晴山陽一

Profile

1950年、東京生まれ早稲田大学文学部哲学科(ギリシャ哲学専攻)卒業後、出版社に入り、英語教材の編集、経済雑誌の創刊、学習ソフトの開発などを手がける。元ニュートン社ソフト開発部長。1996年、自作ソフト『大学受験1100単語』普及のため、「英単語速習講座」を主催、全国各地で受験生の指導にあたる。1997年に独立し、精力的に執筆を続けている。 著書は『文法いらずの「単語ラリー」英会話』(青春新書インテリジェンス)、『「カタカナ英語」ではじめよう!』(角川フォレスタ)、『英語の見方が180度変わる 新しい英文法』『気がつけばバイリンガル 「英語で笑おう」』(IBCパブリッシング)など、100冊以上。

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哲学、音楽の世界への興味


――その想いは、その後どのような形となって表れていくのでしょうか。


晴山陽一氏: ものを書くのはそんなに簡単ではありませんでした。中学で社会部に入ったのですが、レポートを頼まれた時に、本を丸写ししたことがあるのです。先輩からは「自分で考えて自分の言葉で書くんだ!」と怒られましたが、自分の知らない分野だと言葉が何1つ出てきませんでしたね。

文芸部にも入っていて、小説も結構書きました。最初に書いたのは、長編の初恋の物語でした。一番の親友に見せようと思って学校に持っていったのですが、気が付いたらクラスメートが輪読していました。私にとって、その初恋は忘れがたい思い出だったので、形にしておきたいという思いもありました。ですから立派な布張りのノートを買ってきて、片方のページだけに縦書きで文章を書き、もう片方のページには彼女からの手紙などを貼ったり、一緒にデートをした場所の写真を貼ったりして、「この教会は今はない!」などといったキャプションも付けました。その頃から、文章は自然に書くことができたと思います。しかし、社会科のレポートとなると何1つ書けないという風に、自分の中にあるものしか書けませんでした。

教育大附属駒場中学に入ったとき、雰囲気が大学のようで、周りが優秀すぎて、プレッシャーから体調がおかしくなり、中2のときに十二指腸潰瘍になってしまいました。その時は「この苦境を脱出するためには哲学しかない」と思い、キルケゴールやショーペンハウエルなどを読んでいました。私の学年は、学生運動の影響で1年だけ東大の入試がなかった年で、東大以外で哲学を学ぶならということで、早稲田の哲学科を選びました。そのころ、岩波新書で『実存主義』という本を書いている松浪信三郎先生が、早稲田にいたのも大きな理由です。大学受験の際に買った倫社の参考書の監修者が、中村元という世界的な仏教の権威の先生で、それから仏教にも興味を持つようになりました。

―― 学生運動の時代は、学生生活にも影響を及ぼしましたか。


晴山陽一氏: 学生運動よりも、もっと色々なことに興味がありました。中学時代に、日本で一番上手いリコーダーの先生に習っていたので、大学生になってからは、演奏会をやっていました。チェンバロの第一人者である小林道夫先生にもかわいがっていただきました。

大学を卒業した頃には小林先生とジョイントリサイタルもさせていただき、評論家からは日本有数のリコーダー奏者という風に言われるようになりました。
例えば、組曲のようなものは、序曲があって、最後にコーダがある。ソロがあったり、たまにはソロが休んで弦楽だけなどと、緩急が色々ありますよね。そういったバリエーションが本でも必要だという意味では、音楽をやっていたというのはすごく大きいと思います。

話は変わりますが、自分の身に起きた神秘体験に興味があり、そのような現象は哲学的な頭では理解できないと感じました。そこで、自然に禅の本を読み始めました。大学を卒業した3月に、電信柱に「学生大接心」と書いたチラシが貼ってあるのを見つけました。鎌倉の円覚寺で1週間近く、ほとんど寝ないで座禅するという、専門の僧侶でもなかなかやらない、一番厳しい修行をやるというものでした。私はすぐに毛布を携えて円覚寺に駆けつけました。

――そこでは、どんなことを?


晴山陽一氏: 朝比奈宗源という有名な和尚さんがいて、その人から「物を見ている主体は一体なんなのか、聞いている主体は一体なんなのか、それを究明しなさい!」と言われたのを覚えています。1年ぐらい色々やっていたら、ある時、ふと抜け出る感覚というか、幽体離脱のような体験をして、それからは、禅の創始者である達磨大師の「二入四行論」の内容が逐一分かるようになったのです。でも、あるページでパタッと止まってしまいました。

――止まってしまったのは、どのようなページ・言葉だったのでしょうか?


晴山陽一氏: 「住空」という言葉で止まっていまいました。その言葉が出てきた時に、“空に住する”という発想が禅的ではない、達磨の発想とは違うと思ったのです。なぜ違和感を感じたのか、どうしても知りたくなって、その本の監修をしていた柳田聖山という世界的な禅思想史の権威の先生に直接手紙を書いたんです。

「こういう風な訳の方がいいと思うのですが、どうでしょう」といった内容の手紙を書いたら、柳田先生から分厚い返事が返ってきました。そこには「本の読み方は自由です。私は私の読み方を、本にしています。どうかご法愛ください」と書かれてありました。そのような経緯で、世界的な学者と友達になってしまいました。それまでお会いしたこともなかったのに、のちには結婚式にも来てくださいました。

面白い話で勉強しなければつまらない


――色んなことに興味を持って究めていかれるわけですが、その後出版の道を選びます。


晴山陽一氏: このまま音楽家になれればいいという思いもあったし、柳田先生からは「京都に来なさい」とも言われていました。音楽や禅、それから哲学も、文を書くのも好きで、語学も好き。ドイツ語、ギリシャ語、フランス語も勉強しました。でも就職を考えた時には「何か違うな」と思いました。結局、啄木(本の世界)が勝ったのです(笑)。

教育大附属駒場の英語の教師であった父は、教育社(現ニュートン社)で、ドリルや本を書いていました。ある時、出版社から父に、アルバイト学生を募る手紙が届きました。それを見て、アルバイト募集に応じたのがこの世界に入った最初のキャリアです。どの教科をやりますかと言われた時に、「お父さんが英語の先生だから」ということで、英語に決まりました。

――やってみていかがでしたか?


晴山陽一氏: 教育社の月刊のドリルはすごく売れていて、最盛期の会員は80万人、1人平均4冊とっていたから、毎月240万部くらい売れていました。私は初めて英語と正面から向き合いました。すると、「中学英語」の教科書や参考書は例文がつまらない、ということに気づきました。イギリスとアメリカの教材を買いあさって比較して読んでみると、日本で教えている英語とは、順番や内容が全く違う。向こうは例文からして面白い。面白い話じゃないと勉強していても、つまらないですよね。

また、われわれが作るドリルのすべてに外国人の校閲者がついていたのですが、彼らから、「日本人の英語はここが変!」とか「このTHEの使い方は勘弁してくれ!」などと原稿が真っ赤になって返ってくるわけです。「会って話したい」と言ってくる校閲者もいましたので、私も必死に対応しました。そうやっているうちに、自分でも本を書きたくなってしまって……。

――書きたくなってしまって……どうしたんですか?


晴山陽一氏: 勝手に原稿を書いてしまいました(笑)。イラストも全部、自分で描きました。すべての文法事項を、自然なシチュエーションで学べるようにしようということを考えました。例えば山を2人で登っていたら、雨が降ってきたので「あの小屋で避難をしよう」とか、天気の情報を知りたいから、そういう状況で「ラジオを持ってる?」と言えばストーリーとして意味を持つわけですよ。そのようなコンテキストなしで「This is a pen.」というような例文は生きた英語ではないのです。その違いを学習者に知らせようと思いました。そういう風に、ストーリーで教えたかったので、中学の3年分の英語に全部イラストをつけました。

――勝手に書いた(笑)原稿は、その後どのような経緯で本となったのでしょうか?


晴山陽一氏: ちょうどその時期に、会社から本を出そうという社長発の企画がありました。東京中の権威ある先生方から原稿を集めたのですが、社長としては、どうも納得がいかない。その時に誰かが社長に「晴山が何かやっていますよ」と伝えたようで、私がその出版の担当に任命されました。「これから半年間、部屋に籠もって本を完成させろ」と言われたのです。出来上がった本には、私の名前こそ載りませんでしたが、私の幻の処女作となり、15〜20万部ぐらい売れたと思います。

著書一覧『 晴山陽一

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