自由を求めて駒場の大学院へ
――充実した学部生活を経て、学者になるべく大学院へ進学されます。
三浦俊彦氏: 本当は、美学の大学院に行きたかったのだけれども、本郷キャンパスにある美学、芸術学の大学院生は、背広を着てネクタイを締めなければならず、それがどうも窮屈で。また当時は「とにかく自由にやりたい」と思っていて、駒場キャンパスの大学院を受けました。駒場は自由の代名詞みたいなところで、なんでもやれという感じだったので、当時の自分が求めている環境だったのです。本郷の方はガリガリのアカデミズムでしたし、先生も怖かったのです(笑)。
東大の場合、学部の時には、就職先は引く手あまたですが、文学部は例外です。どこからも会社案内パンフレットなんて来ません。
ですから、文学部の学生は、自分で盛んに就職活動をしなければいけませんでした。しかし、僕は結局、就活は全くやらないし、資格も全く取らず…(笑)。大学院進学を決めているような人間は、保険をかけて、だいたい取るものなのですが、僕はそんな気もなく、なんにもせずに大学院1本という感じでした。
ただ行ってみて失敗したのは、僕が受けたその年に制度が変わったこと。当時、東大大学院の文学部は人文科学研究科一つしかなく、その中に飛び地のように駒場に一つだけ比較文学比較文化というのがあり、哲学の教員がたくさんいました。ところが制度が変わり、総合文化研究科というのが駒場に独立したのです。指導教員の顔ぶれも変わり、哲学の教員がみんないなくなりました。指導教員は文学の先生しか選べず、哲学の論文も書けませんでした。ですが、元々美学をやっていましたので、文学方面にも適応力がありますから、哲学をやるつもりをちょっと変えて、哲学者の評伝にしました。評伝だったら文学みたいなもの。それでバートランド・ラッセルの、反核平和運動を調べるようになりました。
――当初と大きく環境が異なった訳ですが……。
三浦俊彦氏: 比較文学比較文化というところは、留学せざる者は人にあらざる、というような風潮があったのですが、私は留学しませんでした。行くとなれば準備も必要ですし、生活のことも考えなければいけません。それより、読書時間が確保できた方が良いと思っていました。今考えると、1年くらい遠回りしても良かったかなとも思いますが、当時は勉強が面白かったですし、留学すれば能率が下がるという気持ちがありました。また、外国語は上手くなるかもしれませんが、そんなことより内容をとにかくきっちり確立することが先決だと思っていました。
僕は小さい頃からマイペースで、人に流されず、人の言うことは気にしないという感じでしたが、ただ、ちょっとマイペース過ぎたな、とも思います。比較文学比較文化にいた頃はほとんど先輩とは繋がりなく、美学でもそうです。ですから偉い先生方とのパイプもほとんど無し。自分勝手にやっていました。そういったことよりも研究だったのです。はっきり言うと、自己満足ですよね。自己満足が突き詰められれば、本当に成果が出ると思っていました。
大学院時代は、さすがに親に迷惑をかけるのは悪いと思い、学費は親に払ってもらっていたものの、自分の小遣いは、自分でアルバイトをして作っていました。文科省(当時は文部省)からお金が出る、「チューター」という制度があって、だいたい時給600円くらいで働いていました。チューターとは、例えば留学生のために読書会を開いたり、相撲を一緒に見に行ったりというような文化の観賞や、日本語の読めない留学生のために国会図書館で資料を見つけてあげたりなどしていました。基本的には留学生のサポートですが、自分の勉強になる時もありましたね。
学生時代の蓄積が重要
――研究者として大学に籍を置くまではすんなりいきましたか。
三浦俊彦氏: まず修士論文を書いたところ、教授に「本にしないか」と言われ、出版社を紹介してもらいました。それから学会発表や学会誌に論文を発表したり、書評を書いたりしたことで認められ、教授より大学公募のお話を頂いて、現在の大学に決まったのです。これが29歳の時です。ですからオーバードクターは1年ですみました。
――オーバードクターの間は、何をしていたのでしょうか?
三浦俊彦氏: ひたすら勉強ですね。もうむちゃくちゃ本を読むっていう感じで、主に哲学や論理学などについてのものを読んでいました。就職すると、勉強の時間は取れませんし、大学院生の間は授業がほとんどなく、時間はたっぷりあるので、とにかく読書と論文の執筆をしていました。我ながら、院生時代はよく勉強したと思います(笑)。その頃の蓄積で、大体が決まっちゃいますから。就職してからでも勉強はできますが、蓄積が少しずつになる。
著書一覧『 三浦俊彦 』