既存の学問とは違う“新鮮な知”を作りたい。
東京大学工学部を卒業後、日立製作所に入社し、コンピュータ・システムの研究に従事。1979年には情報処理学会論文賞を受賞。スタンフォード大学へ留学後、工学博士を取得。その後明治大学教授、東京大学情報学環教授などを経て、東京経済大学コミュニケーション学部の教授に。東京大学名誉教授。著作は『こころの情報学』『ネットとリアルのあいだ 生きるための情報学』『集合知とは何か ネット時代の「知」のゆくえ』などがあり、1991年には『デジタル・ナルシス』でサントリー学芸賞を受賞されました。エンジニアとして働かれていましたが、既存の学問領域の枠を超え、理系、文系、両方の分野に関する執筆活動を行っています。ご経験を交えながら、哲学の重要性から電子書籍の良さや問題点まで語っていただきました。
幼い頃の夢は、国を立て直すエンジニア
――西垣さんの文学的素養はいつ頃、どのようにして育まれたのですか。
西垣通氏: 私の父親は詩人である伊東静雄の弟子で、俳句なども作っていて、どちらかと言うと和風な文化だったのですが、ヨーロッパやアメリカなんかの古い小説なども沢山買ってもらい、それを読んで育ちました。それが私の原体験で、今でもそういう文章に触れるのは私の楽しみですね。
――文学とたくさん触れ合う中、合唱隊にも入っていたそうですね。
西垣通氏: はい。東京少年少女合唱隊という本格的な合唱団に入り、NHKの「みんなのうた」で歌ったこともあります。ミサから始めて、西洋のクラシックな音楽をきちんと教わったことは、私にとって非常に大きな体験でした。それは西洋文明の根本であり、グレゴリアン・チャントの音色や多声音楽などの世界は、実はコンピュータと共振しているのです。多くの日本人は「コンピュータとはそういうものだ」と、分かっていないだけなのです。普通の団塊世代はビートルズ世代と言われていますが、私はむしろ、クラシックの音楽を、ラテン語で歌ったりしていました。それが小学校、中学校の初め頃でした。
――文学系に進みそうな原体験ですが、東大へは理科Ⅰ類へ進まれたそうですね。
西垣通氏: 確かに、家庭は完全な文科系で、文学、歴史、哲学などの本がたくさん並ぶ環境で育ちました。ですが、私が小さい頃の日本は、高度成長していく以前で、とても貧しい国でした。たくさんの発明をし、科学技術を振興させて国を立て直す気運があったのです。日本を立て直していくエンジニアは、一種の花形だったのです。「その中の1人になりたい」、「理Ⅰからエンジニアに」という想いを小さい頃からもっていました。また、理系の勉強は嫌いではなく、特に物理学は割と好きだったので、理系に進みました。ところが、実際に進んでみると、製図や実験が得意ではなくて。手が動かないのです(笑)。工学部では苦労しました。
コンピュータを単に使うのではなく、本来の意味を探る
――エンジニアとしての活躍の場を日立に決めたのは?
西垣通氏: 情報社会がだんだん発展する中で、エンジニアとしてコンピュータのシステムを作るだけではなく、もう少し広く、人間にとって、社会にとってのコンピュータを考えたいと思いました。単に便利なものを作ろうということだけではなく、私の問題意識として、「コンピュータとは本来なんだったんだろう」という想いがあり、単に最先端テクノロジーを追っていればいいという気持ちはなくなっていきました。元々学問というのは、西洋ではリベラルアーツが根本で、修道院から出てきた。宗教や哲学などと結び付いたかたちで発展してきているわけです。そういった歴史的背景などがとても面白くなり、コンピュータを単に使うのではなく、例えば生物学や進化の問題、文学や哲学など、もっと広い文脈の中で情報社会というものを捉えていこうと。電子書籍もそうなんですが、こういう視座をもつことは、ITを上手に使っていく秘訣だと思います。そうしなければ、“テクニックのためのテクニック”という風に必ずなるのです。そういうわけで、大学を出てすぐに、日立に勤めました。
――どういったことをされていたのでしょうか?
西垣通氏: 第一線のコンピュータエンジニアリングに関わって、OSなどの開発をおこなう研究所にいました。そのときも「ある限定された領域の専門家というのは立派だが、それだけではつまらない。自分はちょっと違うことをやろう」という思い、とくに“ITを人間にとって良いものにしたい”という思いがありましたね。
その後、スタンフォード大学への留学を経て、日立に戻り、現場の工場で働いていたところ、働きすぎたのか過労で体を壊してしまいました。椎間板ヘルニアになってしまったのですが、一時は歩けないところまでいきました。ひどい環境にいたわけですが、研究所長としては現場に行って体験を積んでこい、人脈も作ってこいという親心だったのだと思います。工場に行って分かったことは、一般の工員さんを「使う」という上から目線でいてはダメだということ。IT開発の現場で一生懸命働いて苦労している人たち、そういう人たちの気持ちというものをそこで学びました。
――その後は、アカデミズムの道へ。
西垣通氏: 戻りました。最初はコンピュータの初歩を教えながら、余った時間にコンピュータ文化論や情報社会論を書いていました。そういうものを世間が求めていて、マスコミで評判になり、また東大へ戻りました。理科系の工学者というよりは、むしろ、情報文化論や情報社会論の、文科系の学者として戻ったのです。そうは言っても根本は理系ですので、理系の知識に基づいて文科系の問題を考えています。東大の情報学環という新しい大学院では、情報というものを基礎から考えようということで、基礎情報学という分野を開拓していきました。
――基礎情報学も含め様々な領域で本を出版されていますが、どんな想いで執筆されていますか。
西垣通氏: 今みんなが本当に悩んでいる、或いは、分からないけれども抑圧されていることを、分かりやすく表現したい、自分なりに解を作っていきたい、と考えながら書いています。それは、もちろんコンピュータの理論だとか生物学とか、多くの学問領域とも関わるのですが、非常に不思議なことに、ある意味では文学的世界とも関わりが深く、それが面白いのです。
――今まで読まれた本からも影響を受けていますか?
西垣通氏: ガルシア・マルケスという大作家がいらして、『百年の孤独』という作品が有名なのですが、私が一番好きなのは『族長の秋』です。80年代に集英社から、『ラテンアメリカ文学全集』というのが出て、一時期、日本でもラテンアメリカ文学が浸透し、マジックリアリズムというのが流行った時代がありました。それに私もすっかり入れ込みました。アメリカに留学している時も、休暇にはメキシコなどを訪れたことがあります。色々な思い出がありますが、そういう中で、我々が生きている世界という現実を根本から相対化していく言葉の力のようなものに接していたいという思いが強まりました。今も大学で「日本語ワークショップ」という授業をやっています。学生たちに好きな小説、詩などを持ってきてもらい、それを皆で読んだり、或いはそれの真似をして書いたりします。私にとっては本当に楽しい授業で、もしかすると学生より私が喜んでいるのかもしれない(笑)。
問題は身体性とブラウジング
――本を取り巻く環境も変化していますが、新技術とどのように付き合えば良いでしょうか。
西垣通氏: 私は、コンピュータと人間との関わりを深く捉えることによって、初めて本当の意味での情報社会というものが生みだされると思っています。現在では、まだ人間はコンピュータに振り回されています。なんでも難しいことはコンピュータに任せてしまおうという風潮がありますが、それはコンピュータが自力でやっているのではなくて、ITエンジニアである人間がお膳立てしているわけです。彼らの負荷も物凄く増えてきています。作る人も使う人も、全員がコンピュータに振り回されている。そういう現状をある意味で批判的に捉え直すという仕事をする人が少ないのです。批評家はいますが、コンピュータに直接関わってきた人たちではないので、深い領域までは踏み込めない。私は、大きなソフトウェアシステムなどの開発体験をふまえて、「情報って一体なんなのか」というところから入っていく。そういった、「誰かがやらなきゃいけないのではないか」という文明論的仕事をやってきました。ですから、新技術としての電子書籍というのも文明論の一環として捉えたいと思っています。今の政府やメーカーの一部の人たちは、とにかく便利で安く売れればいいと先走っていますが、これにはあまり賛成できません。
――西垣さんご自身は、電子書籍をどのように捉えていますか。
西垣通氏: 頻繁に使っているというわけではありませんが、悪いものではないと思っています。本というのはクローズしています。パッケージで閉じています。それが電子書籍だと、ネットなど色々なところにリンクが張れます。つまり、オープンなハイパーメディア、ハイパーテキストなんです。これは、本とは全然違うところであり、電子書籍の良い点です。普通の本だと、後で図書館に行って、参考文献を調べるなど、せいぜいそんなものです。電子書籍ではクリックするだけで参考文献の検索も不可能ではない。また、どういった言葉がどう使われているかを知るには、今までだったら後ろの索引だけだったのが、クリックするだけで範例が出てきます。そういう意味で文学研究などは非常に便利になっていますね。あと、本というのは、物理的に場所を取ります。例えば、普通の本だと3000部、5000部と作りますが、保管のために場所を取りますし、今は昔と違って出版の回転が速く、すぐに絶版になるなどして、いつの間にかなくなってしまいます。書いた人は一生懸命書いているわけですし、これでは非常に無駄です。今はそれを電子書籍化し、メモリーに取っておけばいい。権利関係は別として、絶版の概念が本質的になくなるのです。物理的な制約から解放されるというのは、非常に大きなことですね。
――どんな風に発展していくでしょうか。
西垣通氏: 今、韓国では電子書籍を教科書として使っていますが、日本でもそういった動きが出てくると思いますし、事実、一部の人たちはそれを推進しています。ただしその時に、「どういう風に電子教科書を導入すべきか」という、本当の意味での考察が大事です。また、身体性の問題も重要だと考えます。私は本を読んでいる時に、線を引いたり、場合によってはメモ書きを残したりします。すると自然に内容が頭に入り、読み終えると、なんとなく全体のイメージが私の中にできるのです。おそらく体がもうそういう風になっているのです(笑)。
ですから、同じ本を新しくもう1冊買っても、それは別のものです。座右に置いてあった本は、自分の体と繋がっている感じなのです。勉強した人は皆、そういう体験を持っている人が多い。また、一般には、「電子書籍はブラウジングが難しい」と言われています。ページを送る時、電子書籍では指を滑らせれば1ページずつ次へ進みますが、本の場合は厚さで「大体この辺だ」と分かるのです。果たして電子書籍にした場合に、そういう身体的な繋がりのようなものができるかどうか、そこがまだ分かりません。ただ1つ言えることは、小さい時から本で育った人たちは、そこでつまずくということ。小さい時にどういう状況で育ったかというのは、人間にとって非常に大事です。ですから、小さい時から電子書籍の環境の中で育って、そして上手に知的活動をやっていく人もいずれ出てくるかもしれませんね。
理系も文系もない。デジタルネイティブに期待
――手書きと印刷が共存した、過去に通じる部分もあるのでしょうか?
西垣通氏: 印刷技術ができる前、手書きの本は非常に高価でした。一般人には手に入らないものだからこそ、何か聖なる雰囲気を本に感じていたわけです。安い本が印刷されて一般人の目の前に出てきたので、僧侶や貴族などからは反発がありました。にも関わらず、あっという間に普及し、印刷された聖書を元に、プロテスタンティズムのような新しい宗教世界が広がったのです。それまでは、教会堂の厳かなパイプオルガンの響きの中でキリストの教えが語られたりしていたのが、静かに1人書斎で聖書を読むという新しいタイプの聖なる体験が生まれました。これがある意味、近代を作ったということもあるわけです。
――電子書籍からも何かが生まれるのでしょうか。
西垣通氏: どういう風に変わってくるかというのは未知数です。ただ、単にビジネスやお金儲けという考え方、或いは、「高校生に無償で教科書を配るのはお金がかかるから、それを電子書籍にすればずっと予算節約になる」などという視点はやめてもらいたいものです。もっと時間を掛けて、「今後どうなるのか」ということを考えながら、取り組んでいってほしい。私たちは紙の書籍で、すぐれた文化を築いてきました。それと匹敵するようなものを生みださなければいけない。そういう意味ではまだまだ実験段階ですから。
また、電子書籍にワクワクするだけでなく、「もしかしたら文化を破壊するかも」と言っている一部の反対派の意見にも、それなりに耳を傾けないといけないと思います。
――文化の破壊というのは。
西垣通氏: 電子化には、複眼的な、次元が広がる可能性があります。アラン・ケイという人が、パーソナルコンピュータを考えた時、“ダイナブック(ダイナミックブック)”という概念を生み出しました。今のパソコンは、昔のパソコンよりは、彼の考えていたダイナブックに近くなっていると、私は確信しています。なぜかというと、ハイパーリンクできるなど、オープン性がありますし、どこへでも持っていけますから。人間がアクティブに機械に働きかけて、機械の方からもアクティブにこちらに向かって働きかけてくる。そういう風なものになってきています。逆に、単に、目先のゲームを売るとか、利便性ばかり考えるというのは、文化の破壊をもたらします。そういった浅薄なものの見方が文化の破壊なのであって、電子機器そのものが文化の破壊ではないのです。人間の生命力をどういう風に活性化していくのか、深いところから考えていくべきだと感じています。
――新技術と哲学は、切り離せない。
西垣通氏: はい。ところが、特に日本では、そういったことを考えている人の数が余りにも少ない。海外には一部ですが、います。コンピュータというものを生んできた文化の土壌があるからです。これは、根本的にはユダヤ、キリスト教の伝統だと思っています。私が小説を書いている理由は、コンピュータのルーツを掘り下げて、一見無関係と思われている文化的深層を書きたかったからです。ところが、そこまで読んでくれる人は殆どおらず、「西垣はコンピュータばっかりやっていて面白くないから、趣味で小説も書いているんじゃない?」という風に見られている…困ったものです(笑)。これは、日本の文化の底の浅さですよね。つまり、海外から要領良く色々なものを取り込むが、その根っこにあるものまで迫ろうとしない。だからなかなか本当の意味での“新しいもの”を作れないのです。私は、理系も文系もない根本までさかのぼっていかなきゃいけないと思っています。私は若い世代に期待しています。若い世代は、やがてそういう哲学の部分を考える人が出てくると思います。いわゆるデジタルネイティブと言われる若者たちに、書物によって培われた深い文化をちゃんと伝えて、彼らなりに消化していくチャンスを与えてあげなきゃいけない。そのチャンスすら切ってしまって、「とにかくお前らは新しい機械を使え」という脅しは、絶対にあってはなりません。
公共哲学をベースに、集合知を考える
――どのような形で、文化を伝えていきたいですか。
西垣通氏: 「ITをどう使っていくのか」ということについて、今やっている仕事があります。集合知というテーマです。集合知は、クイズなど正解のある問題に対して、うまく機能するのです。オープンサイエンスも同様。このオープンサイエンスとは、素人も含め、皆でサイエンティフィックな問題を解いていこうというもの。もちろんプロフェッショナルとアマチュアが上手く協力しないといけません。どちらか一方、だけじゃダメです。今までは大体プロフェッショナルだけでしたが、それは色々な意味で問題があります。プロフェッショナルというものは、とかく古いパラダイムに捉われてしまう。そうしないと学位も取れませんし、予算もとれない。だからなかなかパラダイムから抜け切れない。そうすると、研究計画が歪んでしまうこともあります。アマチュアというのは、そういう拘束がないわけです。ですから、私はオープンサイエンスというのは面白いと思っています。『オープンサイエンス革命』という、マイケル・ニールセンの書いた本は良い本ですよ。あれはサイエンスなのですが、いま私がやっているのは、更にその先なのです。
――オープンサイエンスの、その先とは。
西垣通氏: オープンサイエンスというのは、「皆で謎を解いてこう」という話なのです。ある意味、正解は「どこか」にあるのです。ですから答えの正しさを比べる評価関数みたいなものはきちっとあるわけですね。それに対して、例えば政治的な問題になると、解が1つとは限らないわけです。色々な考え方があって、正義も色々あります。そうすると、“正義って一体なんだろう”ということを、ちゃんと考えなければいけない。今、ネットの中にはいろいろな意見がありますが、ほとんどの人たちが、ただ“自分の正義を表現し実現するためのツール”という風にしかネットをとらえていない。ですが、ネットを使って皆で第一歩から正義の問題を考えていくということも、あっていいんじゃないかと思っています。有名なマイケル・サンデルとか、ジョン・ロールズとか、ロバート・ノージックなどといった人たちの公共哲学的議論がありますが、現実の政治はこれらとは別世界で動いているのです。事実上、政治家でもない一般人が触れることはできない。これはおかしいことですよね。若者が政治離れするのは当たり前なのです。ネットの中で一般人が公共的な問題を考えていくこともあっていいでしょう。ですが、そのためにはまず、どういう原理をもって議論するのかということを、きちんと整理しなければなりません。私は公共哲学というものをベースにして、正解のない問題にたいする集合知を考えていくべきだと思っています。
東洋思想が鍵になる
西垣通氏: 公共哲学以外にも、東洋思想について、また、東洋と文明の関係について考えたいですね。ITや情報社会というのは、哲学的背景を考えると、完全に西洋社会起源のものです。いわゆる論理学、つまり古典ギリシャ哲学のようなものに、ユダヤ、キリスト教の宗教的思想が融合した。つまりヘレニズムとヘブライズムが合わさって、それらがいわば蒸留され、20世紀初頭の論理主義的な哲学というものができあがりました。論理主義哲学の上に乗っかって、コンピュータが発明されたのです。日本人は非論理的なところに興味があり、禅という思想も非常に貴重な財産ですが、論理的なコンピュータの思想と離れているように思います。そこを考えていきたい。でももうトシなので、公共哲学で力尽きるかもしれないんですけどね(笑)。私なんて、思索者としてはまだまだone of themです。でも、色々な人が考えるためのきっかけになればいいと思っています。
――one of themですか。
西垣通氏: それが正しいというか、元々そんなものだと思います。人間は、無意識や本能などによってドライブされながら生きている。例えば、何故戦後あんなにたくさんの子供が生まれたのでしょう。焼け野原で、赤ちゃんなんか育てられるような状況じゃないのに。そして今の日本は経済的にも成長し、子供が生まれたら豊かに育てられる環境が整っているのに、何故か子供はあまり生まれない。マスコミは、それについて色々な理屈を言います。女性の社会進出とか。でも、もしかしたらそうじゃなく、もっと大きい生物学的な運命や本能があるかもしれない。例えば、環境が悪化すると、突然変異で変化したバッタの大群は、意識的思考なしに空を飛んで新天地へ行きます。人間は、自分が「意識的に考えている」と思っているだけなのです。人間の自由意志を尊重すべきだという理念も良いけれども、もしかしたらもっと深いところで、人間は何かにドライブされて生きているんじゃないかと思うことも大切です。「我々がコンピュータを使ってこうやって生きている状況って一体なんなのか」を見抜かないといけないはずです。
――その鍵が、東洋思想にあり、さらにその先のものであると。
西垣通氏: 振り返ると、私はまずその問題を、機械と生物を繋ぐという点に着目して西洋思想に即して考えてきたのですが、更にその部分を深く考えるための鍵は、もしかしたら先ほどの東洋思想、インド思想なのかもしれないとも思っています。私一人では分からないことも多いので、もう少し皆で考えたいなと。そういう風に考えている人というのは、ある程度は居るのです。皆で集まって、既存の学問とは違う“新鮮な知”を作りたい。それが本当の意味での集合知なのではないでしょうか。
文系・理系といった既存の学問的区分けにとらわれず、新たな理念を掴まないと、21世紀はおそらく持たないでしょう。今のまま目先の経済効果ばかり追って進んでいったら、人間はもうどんどん凋落するだけ。まず、公共哲学的なミニマムの部分をともかく押さえないと、めちゃくちゃになるということ。その先は、今までに無い、新しい「生きているってなんだろう」というようなことを考えていきたいなと。そういう夢があります。
(聞き手:沖中幸太郎)
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