感動力を高めていきたい
デジタル・メディア評論家。日本経済新聞社、『プレジデント』副編集長などを経て、1991年よりオーディオ・ビジュアルおよびデジタル・メディア評論家として独立。AV機器やデジタル家電に関するコラム、書籍の執筆などの評論活動に加え、VHS、DVD、Blu-ray Discといった映像メディアなどにおける記録媒体の違いによる「感動の量」を“感動度”という概念であらわして比較したりするなど、独自のデジタルメディア論を展開されています。日本画質学会の副会長も務められていて、津田塾大学では、音楽理論の講師も担当する麻倉さん。スタインウェイ・アンド・サンズのピアノが置いてある自宅ホームシアターで語っていただきました。
いつでも聴ける、読めるという権利は大きな財産
――(ご自宅の書斎にて)こちらには様々な作品が並んでいますね。
麻倉怜士氏: 大学で音楽講師をしているので、CDはクラシックが多いのですね。VHSが全盛期を迎えた頃の放送録音もたくさんあります。購入した本やCD、録画したVHSやレーザーディスクなどは、1枚たりとも捨てないというのが原則なのですが、「数回も見てない物は、とっておく必要がないんだから、捨てなさい」という意見もありますよね。でも、本を読む、CDを聴くというのは、その実態行為の楽しみの10%ぐらいで、あとの90%は、保存してあって、いつでも取り出せる状態になっているということだと私は思うのです。
――大学ではどのように教えられているのですか。
麻倉怜士氏: 当時政府系銀行の役員をしていた、音楽評論家の中野先生が、うちの棚を見て感動され、私を講師に指名してくださいました。中野先生としては、大量にある昔の演奏家のVHSを生徒に聞かせてほしいというつもりで私を指名されたのかもしれませんが、私自身は単に聴かせるというやり方だとあまり面白くないと思っていました。
ですから、その仕事が決まると、まずは音楽史を100冊ぐらい読み、歴史から始まって、和声や旋律の話など、私なりにポイントを掴んでカリキュラムを作っていきました。音楽大学には行ってないけれど、「音楽大学に行った以上のことを頑張ってやろう」と思って、そこからすごく勉強しました。今から10年ぐらい前です。
――その頃の蓄積もここにあるのですね。棚に収めるというのは麻倉さんにとって、どんな意味を持つのでしょうか。
麻倉怜士氏: 「今は時間がないけど将来読むかもしれないね」という1つの切符というか、この“将来読める権利”というのはすごく大きな財産なのです。それと同時に「あの時に、ああいう番組を録った」という、そのこと自体が自分の歴史にもなっているのだと思うのです。松田聖子さんは今でも活躍されていますが、86年の全盛期の松田聖子さんの一瞬は、その時しかないわけで、それが映像として保存されているというのは個人的な財産でもあるし、「死んだら公共財になるかな」といった意味からしても、私はなるべく録ったコンテンツは、消したり出さないようにしています。
――新たなデバイスもどんどん登場していますが。
麻倉怜士氏: デバイスは古い規格のものも最低1台はキープしているので、どの形式のものでも観ることができます。若い子は、クラウドで育ちますから、VHSなどはほとんど誰も知らなくなっていますし、もう実態すらないということになりますよね。レーザーディスクも競争があって、VHDが負けました。負けたフォーマットはだいたいそこで価値がなくなるのですが、私の場合は、負けたことで、また違う価値を感じるのです(笑)。
――自分が保存して持っておけば、いつでも見ることができますね。
麻倉怜士氏: 永遠招待券を持っているという感じでもあります。それには、やはり実体を伴っていること、つまり手で持って、触れてということが大事。配信の場合はハードディスクから落として、画面を読むというその瞬間を楽しむわけです。パッケージ、装丁があって、なおかつ本の大きさという実感できるものがあって、それを見た時の1つの納得感というか、「これを買ったんだ」「私のものだ」「いい本だ」というのを感じながら読むというのが、芳醇、豊穣な楽しみだと思います。
私にはコンサートを楽しむ心構えというものがあって、サントリーホールなどには、必ず開場の30分前には行っています。コンサート会場に駆け込んですぐに聴いてしまうと、日常がまだ消えないうちに、コンサートという非日常が突然はじまってしまうのです。トイレに行ったり、コーヒーなどを飲んだり、プロセスを経た段階で音楽が始まると、非常にいい感じでその音楽に入っていけます。前準備もとても重要なのです。
これは本にも同じことが言えます。表紙を見た時の絵の印象とか、この本だったら「あ、『主題と変奏』か」とタイトルを見たり、めくるという物理的な動きとか、それらを踏まえて、文章に入っていきます。パッケージメディアが我々の文化生活に与えてくれる奥深い意義を感じながらコンテンツに接するのは、すごく楽しいことですね。タイトルを見ただけで中身がふつふつと湧いてきます。背表紙を並べて置いてあるということで、人は無意識的に体験を反芻させられているのではないかと思うのです。
――無意識的な体験の反芻とは?
麻倉怜士氏: 「ゴルトベルク変奏曲」という字を見て、記憶を読み返すというのと同時に、人間はすごく速くこの曲を聴いているのではないかと思うのです。本屋さんの棚を見ると伝わってくるメッセージがあります。あれは棚の文字からくる強いメッセージが、無意識に入ってくるからですね。その無意識下で集まった情報の組み合わせの中から化学反応がおこり、新しい発想が生まれます。棚を眺めていると、価値のシャワーのようなものを感じます。
時間に雇われないことで、自らの仕事を深化させることができた
――最初のキャリアは、新聞社だったそうですね。
麻倉怜士氏: 大学を卒業して日経新聞に入り、大阪本社で校閲をやっていたのですが、自分に合わないと思い、転職した先がプレジデント社でした。それからは、ずっと編集畑でした。企業のトップやエコノミストにもたくさんインタビューしました。16年間いたので、1日1人に会ったとすると、300×16で、4000人くらいかな。やはりスゴい人たちからは独特なオーラを感じました。特にSONYの盛田さんや井深さんなどの方々の話は面白かったし、本当に役に立ちました。
盛田さんは、起し原稿を書く際に、入れ替えたり加えたりという直しが必要なかったので驚きましたね。アメリカ進出の際、トランジスタラジオ製造でOEMの打診を断ったそうです。「OEMでやった瞬間に、単なる出入り業者、下請けになってしまって、自分の意思の自主性がなくなってしまう。大変だけど、一から自分でブランドを立ち上げて、田舎の電気屋に行ってSONYを売り込むということをやったからこそ、今のSONYがある。初心からブレてはいけない。目先の誘惑に負けてはだめですよ」とおっしゃっていたのを覚えています。当時、私は24、5歳でしたが、若い時にそういったエグゼクティブに会うことができ、直に言葉に触れることができたのは貴重な経験でした。
――その後、デジタル・メディア評論家として独立されます。
麻倉怜士氏: 評論を始めたのは1980年でした。SONYの「プロフィール(PROFEEL)」というテレビが出て、それを見た瞬間「こんなにきれいなのか!」とすごく感動しました。それで「テレビって、とても面白い物かもしれないな」というようなことをちょうど考えていた時に、雑誌『特選街』から「テレビの話を書いてくれ」と言われました。でもある程度専門的な話だったので、すぐには書けないかもしれないなと思い、「テレビ技術を勉強しよう」と、本を50冊ぐらい読みました。
知識が増えるに従って、それに裏打ちされる記事のオファーも増えていきました。そうこうしているうちに80年代、オーディオビジュアルの勃興期に入りました。オーディオ評論家はたくさんいましたが、オーディオビジュアルの分野では誰もいないので、「第一人者でいられるはずだ」と思い、“オーディオビジュアル評論家”を83年ぐらいから名乗るようになりました。雑誌に記事を書くとメーカーの方から注目されるようになり、メーカーに「こういうものを作ってほしい」と提案したり、サラウンドや大画面などに関しても色々と提案していって作っていきました。
プレジデント誌の副編集長になって、会社の仕事も忙しくなってしまいました。「副編集長が、本業以外の、記事書きのバイトをしていちゃいけませんよ」という話になったので、独立することにしました。
頭を回転させて、アクティブに書くこと
――人やモノとの出会いによる感動が、麻倉さんを動かしたのですね。
麻倉怜士氏: 「好き」というのが原点だと思います。私は傍から見ると、ワーカホリックかもしれません。でも好きな仕事を選んだから、定時の時間で仕事をこなすだけでなく、もっと自分の仕事に対して深めようという意識がありました。
例えば、原稿書き。400字1枚分を青山1丁目の交差点で書くというのを日頃からやっていました(笑)。会社が青山にありましたから。途中で文章の方向が分からなくなることがあるので、そういう時は途中でやめて、次の紙に行く。「だめになりそうかな」と予見した段階で、次の紙に新たに書いていくという方法を発見したので、手書きでも、すごくスムーズに先に進むようになりました。
――仕事のやり方を自身で編み出していったのですね。
麻倉怜士氏: そうですね、新たな発想を得るために電車の中で書くことがあります。あと、家で書く時は必ずテレビをつけます。頭が回転しなければ新しいものは出てこないですよね。自分で回転させること以外にも、他からエネルギーをもらって頭を回転させるという方法も試行錯誤の中から見つけました。水車みたいなものです。水の代わりに画像や音楽があったり、電車では物理的に動いているから、振動もある。それに人の会話もあるし、景色も変わるから、自分をアクティブにさせてくれる要素がたくさんあるのです。
締め切りも、頭の回転をあげてくれる上で役に立ちます。「まずい、頑張らなきゃ」といった気持ちになれるからです(笑)。アクティブに書くことが大事。風光明媚なところに行って原稿を書いたりもします。自分の発想などは2割ぐらいで、あとは自然から気をもらうとか、コンテンツからもらうとか、動きをアクティブにさせることによってもらうとか、そういうようなこともとても重要なのだと思います。
音が目に見えるというような感動
――「感動の量」という話も書かれていましたね。
麻倉怜士氏: 音楽を聴く時は必ず「音場(おんじょう)」というのがあって、その「場」の音も同時に聴いているのです。楽器から音が放射されて、それが壁などで乱反射をして、聴いている人のところへ届くのです。2chの普通のステレオで聴くというのは、どちらかというと直接音を聴いている感じですが、5.1chで聴くと、まさにその「場」で音楽が沸き立つという、音楽が出てくるところの証人になるというか、「見てますよ」というような感じで、音が目で見える感じがするのです。空間の雰囲気とか、音情報がきちんと入っていると、本当に感動しますよ。
――場の音が感動度に与える影響は絶大なのですね。
麻倉怜士氏: ええ。大学の音楽の授業のお話をしましょう。学生は200人ぐらいなのですが、究極の目的というのは、自分が好きな曲が、なぜ自分を感動させたのかという理由を研究してもらおうということです。それが後期のレポートのテーマとなっています。平原綾香の「ジュピター」でもいいし、ロックバンドでもなんでもいいのですが、それが自分を感動させたというのは、必ず音楽の中に自分を感動させる力があるということ。それを理論的に研究するというのを1年かけてやっています。大きな講堂でBOSEのスピーカーを使ってやっているので、音がいい。
大きい音を流してあげると学生はすごく感動しますね。彼女たちは「ヘッドフォンで育ってきたけれど、体全体で音を浴びるというのがこれほど快感なのかと、体験してみて初めて分かった」と言います。本来音楽が持っている、おいしい部分が欠落していて、全体からすると、2割ぐらいしか聞いてないのではないかと私は思うのです。それこそ「場」の力ですね。
――たったの2割…これは、もったいないですね。
麻倉怜士氏: クラシックを例にとると、作曲家がいて演奏家がいて、その間に楽譜という媒体があるわけです。昔は楽譜に直すしかありませんでしたが、表情記号というのも限られているから、書ききれないことも多いのです。良い指揮者であれば、行間を読むのと同じように楽譜に書いてないことも読みとります。
本の場合にも、「本当にこの人が言いたいのはどういうことなのだろう」というのを、思索しますよね。優れた演奏家は自筆で書かれた楽譜を取り寄せて、きちんと印刷されている楽譜と比較して「ここ、ちょっと違うんじゃない」とか、「書き直しがあるということは、こういうことも考えたのかな」と解釈したり、研究したりして、すごく細かいニュアンスを含め、その成果として演奏するのです。
つい最近WOWOWで、ジェイムズ・レヴァインというメトロポリタン歌劇場の常任指揮者がいかに素晴らしいかというドキュメンタリー番組がやっていて、そのリハーサル風景がとても面白かったのです。ベートーベンの「運命」だったのですが、「ここは爆発するように」といったようなこまかい指示も出していました。聴いていると、指示をする前と指示をした後では全然違うのです。その成果がCDに入っているので、すごく奥深いですね。そういう細かいところまで感じながら音楽を聴くのが、本当の音楽の楽しさだと思うのです。でもヘッドフォンで聴くと、そういうニュアンスはほとんど聴きとれません。だから、「スピーカーで音を聴きなさい。音楽体験が全然違いますよ」と機会があるごとに言っています。
デジタルの恩恵、いまだ感じられず
――本と言えば、新たなメディアである「電子書籍」についてはいかがでしょう。
麻倉怜士氏: 私の本も半分ぐらい電子書籍になっているので、自分の本を電子書籍で読むこともあります。漫画は1つ1つのメッセージが強いので、見開きになっている紙の本だと次の左ページが目に入ってしまい、結論が先に分かるといったこともあるのですが、電子書籍だと完全に分離されているので、その1ページに描かれている最大の情報量が入ってくるわけです。人間っておかしいことに、そこだけに集中しないというか、必ず周囲も視野に入ってしまうので、完全に一コマ一コマを味わって次に行ける、という点は良いと思います。
最大の欠点は、現状の電子書籍が単にアナログからデジタルになっただけのものだということです。電子化されたものが、単にここにあるだけ、です。紙本版、電子版、それぞれに合う大きさやレイアウト、機能を考えるべきなのに、「同じレイアウトでどうするんだ」と思ってしまいます。
――電子書籍ではなく「電子化書籍」の域を出ていないと。
麻倉怜士氏: 『プレジデント』ではコンピューター分野を担当していましたが、70~80年代には、「まだ全然情報時代になってないから、情報「化」時代と言っていました。単に情報にしているだけで、それを活用していない」ということを、よく記事に書いていました。電子ならば、もっと動画や作者の声が入ってくるとか、買ったらクラウドで更新していくとか。多角的な角度で1つのコンテンツを楽しむのが「電子」「デジタル」なのではないでしょうか。
電子ブックリーダーとしてのあり方としてはまだ発展途中というか、パッケージの良さなどのメリットもないので、現状のままでは、流行るとは思えません。ただ、発想としてはとてもいいので、電子化をもっと進めて、デジタルとしてオーサリング(文字、画像、音声、動画など色々な素材を組み合わせたソフトの作成)されたものが出てくればいいなと思います。自分が書いた文章素材の他に、映像素材、音声素材があって、それを作者の中でオーサリングしていって「この時は、こういうような音楽を流してほしい」とか、自ら指定して、作者の世界に入りやすくなるというものになれば、すごく面白いですよね。でもそういったマルチメディア的な作者はなかなかいないので、コラボでやってもいいと思います。
――オーケストラ化していくようなイメージでしょうか。
麻倉怜士氏: そうですね。一番小さい単位はバイオリンと第二バイオリン、ビオラ、チェロという弦楽四重奏なのです。その次に室内楽になって、それから室内オーケストラになってだんだん大きくなっていく。電子ブックリーダーのマルチメディア化においても、ピアノとバイオリンデュオのソナタぐらいから始まって、それからだんだん人を集めてチーム編成で壮大なものを作っていくような、ロードマップが考えられるわけですから、新しい切り口で新しいコンテンツを楽しめるようになればいいなと思います。
本物の装置が揃ってきた面白い時代で、「感動」を広めたい。
――ますます面白い時代になっていきますね。
麻倉怜士氏: 昔とは違い、今はコンテンツがあってメディアがあって再生装置がある。例えば、メディアでも20年前のSD放送の時代は、そのストーリーは分かるけれど、子葉が分からないという感じでした。同じように再生装置もなかなか本物の音、本物の芽が出なかった。だんだんそれが改善されてきて、今は“どのようにそれを使うとより良いか”というところが重要になってきました。
放送の流れとしては、2K、4K、8Kと進み、オーディオの方はCD音声からもっと音のいいハイレゾ音声にきています。音も絵も、ハイレゾという世界になると、より本物に近くなってきます。
その世界の中でどのように新しいコンテンツや世界を作っていくか。コンテンツ、メディア、再生装置という三角形の大きさをいかに大きくして、感動力を大きくするかということをいつもいつも考えています。
「感動力をいかに高めていくか」というところを、ソフトとハード、あと出版など色々なコミュニケーションを軸にしてやっていきたい、教育に関しても、より意識を高めてやっていきたいと思っています。来年は新しく音楽大学の教授になることが決まっていますので。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 麻倉怜士 』