時間に雇われないことで、自らの仕事を深化させることができた
――最初のキャリアは、新聞社だったそうですね。
麻倉怜士氏: 大学を卒業して日経新聞に入り、大阪本社で校閲をやっていたのですが、自分に合わないと思い、転職した先がプレジデント社でした。それからは、ずっと編集畑でした。企業のトップやエコノミストにもたくさんインタビューしました。16年間いたので、1日1人に会ったとすると、300×16で、4000人くらいかな。やはりスゴい人たちからは独特なオーラを感じました。特にSONYの盛田さんや井深さんなどの方々の話は面白かったし、本当に役に立ちました。
盛田さんは、起し原稿を書く際に、入れ替えたり加えたりという直しが必要なかったので驚きましたね。アメリカ進出の際、トランジスタラジオ製造でOEMの打診を断ったそうです。「OEMでやった瞬間に、単なる出入り業者、下請けになってしまって、自分の意思の自主性がなくなってしまう。大変だけど、一から自分でブランドを立ち上げて、田舎の電気屋に行ってSONYを売り込むということをやったからこそ、今のSONYがある。初心からブレてはいけない。目先の誘惑に負けてはだめですよ」とおっしゃっていたのを覚えています。当時、私は24、5歳でしたが、若い時にそういったエグゼクティブに会うことができ、直に言葉に触れることができたのは貴重な経験でした。
――その後、デジタル・メディア評論家として独立されます。
麻倉怜士氏: 評論を始めたのは1980年でした。SONYの「プロフィール(PROFEEL)」というテレビが出て、それを見た瞬間「こんなにきれいなのか!」とすごく感動しました。それで「テレビって、とても面白い物かもしれないな」というようなことをちょうど考えていた時に、雑誌『特選街』から「テレビの話を書いてくれ」と言われました。でもある程度専門的な話だったので、すぐには書けないかもしれないなと思い、「テレビ技術を勉強しよう」と、本を50冊ぐらい読みました。
知識が増えるに従って、それに裏打ちされる記事のオファーも増えていきました。そうこうしているうちに80年代、オーディオビジュアルの勃興期に入りました。オーディオ評論家はたくさんいましたが、オーディオビジュアルの分野では誰もいないので、「第一人者でいられるはずだ」と思い、“オーディオビジュアル評論家”を83年ぐらいから名乗るようになりました。雑誌に記事を書くとメーカーの方から注目されるようになり、メーカーに「こういうものを作ってほしい」と提案したり、サラウンドや大画面などに関しても色々と提案していって作っていきました。
プレジデント誌の副編集長になって、会社の仕事も忙しくなってしまいました。「副編集長が、本業以外の、記事書きのバイトをしていちゃいけませんよ」という話になったので、独立することにしました。
頭を回転させて、アクティブに書くこと
――人やモノとの出会いによる感動が、麻倉さんを動かしたのですね。
麻倉怜士氏: 「好き」というのが原点だと思います。私は傍から見ると、ワーカホリックかもしれません。でも好きな仕事を選んだから、定時の時間で仕事をこなすだけでなく、もっと自分の仕事に対して深めようという意識がありました。
例えば、原稿書き。400字1枚分を青山1丁目の交差点で書くというのを日頃からやっていました(笑)。会社が青山にありましたから。途中で文章の方向が分からなくなることがあるので、そういう時は途中でやめて、次の紙に行く。「だめになりそうかな」と予見した段階で、次の紙に新たに書いていくという方法を発見したので、手書きでも、すごくスムーズに先に進むようになりました。
――仕事のやり方を自身で編み出していったのですね。
麻倉怜士氏: そうですね、新たな発想を得るために電車の中で書くことがあります。あと、家で書く時は必ずテレビをつけます。頭が回転しなければ新しいものは出てこないですよね。自分で回転させること以外にも、他からエネルギーをもらって頭を回転させるという方法も試行錯誤の中から見つけました。水車みたいなものです。水の代わりに画像や音楽があったり、電車では物理的に動いているから、振動もある。それに人の会話もあるし、景色も変わるから、自分をアクティブにさせてくれる要素がたくさんあるのです。
締め切りも、頭の回転をあげてくれる上で役に立ちます。「まずい、頑張らなきゃ」といった気持ちになれるからです(笑)。アクティブに書くことが大事。風光明媚なところに行って原稿を書いたりもします。自分の発想などは2割ぐらいで、あとは自然から気をもらうとか、コンテンツからもらうとか、動きをアクティブにさせることによってもらうとか、そういうようなこともとても重要なのだと思います。