今までは書かれなかった、「書くべきこと」を執筆したい
和洋女子大学の教授であり研究分野は、美学、形而上学。『M色のS景』をスタートに作家としても活躍。『蜜林レース』から『健康なんかこわくない!』『のぞき学原論』『戦争論理学 あの原爆投下を考える62問』など。近著『思考実験リアルゲーム 知的勝ち残りのために』では、思考実験とは何か? その概念から学び、直感的思考の欠陥を突き止めていく新たなる知的冒険挑んでいます。様々な領域で表現される三浦さんの想い、背景に迫ります。
学生とはなんでも話す。時には教わることも
――素敵なお宅ですが、執筆もここでされますか。
三浦俊彦氏: この家に移り住んだのは15年くらい前です。仕事をする部屋は上の階にあり、執筆もそこでします。執筆の際はノートではなく、デスクトップのパソコンを使い、書きたい時に書き、できる時にとにかくやるという感じです。大学では勤務時間や勤める時間も厳格には決まっておらず、いわゆる裁量労働制ですから、そのなかで時間をやりくりしています。
――現在、教鞭をとっておられる日本文学文化学類の文化芸術コースとは、どんなところですか。
三浦俊彦氏: 以前は英文学科や国際社会学科にいたのですが、現在いる日本文学文化学類の文化芸術コースでは、美学、芸術学、哲学などを教えています。いわゆる「オタク少女」が多く、イラストを描くのが好き、漫画が好き、アニメが好きという学生ばかりです。「こういう漫画があるよ」などと、学生から色々と教えてもらっている感じです。いわゆる論理の組み立ては学生に教えることができるのですが、講義の題材はほとんど学生からきます。ネットスラング(インターネットで使われる俗語)なども教わりますし、常に勉強になっていますよ。他の大学に非常勤で教えに行ったりもしますが、うちの大学も含めて、教員と学生の距離は、以前と比べて凄く近くなっています。僕は、講義では雑談などせず、マシーンになりきって教えるのですが、講義以外で学生が来た時はなんでも喋りますし、会話を楽しんでいます。
学者として、芸術に携わる
――美学、芸術学の道へ進まれるきっかけは?
三浦俊彦氏: はっきりとは覚えていませんが、高校生の時くらいに、美学なるものが面白そうだからそれをやろう、芸術の研究をやろうと思いはじめました。当時から、よく絵や文章などを書いていましたし、「どうせなら芸術を勉強しよう」という思いもありました。大学までは、自ら描くのと、研究するのと、同時並行のイメージでいましたが、仕事にするのであれば、やはり後者かなと思っていました。ただ、はっきりと学者を目標にしたのは、大学院に入ってからです。大学院に進んでしまうと、文科系の場合、普通に企業に勤めるのは難しいですから、もう学者しかなかったのです。
――学生時代は、どのように過ごしていましたか。
三浦俊彦氏: 両親は勉強に関して厳しくなかったですし、柔道部に入っていたので、あまり勉強の習慣がなく、大学受験は1浪しました。浪人時代、駿台で毎月ある模擬試験では、「東大合格可能性、80%以上」などと毎回出ていたので、これは楽勝だなという風に思っていました。特にプレッシャーは感じずに、のびのびとやってましたね(笑)。大学時代は普通に楽しんでいました。例えば学園祭にも大いに参加し、僕は高校3年生から浪人時代の時期は特に没頭して絵を描いていたのですが、その絵を使って、2年連続で個展を開いたりしていました。絵を全て運んだり、仲間を集めたりと、今から考えると凄いエネルギーだったなと思います。2年目の時は、結構倍率もあり、美術サークルの人なども応募するポスターとパンフレットの表紙のコンテストで当選し、表紙絵にもなりました。それで得意満面に女の子を呼んで。今思えば、物凄く充実した学園祭でしたね(笑)。
自由を求めて駒場の大学院へ
――充実した学部生活を経て、学者になるべく大学院へ進学されます。
三浦俊彦氏: 本当は、美学の大学院に行きたかったのだけれども、本郷キャンパスにある美学、芸術学の大学院生は、背広を着てネクタイを締めなければならず、それがどうも窮屈で。また当時は「とにかく自由にやりたい」と思っていて、駒場キャンパスの大学院を受けました。駒場は自由の代名詞みたいなところで、なんでもやれという感じだったので、当時の自分が求めている環境だったのです。本郷の方はガリガリのアカデミズムでしたし、先生も怖かったのです(笑)。
東大の場合、学部の時には、就職先は引く手あまたですが、文学部は例外です。どこからも会社案内パンフレットなんて来ません。
ですから、文学部の学生は、自分で盛んに就職活動をしなければいけませんでした。しかし、僕は結局、就活は全くやらないし、資格も全く取らず…(笑)。大学院進学を決めているような人間は、保険をかけて、だいたい取るものなのですが、僕はそんな気もなく、なんにもせずに大学院1本という感じでした。
ただ行ってみて失敗したのは、僕が受けたその年に制度が変わったこと。当時、東大大学院の文学部は人文科学研究科一つしかなく、その中に飛び地のように駒場に一つだけ比較文学比較文化というのがあり、哲学の教員がたくさんいました。ところが制度が変わり、総合文化研究科というのが駒場に独立したのです。指導教員の顔ぶれも変わり、哲学の教員がみんないなくなりました。指導教員は文学の先生しか選べず、哲学の論文も書けませんでした。ですが、元々美学をやっていましたので、文学方面にも適応力がありますから、哲学をやるつもりをちょっと変えて、哲学者の評伝にしました。評伝だったら文学みたいなもの。それでバートランド・ラッセルの、反核平和運動を調べるようになりました。
――当初と大きく環境が異なった訳ですが……。
三浦俊彦氏: 比較文学比較文化というところは、留学せざる者は人にあらざる、というような風潮があったのですが、私は留学しませんでした。行くとなれば準備も必要ですし、生活のことも考えなければいけません。それより、読書時間が確保できた方が良いと思っていました。今考えると、1年くらい遠回りしても良かったかなとも思いますが、当時は勉強が面白かったですし、留学すれば能率が下がるという気持ちがありました。また、外国語は上手くなるかもしれませんが、そんなことより内容をとにかくきっちり確立することが先決だと思っていました。
僕は小さい頃からマイペースで、人に流されず、人の言うことは気にしないという感じでしたが、ただ、ちょっとマイペース過ぎたな、とも思います。比較文学比較文化にいた頃はほとんど先輩とは繋がりなく、美学でもそうです。ですから偉い先生方とのパイプもほとんど無し。自分勝手にやっていました。そういったことよりも研究だったのです。はっきり言うと、自己満足ですよね。自己満足が突き詰められれば、本当に成果が出ると思っていました。
大学院時代は、さすがに親に迷惑をかけるのは悪いと思い、学費は親に払ってもらっていたものの、自分の小遣いは、自分でアルバイトをして作っていました。文科省(当時は文部省)からお金が出る、「チューター」という制度があって、だいたい時給600円くらいで働いていました。チューターとは、例えば留学生のために読書会を開いたり、相撲を一緒に見に行ったりというような文化の観賞や、日本語の読めない留学生のために国会図書館で資料を見つけてあげたりなどしていました。基本的には留学生のサポートですが、自分の勉強になる時もありましたね。
学生時代の蓄積が重要
――研究者として大学に籍を置くまではすんなりいきましたか。
三浦俊彦氏: まず修士論文を書いたところ、教授に「本にしないか」と言われ、出版社を紹介してもらいました。それから学会発表や学会誌に論文を発表したり、書評を書いたりしたことで認められ、教授より大学公募のお話を頂いて、現在の大学に決まったのです。これが29歳の時です。ですからオーバードクターは1年ですみました。
――オーバードクターの間は、何をしていたのでしょうか?
三浦俊彦氏: ひたすら勉強ですね。もうむちゃくちゃ本を読むっていう感じで、主に哲学や論理学などについてのものを読んでいました。就職すると、勉強の時間は取れませんし、大学院生の間は授業がほとんどなく、時間はたっぷりあるので、とにかく読書と論文の執筆をしていました。我ながら、院生時代はよく勉強したと思います(笑)。その頃の蓄積で、大体が決まっちゃいますから。就職してからでも勉強はできますが、蓄積が少しずつになる。
編集者の努力に感謝して、恩返しをしたい
――小説新潮に掲載された『M色のS景』は、大学に勤めだして間もない頃ですね。
三浦俊彦氏: 大学に勤めて2年目の時ですね。学生時代からずっと書いていた作品が小説新潮に掲載され、そこから担当の編集者が付き、「小説を書こう」という依頼等も来るようになり、小説を書くことになったのです。当時、新潮社では新人が本格デビューできないと言われていて、結局新潮では本は出せませんでしたが、河出書房新書の方が声をかけてくれたので、そちらから初めての単行本を出しました。最初に小説が雑誌に載ってから3年が経っていました。その後は、ずっと連続して出せましたね。
文筆の世界に入ってからは、とにかく書きたいことを書くという思いでやっていました。編集者も、執筆者に対してはそういうスタンスでしたし、思う通りにやらせてもらうというのが基本でしたので。
――書きたい事を書かせてくれる編集者の存在はありがたいですね。
三浦俊彦氏: 本当に感謝しています。文壇というのは人間関係が大切で、どれだけ地位を確立するかというのが重要らしく、しばしばそう諭されましたが、僕はそういうことには無縁です。これは、自分としては良いのですが、編集者に「すまないことをしているな」と、時々思っています。色々と努力してくれますし、僕の本は、そういう編集者がいてくれたから出せているようなものです。ところが僕は、それに対する恩返しをできてない、という忸怩たる思いはあります。
出版社と著者を結んでくれる編集者は、かなり努力をして本を出してくれます。出版社は必ずしも著者に興味があるわけではありません。そういった中で、編集者の方は興味を持ってくれて、著者を推してくれます。そうして、編集会議では著者側のわがままを通してくれるのです。まず、依頼は編集者から来ます。その際に、僕の方も書きたいものがあるので、向こうの出してきた企画に100%うんとは言わず、「これをこうしてくれたら書けます」と、こちら側の案も出します。企画というのは書き手と編集者、出版社の折り合いの産物なのです。僕の要求が通るよう、編集者が社の会議を説得する企画書を書いてくれるのです。そうして、お金など出版社の負担で、しかも印税まで貰って本を出すわけですから、こちらもなんらかのかたちで恩返ししたいですよね。
――どういった形の恩返しを考えていますか。
三浦俊彦氏: 1つは、売れることで経済的な恩返し。今まで1番売れている本でも、まだ10万部は売れていませんので、まずはそこを突破したい。もう1つは賞を取ることで、ステータスとしての恩返しです。賞を取る事自体に興味はありませんが、編集者との関係や、人間としての恩義がありますので。また、普通、大学教授の大半は自費、もしくは出版助成金を大学や国から貰って本を出し、印税も入ってきません。僕はまだ自費出版の経験はないし、完全に趣味から書いた『環境音楽入悶』などの、ベストセラーが見込めそうにない本も出してくれています。また、出版トラブルから起きた裁判でも、費用は出版社が全額負担してくれました。ここまでお世話になっているんだから、なんらかの形で恩返ししなければいけないと思っています。
出版社や編集者がいなかったら、著者は何も発信できません。もちろんインターネットで発信することはできますが、それでは普通のブロガーとの区別がなくなっちゃいますから。紙の本は、インターネットで勝手に発信するのとはわけが違います。
編集者との良い関係が、本の出来にも影響する
――編集者あってこその、「本」なのですね。
三浦俊彦氏: 僕が論理学などの専門性の高い本を書く時には、その分野の専門家ではない編集者が、素人なりに一生懸命読んでくれて、わからない部分について執拗に食い下がってきます。本当に頭が下がりますよ。編集者に原稿を指摘された際、当初わからなかった理由がわかり、書き方変えてみたら納得してもらう事ができました。原稿のやりとりでは、そういった気づきも得る事ができます。
校了間近の時は、「お互いに良いものを作りたい」という想いから激しくやり合うこともありますが、それは仕事の話。それ以外は友達みたいなものです。
もちろん実務的に徹した関係の編集者もいて、いろいろですが。何人かの編集者は、例えばこの家の地下室で音楽会をやると来てくれたり、大学のイベントに他の著者を連れてやってきたりなど、仕事外での遊び相手のようなところがあります。打ち合わせと称して時々会いますが、それも9割は、一見すると遊びの話や関係ない話で、仕事の話は1割くらいに思えます。しかし、そこで出来あがるものが結構良かったりします。地面だって、足の裏が接するとこだけあればいいってわけじゃない。他のところがあるから、安心して歩けるわけです。ですから無駄話があって、その中に仕事のポイントがあるという感じです。よくご一緒する2、3人の編集者は本当に良い友達で、会って話す会話は8割下ネタです(笑)。
僕の思う「本当にできる編集者」、著者と近い編集者は、ずっとオフィスには居られない。そんなに定時に出勤してなんてやっていたら、仕事にならないですよね。最近の大学も同じですが、出版社でも「ちゃんと出勤しなさい」というようなプレッシャーがあるのではないでしょうか。
学術書は電子書籍に。小説や詩集は雰囲気のある紙の本に
――編集者と作り上げていく本の一形態としての電子書籍の可能性、どんなところに注目していますか。
三浦俊彦氏: 検索ですよね。学術書の類いはどんどん電子書籍になって欲しいです。小説や詩集は、ちゃんと製本された、雰囲気のあるものにしてほしい。
例えば経済学の教科書だと、データもどんどん更新されますから検索で統計などをすぐにピックアップできた方が良いですよね。能率を考えても、学術書はどんどん電子化されないと困るのではないでしょうか。論文は、かなり電子化されてきています。僕の属している学会なんかでも電子化が進んでいますから、すぐにアクセスできます。読みたい論文がすぐに見つかるので、昔に比べて楽になりました。
自分だからこそ出せる本を作りたい
――どういった想いで執筆されていますか。
三浦俊彦氏: 他の人が書かないものを残したいなというのはあります。僕にくる依頼は、「論理学の入門の入門を書いて下さい」というものがほとんどなのですが、それはもう多くの人が書いているし、このテーマでは、限られた自分の時間でこれ以上書く価値はないと思っています。でもまだやり残しているものがあって、1、2冊書かなければいけないのですが、他に類書のないものを書こうと思っています。こういう本があったんだ、こんな本もあった、と言われるような本、また「俺がいたからこういう本が出た」と、「俺がいなきゃこの本はなかったでしょう」と思われるような本を書きたいです。
――どんなテーマで考えていますか。
三浦俊彦氏: 努力して見つけなくても、書くべきことというのはいっぱいあります。つまり、今まで何故か書かれてこなかったけれども、書かなきゃいけないというテーマがいっぱいあるので、それを1個1個片付けていこうと思っています。タイトルはまだ決まっていませんが、「下半身論理学」と「フェチ論」です。この2つについてはそろそろ書かなきゃ、と思っています。「下半身論理学」は、下半身にまつわる色々な話を論理学的にがっちりとやろうじゃないかという、いわゆる分析哲学と呼ばれるスタンスの論じ方で、下半身の下ネタの、どうしようもない話題を(笑)きっちりと学問的に体系化しようというのでやり始めました。風俗業界の裏側など、下ネタは、おもしろおかしく社会評論風に書いたものがいっぱいありますが、これを本当に学術風の論じ方で、本当に大真面目に哲学的に論ずる。これをやりたいですね。下半身トピックが語られる時、現実社会とネット空間には、大きな差があります。つまりネットでは常識になっていても、現実では全く論じられないという事柄がありますよね。
――現実ではなかなか本音が語られない……。
三浦俊彦氏: 特に男性の本音は出てくることはありません。男性が女性の前で本音など言ってしまったら、まず嫌われてしまいます(笑)。一方女性はというと「結婚するならお金持ちがいい」なんて、本来人前でははばかられるはずの本音をどんどん言います。「私は収入なんて関係ないよ」と言っていたら、お金持ちと結婚できませんよね。ですから女性が何を考えているかは男性には筒抜けです。そして女性は本音を言った方がお金持ちをゲットできる確率が高まるのです。ところが男性が本音を言ったら、女性はみんな引いてしまい、セックスに応じてくれる相手もいなくなるので、絶対本音を言いません。だから現実社会で言えない事の代替として、ネット空間では本音を言う男性がたくさんいるわけです
――男性は隠す事によって目標に到達し、女性は表明することによって近付くと。
三浦俊彦氏: 恋愛と結婚は別物、という価値基準を持っているのは実は、けっこう男の方だったりします。結婚相手にはこういう相手、恋愛ではこういう相手とちゃんと区別しています。つまり遊んで楽しい女が結婚相手にしたい女ではないし、逆もまたしかり。みんな知っていることですが、現実社会でそんなことを表立って言った男は矢面に立たされるので、誰も言いません。でも、ネットでは当たり前のように言われています。調べてみると、「それ」を書いている本はないんですよ。まだ現実社会の建前と密接なつながりを持つ紙の本は、それを言う段階にないのです。とにかく「モテる女=セックスに物わかりのいい女」と女性側に発信し、でも、そんな女性、実は男の結婚対象としては「?」ですよ、とは言わない。“セックス礼賛”の方が売れるからです。それに反することを言おうものなら、まず、女性がそっぽを向く。男性も「俺たちの本音をバラしやがって」という風に、「邪魔をするな」となりますよね。セックスできるチャンスがなくなるわけだから。ネットでも、本音を隠したい人々が叩きに回って炎上したりしてますね。そういう男の本音はこうだぞということを書きたいのです(笑)。女子大で教授をするにあたって、そういった男の二重基準に気がつけずに、傷ついてしまった学生の悩みを何度も聞くことがありました。それはやはり、女性は男性の本音をあまりにも知らな過ぎるからです。私の役割は、こういった社会の盲点を潰していくことだと思っています。
――建前では見えない、盲点ですか。
三浦俊彦氏: 進化心理学においても、人間の遺伝的本能みたいなものは調べ尽くされていて、女性の経験人数と、離婚率やDVの率が比例するということはもうはっきりしています。人間は本能で生きていますから。文化的建前はどうであれ、どうしても生理的な本能で変わってくるじゃないですか。だって血の繋がりのない親子の方が絶対に、虐待の率が高い。こんなの当たり前の話ですが、何故かそれが今、文化的な「常識」の中で分からなくなっている。建前だけで語ると見えないのです。これを直に書こうと思っています。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 三浦俊彦 』