読者と一緒に言葉を楽しむために、辞書の面白さを広めていく
国語辞典編纂者で、『三省堂国語辞典』編集委員を務める飯間さん。辞書の資料とするため、新聞や雑誌、テレビ、インターネット、それに街の中などから、日本語の実例を広く収集しています。その成果は、国語辞典本体だけでなく、著書『ことばから誤解が生まれる』『辞書に載る言葉はどこから探してくるのか?』『三省堂国語辞典のひみつ』などに反映されています。特に、実際に辞書ができる過程をつづった『辞書を編む』では、国語辞典の編纂にかける情熱と、辞書の面白さを語っています。その一方、NHK Eテレ「使える!伝わる にほんご」では講師を務め、同局の「ことばドリル」でも監修を担当しています。文章の言葉、会話の言葉、若者言葉、子供の言葉など、とにかく日本語に関するものには何でも興味を示し、片っ端から記録する毎日。日本語をこよなく愛する飯間さんに、国語辞典の多様性や、辞書の世界に入るきっかけになった“ある出会い”、そして今の時代における辞書の役割や使い方について語っていただきました。
辞書にはそれぞれのカラーがある
――執筆活動のほか、テレビやラジオなどでも発言されていますね。
飯間浩明氏: 編纂者として、国語辞典というはこういうものだ、ということを伝えたいんですよ。三省堂の人から「エヴァンジェリスト(伝道師)のように、辞書の面白さを広めようとしていますね」と言われたこともありますが、私自身もそのつもりでいます。一口に国語辞典と言っても、その個性は色々です。複数の辞書を横に置いて読書や勉強をすることの楽しさを分かってほしい。「辞書はコモディティ(日用品)化した書籍だ」と、ある人がTwitterでつぶやいていましたが、たしかに、今はインターネットで、誰もが同じ辞書を、しかも無料で使っています。「Yahoo!辞書」「goo辞書」などがそうですが、ここに入っているのは、実質的には『大辞泉』または『大辞林』という辞書です。約26~27万語を収録しています。それで、「これだけあれば、もう事足りる。他の辞書は要らない」という意見もあります。でもそれは、信頼できる1人の友人としか付き合わない人間関係のようなもの。例えば、『大辞泉』君というよくできた友達がいて、何かあったら「君はどう思う?」と頼りにする。それは悪くないし、実際、『大辞泉』は本当に優れた辞書なのですが、もっと他にも友達を作ってはどうですか、ということを言いたいのです。
――「1人だけ」の意見を聞いているのは、もったいないですね。
飯間浩明氏: そうでしょう。辞書にも、誤りや不十分な説明もあるかもしれない。あるいは、正確ではあっても、説明がどうもストンと腑に落ちないとか、もう少し違うニュアンスの説明を聞きたかったとかいうこともあるかもしれません。色々な人と付き合えば、それだけバランスの取れた考え方が養われるようになりますよね。辞書も人間と同じで、それぞれカラーが大きく違うのですが、一般の人にはなかなか理解してもらえません。「多少言い回しが違うだけで、似たようなものでしょう?」と思っている人も多いようです。
――読み比べてみないと、なかなかわからないでしょうね。
飯間浩明氏: では、比べてみましょうか。例えば『大辞林』で「鶏」という言葉を引いてみると、“キジ目キジ科の鳥。原種は東南アジアの密林にすむセキショクヤケイ。農耕の開始とともに家禽として飼養されるようになり、用途に応じた改良がなされ、多くの品種が生じた。弥生時代にはすでに日本に渡来していた。採卵用の白色レグホン、食肉用のブロイラー・名古屋種、闘鶏用のシャモ、観賞用のオナガドリ・チャボなどの品種がある。くたかけ。とり”と非常に詳しく載っています。『大辞林』は百科事典的な性格が強いのです。でも、この「鶏」という言葉を隠して、“キジ目キジ科の鳥、原種はアジアの赤色野鶏です。弥生時代には渡来していました”と聞いて「鶏のことですね」と分かる人がどれだけいるでしょうか。つまり、百科事典的な文章は、言葉としての鶏を必ずしも説明しません。その点、『三省堂国語辞典』(通称『三国』)は別の書き方をしています。“たまご・肉をとるために飼う鳥。頭に赤いとさか(鶏冠)があり、あごの下にも肉がたれている。ほとんど飛べない”、そして“「こけこっこう」を見よ”と書いてあります。それで「こけこっこう」の項目をめくってみると、“ニワトリの鳴き声”と書いてある。百科事典的ではありませんが、イメージは浮かびやすいでしょう。
ものの見方を示した辞書を作る
――辞書によって切り口や目的といった性格が、全く異なるんですね。面白い。
飯間浩明氏: 切り口も、編纂の目的も違うんです。例えば文学作品で少し難しい鳥の名前が出てきた時に、これは一体どういうイメージでこの文章を読めばいいのだろうと悩むことがあります。何科の鳥という情報が書いてあっても、小説の中の一場面は浮かんできません。百科事典的な説明よりも、ものを描写するタイプの説明が必要な場合があります。『三国』の「アザミ」の項目は、かなり大胆ですよ。“とげの多い野草の名。タンポポに似た赤むらさき色の花をひらく”。タンポポを赤紫色に塗って、とげをつけるとアザミのイメージができあがるというわけです。多くの人は辞書を1冊ぐらいしか持っていないし、人によってはネットの辞書しか見ていません。でも、今は、『三国』を始め、数種の辞書がスマートフォンのアプリになっています。今お持ちの辞書以外に、カラーの異なる辞書をもう1つ加えることを勧めたいですね。
――飯間さんは、どんな辞書を目指しているのでしょうか。
飯間浩明氏: 『三国』は小型辞典なので、語数では二十何万語の大型辞典には太刀打ちできません。私たちは、語数よりも、ものの見方を示したいのです。『三国』がひそかにライバル視しているのは、同じく三省堂から出ている小型辞典の『新明解国語辞典』です。例えば「凡人」という項目にはこうあります。“自らを高める努力を怠ったり功名心を持ち合わせなかったりして、他に対する影響力が皆無のまま一生を終える人”。少し言い過ぎのような気もしますが、面白いですよね。こういう辞書だと、「これを1冊、家に置いておこう」という気持ちになります。こんなふうに、『新明解』は、“読者をニヤッとさせる”というキャラが立っていて、実に羨ましい。一方、『三国』の「凡人」は、“ふつうの人”“つまらない人”と、要点のみを簡潔に書いています。ただ、例文には“偉大なる凡人”というのを載せました。普通の人でも偉大な場合もあるという、『新明解』とは違った見方を示しました。また、インターネットでよく取り上げられるのは「恋愛」です。『新明解』の「恋愛」は詳しいですよ。“特定の異性に対して他の全てを犠牲にしても悔い無いと思い込むような愛情をいだき、常に相手のことを思っては、二人だけでいたい、二人だけの世界を分かち合いたいと願い、それがかなえられたと言っては喜び、ちょっとでも疑念が生じれば不安になるといった状態に身を置くこと”とあります。一方、『三国』は、“(おたがいに)恋をして、愛を感じるようになること”と短いですが、その「恋」を調べると、“人を好きになって、会いたい、いつまでもそばにいたいと思う、満たされない気持ち(を持つこと)”と書いてあります。このうち「満たされない」という部分に共感してくださる人が、けっこう多いんです。恋が満たされれば、愛に変わります。「恋しい」とは、基本的に目の前にいない相手への感情で、“不満足”の要素があります。それを念頭に置いて説明を書きました。新しい言葉を辞書に入れるということも大事ですが、すでにある言葉に関して「この説明でいいのかな」と吟味することも重要です。説明の語句の細かいところまで大切にしたいと思っています。
辞書作りに向いている性格
――ご出身は香川の高松だそうですね。
飯間浩明氏: はい。古い日記が家に残っているのですが、それを読むと、相当ひねくれた小学生だったようです(笑)。小学5年生の時には英語の教室に行っていたのですが、“今日は英語の教室に行った。カードで遊んだり、英語のテープを聴いたりした。ただこれだけのことに高い月謝を払わなければいけないのか。ま、楽しいからいいが……”といった内容が書いてあるのです。『新明解』よりもひねくれていたような気がします。今もそうですが、あまり人付き合いが得意ではなくて、人が白と言えば黒、上と言えば下といった感じで、何か人と違うことを言おうという気持ちがありました。このあたりの性格は、実は辞書作りに向いているかもしれません。辞書は人真似が禁物ですからね。国語辞典を扱った映画『舟を編む』を観ましたが、松田龍平さん演じる主人公も、人付き合いが下手。それでも、言葉に対しては一徹で、そこを見込まれて辞書編集の道に入ります。私自身もそういうところがあります。もともと、人の趣味に関心がなくて、小学校の友達がバラエティー番組の話題で盛り上がっていても、私はNHKのニュース解説などを見たりしていましたね(笑)。
――一風変わった飯間少年ですが、どんな将来を描いていたのでしょうか。
飯間浩明氏: 幼稚園を卒業する頃の夢は新聞記者でした。小学生の時は手塚治虫の大ファンだったので、漫画家になろうとしました。それから、NHKのアナウンサーになりたかった時期もあります。中学の時にアナウンス大会の予選に出てトチッたので、「これは無理かな」とも思ったんですけどね。大学に入ると、だんだんと現実的になってきて、さすがに漫画家などは無理だと分かりましたが、ではどうするか、まだ漠然としていました。少なくとも、すぐに就職してサラリーマンになるというのは自分の柄ではありませんでした。でも、大学時代から、色々な国語辞典を引き比べるのは好きでした。
見坊豪紀先生との衝撃的な出会い
――その辞書好きが決定的になった一つの節目はある先生との出会いだとか。
飯間浩明氏: 大学院に入る頃に、見坊豪紀(けんぼう・ひでとし)という、『三国』を作った人の著書に出会いました。一度も会わないうちに、ご本人は亡くなってしまいましたが、心の恩師です。先生の本には、「旅行にも行かず、酒も飲まず、人間的な生活を全て捨てて、100万語を超える言葉を集めている」という趣旨のことが書いてあります。「この人はただ者じゃない」と衝撃を受けました。失礼ですが、最初は「面白いオッチャンだ」と思っていました。見坊先生は、辞書の編纂をしながら、自分が集めた珍しい言葉を『ことばのくずかご』という1冊の本にまとめました。誰も使わない言葉や、言い間違いのようなものなど、辞書に載らなかった変な言葉ばかり、たくさん載っていました。それが面白くて、娯楽として読んでいたんです。しかし、だんだん恐ろしいことに気づくようになります。この小さい単行本の中には、数千の「辞書に載らない言葉」が入っています。これを選ぶために、いくつの言葉を集めたのだろう、いや、「辞書に載る言葉」も含めたら、どのくらいの数の言葉になるのだろう、と思い至ったのです。その答えは実に145万語ということでした。気が付いたら、見坊先生に心服していましたね。それと同時に、そうやって言葉を集めて意味を考える、説明を記述するということを日常的にやっている辞書編纂者に憧れるようになりました。私にとっては、見坊先生がロールモデルだったのかもしれません。そうやってどんどんと辞書の世界にのめり込んでいきました。でも、国語辞典の監修で有名な金田一京助博士は文化勲章を貰っていましたし、「辞書を作る人というのは偉くなくてはいけないらしい」ということも頭の片隅にあり、自分の中ではあまり現実的な夢ではありませんでした。
――辞書編纂の仕事が現実味を帯びたのはいつ頃だったのでしょうか?
飯間浩明氏: 大学院を出て、言葉に携わる仕事ということで、最初はアルバイトとして三省堂の辞書編纂のお手伝いをするようになり、奥川さんという編集者と類語辞典を一緒にやっていました。彼に自分の書いた原稿を見てもらっていたら、2005年の秋のこと、「今度、『三国』の第6版を出すので、飯間さんがやってください」と言われたのです。類語辞典での経験もあるし、「尊敬する見坊先生の『三国』に少しでも携わることができるのなら」という思いで、仕事を引き受けました。「きっとアルバイトだろう、でも、それにしてはやることが多いな」と感じていたのですが、「私はどういう資格で『三国』に携わるんでしょう」とわざわざ聞くのも気が引けたので、曖昧なまま準備を続けていました。ところが、「作業が本格的に始動するので、今度は三省堂に来てください」と言われて行ってみたら、私の他には柴田武先生・市川孝先生・飛田良文先生といった偉い先生しかいなかったのです。つまり私は『三国』の正式の編集委員になったのだと、あとから気付きました。でも、もし初めから「あなたは偉い先生と一緒に編集委員として名前を連ねるのですから、そのつもりでやってくださいよ」と言われていたら、私はすごくビビっていたと思います(笑)。もちろん依頼は受けていたとは思いますが、当時はよく理解していなかったのです。この第6版は2008年に出ました。
嘘を書かないこと。取材は欠かせない。
――辞書の編纂を始める前に、本を出されていますね。
飯間浩明氏: 2003年に、岩波アクティブ新書から、私の初めての本となる『遊ぶ日本語 不思議な日本語』を出しました。私は大学院の頃からホームページに言葉に関する文章を書いていて、それが結構な量となりました。すると、ある日『広辞苑』の編集をやっていた増井元さんという名編集者から、「色々とホームページで面白いことを書いていますが、これを1冊の本にしませんか」と、メールがきました。辞書のことを多少でも知っている人ならば、『広辞苑』の増井さんを知らない人はない、辞書編集の神様です。メールが来た時には、本当に驚きましたが、実際に本になると決まった時はうれしかったですね。私の本の担当は、途中から鈴木さんというもっと若い方に代わりましたが、ゲラのやり取りなども初めてだったので、ドキドキしていたのを覚えています。
――初の著作はどのようにして進められましたか。
飯間浩明氏: 私としては、「あの岩波から本を出すのだから、ホームページの文章をそのまま使うわけにはいかない!」と考え、大半は新原稿になりました。新たに取材にも行きました。川端康成の“国境(こっきょう)の長いトンネルを抜けると雪国だった”という文章について「日本にあるのは、国境(くにざかい)。だから「くにざかい」と読むべきだ」という意見が根強くあります。でも「くにざかい」だと時代劇みたいだし、川端康成の新感覚派の文章は「こっきょう」と音で読みたい。それで、実際にどちらが作者の意図に沿った読み方なのか確かめてみようと思って、越後湯沢にある川端康成の記念館「雪国館」に行きました。そこにはアナウンサーが『雪国』を朗読している古いVTRが残っています。「こっきょう」と読むアナウンサーの発音を、隣で川端がウンウンと頷きながら聞いており、「こっきょう」が川端康成の公認の読み方だったことが窺えます。その他、取材で得た複数の資料を元にして、「あれは“国境(こっきょう)の長いトンネル”と読んでもよい」という文章を書きました。その数行を書くために新幹線に乗って、日帰りで取材に行ったことが、一番印象に残っています。
――しっかりとした裏付けをとるためには、現地取材も欠かせない。
飯間浩明氏: 一般向けの気楽な本でも、嘘を書いてしまってはいけませんからね。また、文章にはかなり気を遣いますし、読んで少しでも違和感があると変えたくなるので、初校、再校、三校、その全部が真っ赤になります。「ちょっと赤を入れすぎたかな」と思うこともありますが、自分の文章に納得したいので、その点はご勘弁願いたいんです。書き手としての責任の重さはネットでも紙でも同じですが、ネットだと、万が一間違ったことを書いたとしても補足ができます。紙はそうそう書き直すわけにいきませんので、やはりネットとは違います。ネットでの文章は、自分では何回も読み返しているつもりですが、専門の編集者や校閲の目が入らないために、誤字脱字や文字の不統一などがどうしても残ってしまいます。残念なことですが。
――外部の目である編集者たちには、どのようなことを求められますか。
飯間浩明氏: 書き手の立場から言うと、「第一の読者」という存在ですよね。校閲の方の青字を拝見すると、「これは気付かなかったな」という指摘が細かく書いてあります。例えば「言葉の使い方が辞書に載っているのと違います」とか、「これだと2通りに意味がとれますが、どっちの意味ですか」とか。「矯めつ眇めつ」という感じで1行ずつチェックしてくださるので、それだけ紙に印刷される文章は信頼できるものになります。遠慮深い編集者もおられますが、むしろ、何でも言っていただいたほうがありがたいですね。文章って、本当に、自分だけでは書けません。もちろん、基本的に責任を負うのは著者で、「これで行こう」と最終判断するのも著者です。でも、著者が読者の目線に立って読もうとしても限界があります。そこに編集者や校閲の方が加わることで、チェック機能が外在化されます。チェックする方は、決して、学校の先生のように、語句を赤字で直すようなことはなさいません。原文尊重の精神です。あくまで、「こうしてはどうですか」という提案として書き添えてくださいます。そこに奥ゆかしさを感じます。
「本といえば電子書籍」という世界になっていくかもしれない
――iPadなど、電子書籍を活用されているそうですね。
飯間浩明氏: iPadは肌身離さず持っています。何年後かは分かりませんが、いずれ「本といえば電子書籍」という状態になるでしょう。『三国』も、次の第8版か第9版ぐらいになると、電子版がメインになるかもしれません。今や、学生に「紙の辞書は一覧性があっていいですよ」と長所を説いても、ほとんど反応してくれません。彼らが使うのは、専用機の電子辞書か、さもなければ、スマートフォンやタブレットのアプリ版です。この傾向は今後も強まるでしょう。私も、2、3年前までは、電子辞書の利便性についてはまだ懐疑的だったのですが、ハードウェア、デバイスの進化は著しいですね。私は、今iPadを使っていますが、以前に出ていたものはハードウェアが一回り大きかったし、分厚い学術書とほぼ同じ重さがあって、持つのが疲れました。小さい文字はドットが粗いためによく読めませんでした。でも、今出ているものはだいぶ軽くなって、小さい文字もきれいに見えます。「これなら使えるかな」というところまで良くなりました。今後は、文庫本と同じ重さぐらいまで軽量化してほしいですね。今の2分の1ぐらいの細かい文字でも表示できれば、文庫本の版面と見分けがつかなくなります。電池が入っているか入っていないか程度の差になれば、みんな電子書籍を選ぶでしょう。
――資料の電子化もされているそうですね。
飯間浩明氏: 今回の『三国』第7版(2014年1月刊)の編集に当たっては、基礎資料として、とにかく大量の言葉のデータベースが必要でした。家には辞書の資料となる小説・エッセーなどの本がけっこうありますが、どこに何が書いてあるか、すぐには調べられません。それで、いわゆる“自炊”ということになりました。文学全集など、何十巻もあるのを、据え置き式のカッターで全部切り刻んで、スキャナーにかけてテキストファイルにします。今のところ、1,000冊前後は電子化しました。全20巻の国語辞典で、初版のものを切り刻んだ時は心が痛みましたが、自分の持っている本の何ページ何行目にどのような言葉が載っているのかを知りたい、という気持ちの方が切実でした。例えば、「この言葉は確か北杜夫の小説に書いてあったということだけは分かっている」という場合。スキャンしてテキストにすれば、簡単に検索ができて、モヤモヤが吹っ飛びます。快感がありますね。紙の本と電子書籍は対立するものではありません。私は著書の中で「敵を間違えちゃだめだ」ということも書きました。既存の国語辞典にとって、今後ライバルになるのは、むしろ、ネットで自由に編纂できる「ウィクショナリー」などの媒体でしょう。あるいは、「複数の辞書は要らない、ネットの辞書が1つあればいい」とみんなが思っているとすれば、その考えも“敵”です。そこに切り込んでいくことができさえすれば、辞書の媒体は紙でも電子でも問題ではありません。
言葉を楽しむということ
――どのように辞書を使ってほしいと思われますか?
飯間浩明氏: 辞書を身近に置いて、疑問があったら気軽に引いてほしいですね。それから、言葉には唯一の正解があるわけではない、「こう使わなければ間違い」というような窮屈な考え方はしなくていい、と知ってほしい。「言葉が乱れている」と言われますが、どの言葉も、必要があって、望まれて生まれてきます。逆に、本当に乱れた言葉は、生まれてもすぐ消えてしまいます。例えば、ジュースではなく、「このスージュおいしいですね」と言っても伝わらないですよね。したがって、今私が使った「スージュ」は、このまま消えてしまいます。一方、周りの人が「その表現があれば、今まで言いたくても言えなかったことが言える」と感じたとすると、言葉は広まります。「ヤバい」という言葉は、本来の「危ない」だけでなく、おいしさなどを表現する意味でも使われるようになりました。これは悪いことではありません。また、「的を射る」はいいけど「的を得る」は間違っている、という人もありますが、今回の『三国』第7版では「『得る』も間違いではない」と書きました。「要領を得る」のように「得る」には「うまく捉える」という意味もあるし、「その意を得ない」は「意味が捉えられない」ということです。「的を射る」にはブスッと刺さった感じしかないのに対し、「的を得る」には「やった、ゲットしたぜ」という感じがあります。それぞれ意味が違うからこそ、どちらも使われているのです。言葉は、言いたいことがきちんと伝わるかどうかが肝心です。自分の思っていることを効果的に相手に伝えられるのであれば、それはいい言葉であり、いい表現なのです。
――辞書も少しずつ変化していくんですね。
飯間浩明氏: 辞書を日常的に使っていると、言葉をより楽しめるようになります。友達同士で「辞書にこんな変なことが書いてある」と話題にすることも、言葉を楽しんでいるということだし、さらに「これはちょっと書きすぎだよね」と思えば、もっと理想的な説明を考えるのも有意義なことです。読む人を楽しませて、同時に、言葉について考えてもらう。私はそんな辞書を目指しています。文筆業でなくても、仕事でものを書いたり、話したりする機会は誰にでもあります。その人たちが、「この言葉をどう使えばいいか」と悩んだ時、辞書は「こんな感じでどうですか」と1つの提案を示します。そして、「ああ、それはいいね」と言ってもらいたいのです。酒場で議論中のサラリーマンが、気軽に電子辞書を取り出して言葉を調べてみる。さらには、お互いに相手の辞書の説明を覗き込んで、「おや、君の辞書にはそんなふうに書いてあるのか」と驚き合う、そんなふうに、辞書が生活の中に当たり前にある世の中になればいい。多くの読者と一緒に言葉を楽しみたいのです。
(聞き手:沖中幸太郎)
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