感じでしょうか?
佐倉統氏: ええ、まさに2つの言語なんですよ。2つの言語をずっと使い続けるのは、ぼくにはなかなか難しいです。だから今は専門的な言語の方、特に進化学とか生態学、霊長類学などの専門論文を書くのは、ほとんどできません。だからこそ、サイエンスコミュニケーターの方向へ向かうことに踏ん切りがついたのだと思います。サイエンスコミュニケーションというのは、科学者が片手間にやる、といった認識の人もいるかもしれません。もちろん専門の科学者が分かりやすく一般の人に説明することはすごく大事なことだし、専門の領域のことは専門家じゃないと伝えられないとぼくも思います。でも、サイエンスコミュニケーターというのは、専門の科学者とは別の領域の専門家です。単に科学の専門のことを分かりやすく伝えるということではなくて、それはそれで1つの別の領域としての新たな表現や、研究活動だと思います。
――今、サイエンスコミュニケーターとして、重点をおいていることとは?
佐倉統氏: 冒頭にもお話しましたが、今ぼくが関わっているプロジェクトが、放射線の低線量被爆の問題です。専門的知識や技能を適切に使えば、放射線の内部被爆もきちんと防ぐことができる。だからこそ社会の中に専門的な知識を上手く定着させて有効に活用することが大事だと思います。3・11の原発事故があった直後に、ある専門家の学会が色々と電話相談を受け付けた時に、「ウチの井戸水を飲んでも大丈夫か? 庭に洗濯物を干しても大丈夫か?」というような、日々の生活に関する相談がたくさんありました。それらの質問に対して、一般論をベースに「大丈夫です」と言っていた専門家は、すごく信頼を失いましたよね。一方で、「その地域の汚染状況は分からないから一緒に測りましょう」とか、「どうしたらみなさんの暮らしを守れるかを、一緒に考えましょう」と言っていた専門家もいました。彼らのように、今までの研究や蓄積だけに基づくのではなく、暮らしの中で必要な専門知識や情報を一緒に作り出していった人たちもいるわけです。だから専門的な科学的知識を、社会、生活の中で使えるような形にするために、「変換アダプター」となるものが必要なのです。遺伝子組み換え食品でも予防ワクチン、あるいは環境問題や教育問題、民族問題でも、色々なところでそういった、科学的知識と日常生活との「変換アダプター」が必要とされているとぼくは思っています。