自分の人生のクリエイターになる、ということ。
英語教育研究家。大学卒業後に入社した出版社で英語教材の編集、経済雑誌の創刊、学習ソフトの開発などをされていました。また「英単語速習講座」の主催など、自作ソフト『大学受験1100単語』の普及活動を行い、全国各地で受験生の指導をされたご経験も。独立後も『英単語速習術』『英単語倍増術』『たった100単語の英会話』『すごい言葉』『英語ベストセラー本の研究』など、著書は130冊を超え、作中イラストも手掛けてらっしゃいます。また「手作り電子書籍」シリーズも刊行。Twitterの「10秒英語塾」での、笑いに満ちたクイズ形式のレクチャーでも注目を集めています。最大の趣味は「本の企画と、本作り」。生涯300冊が目標、とおっしゃる晴山さんに、その執筆の秘訣、出版塾で伝えたいこと、そして、編集者としての経験を踏まえた本作りについて語っていただきました。
ネタが尽きることは無い。閃きは、いつも思わぬところから飛び出す。
――コンスタントに出版を続けられる秘訣について伺います。
晴山陽一氏: 書籍数は16年間で130冊だから、コンスタントに年に8冊ずつ出しているということになりますね。私の場合は、エネルギーの出し方が少し違うというか、スポーツで言うとゾーンに入るというようなところがあるのだと思います。16年間で一度も執筆依頼が途切れたことがありません。去年ぐらいから執筆のペースが早まっているようにも感じていて、例えば、この『英語で笑おう』という本の場合は、英米のジョーク本を翻訳しながら書いていって、13万バイトぐらいの文字量の本をたった5日で書き上げてしまいました。執筆には先ほどの「ゾーンに入る」感覚というか、ある種の集中力が必要なのですが、若い時に禅に親しんだことが役立っています。
――晴山さんの本は、相当ボリュームがありますよね。
晴山陽一氏: 背景となる執筆の材料は大量に集めます。もう5年目になりますが、夜の11時ぐらいから1時間、Twitterで完全に無償の塾を、原則365日、正月も盆暮れもなしでやってきました。毎日5題ずつジョークを使って問題を出し、オチの部分でどういう単語が入れば一番笑えるかを当てさせるといったものです。その塾を毎晩やるために、常にジョークのネタ集めをしています。『英語で笑おう』の中には、300弱のジョークが納められていますが、ストックは3000~4000ぐらいはあると思います。そうやってネタは増え続けているので、書いても書いてもネタが尽きることはありません。私は編集者をしていたので、ネタがなくなるのが一番困るということがよく分かっているのです。「無から有は生じない」とよく西洋では言われますが、東洋は「無からなんでも出てくる」という考え方だと私は思うのです。意識している世界は無意識の世界の何パーセントに過ぎないなどと言われますよね。例えばこうやってお話していても、実際には常に脳の中には音や映像など、色々な情報が入ってきているわけです。そういう意識されない世界、いわば無の世界といつもコンタクトを取るようにしていると、思わぬところから閃きが飛び出してくるのです。
啄木から本作りの世界に憧れる
――本を作りたいと思ったのはいつごろからですか。
晴山陽一氏: もともと本を作るのは好きだったのだと思います。世田谷区の池尻に住んでいましたが、学校は経堂の近くの赤堤小学校というところで、バス停で13個ほど遠く離れていました。小学校に入った時は、ひときわ大人しい子で、1学期の最後の通信簿に「初めて晴山君が笑いました!」と先生に書かれるような子でした(笑)。でも、小学校1年生の頃、先生が1時間かけてお話を聞かせてくれた時には、家に帰ってから画用紙を切って綴じ、自分の記憶をたどって文を書き、表紙も色を塗って小さな絵本にして、翌日、学校へ持って行きました。
小学校5年の時に、石川啄木の伝記を読んで感銘を受けました。歌人である啄木は、短歌以外にも小説や日記も発表していますが、伝記には啄木が自作した表紙の写真も載っていました。本を書くだけでなく装丁も自分でしてしまう啄木に憧れを持ったのです。例えば「ドリトル先生」シリーズも、ヒュー・ロフティングが挿し絵を自分で描いていて、全部サインが入っていますよね。あれにもシビれました。書くということ以上に、その世界を作るといったことに憧れを持っていました。
――自分が作った世界を見てもらい、さらに喜んでもらいたいという気持ちだったのですね。
晴山陽一氏: そう、喜んでもらいたい。これも5年生のときでしたが、あるとき先生が「家までの歩数を計りましょう」という宿題を出しました。翌日、みんなが「320歩でした」などと結果を発表していきましたが、私はバス通学で家が遠かったので除外対象だったのです。ところが私の番がきて「十万何千何百何十何歩でした!」と発表したのです(笑)。遠いから特別だという風に思いませんでしたし、逆に、「よっしゃ、何歩だろう?」と思って挑戦したのです。
数え方を工夫しました。まず指で数えて、100までいくと、小さな石ころを拾って右のポケットに入れました。1000歩になった時には、右ポケットの石ころを全部捨てて、少し大きめの石を1個拾って、左のポケットに入れました。つまり指と左右のポケットを使って十進法をやったのです。翌日発表をした時には級友も先生も驚嘆していました。「みんな、びっくりするだろうな」と思ったので、数えるのも楽しかったのです。みんなを驚かせたいという気持ちがありましたし、仕組みを考えることを楽しみました。このときの「みんなを驚かせたい、
楽しませたい!」という想いは今の執筆に繋がっているかもしれません。
哲学、音楽の世界への興味
――その想いは、その後どのような形となって表れていくのでしょうか。
晴山陽一氏: ものを書くのはそんなに簡単ではありませんでした。中学で社会部に入ったのですが、レポートを頼まれた時に、本を丸写ししたことがあるのです。先輩からは「自分で考えて自分の言葉で書くんだ!」と怒られましたが、自分の知らない分野だと言葉が何1つ出てきませんでしたね。
文芸部にも入っていて、小説も結構書きました。最初に書いたのは、長編の初恋の物語でした。一番の親友に見せようと思って学校に持っていったのですが、気が付いたらクラスメートが輪読していました。私にとって、その初恋は忘れがたい思い出だったので、形にしておきたいという思いもありました。ですから立派な布張りのノートを買ってきて、片方のページだけに縦書きで文章を書き、もう片方のページには彼女からの手紙などを貼ったり、一緒にデートをした場所の写真を貼ったりして、「この教会は今はない!」などといったキャプションも付けました。その頃から、文章は自然に書くことができたと思います。しかし、社会科のレポートとなると何1つ書けないという風に、自分の中にあるものしか書けませんでした。
教育大附属駒場中学に入ったとき、雰囲気が大学のようで、周りが優秀すぎて、プレッシャーから体調がおかしくなり、中2のときに十二指腸潰瘍になってしまいました。その時は「この苦境を脱出するためには哲学しかない」と思い、キルケゴールやショーペンハウエルなどを読んでいました。私の学年は、学生運動の影響で1年だけ東大の入試がなかった年で、東大以外で哲学を学ぶならということで、早稲田の哲学科を選びました。そのころ、岩波新書で『実存主義』という本を書いている松浪信三郎先生が、早稲田にいたのも大きな理由です。大学受験の際に買った倫社の参考書の監修者が、中村元という世界的な仏教の権威の先生で、それから仏教にも興味を持つようになりました。
―― 学生運動の時代は、学生生活にも影響を及ぼしましたか。
晴山陽一氏: 学生運動よりも、もっと色々なことに興味がありました。中学時代に、日本で一番上手いリコーダーの先生に習っていたので、大学生になってからは、演奏会をやっていました。チェンバロの第一人者である小林道夫先生にもかわいがっていただきました。
大学を卒業した頃には小林先生とジョイントリサイタルもさせていただき、評論家からは日本有数のリコーダー奏者という風に言われるようになりました。
例えば、組曲のようなものは、序曲があって、最後にコーダがある。ソロがあったり、たまにはソロが休んで弦楽だけなどと、緩急が色々ありますよね。そういったバリエーションが本でも必要だという意味では、音楽をやっていたというのはすごく大きいと思います。
話は変わりますが、自分の身に起きた神秘体験に興味があり、そのような現象は哲学的な頭では理解できないと感じました。そこで、自然に禅の本を読み始めました。大学を卒業した3月に、電信柱に「学生大接心」と書いたチラシが貼ってあるのを見つけました。鎌倉の円覚寺で1週間近く、ほとんど寝ないで座禅するという、専門の僧侶でもなかなかやらない、一番厳しい修行をやるというものでした。私はすぐに毛布を携えて円覚寺に駆けつけました。
――そこでは、どんなことを?
晴山陽一氏: 朝比奈宗源という有名な和尚さんがいて、その人から「物を見ている主体は一体なんなのか、聞いている主体は一体なんなのか、それを究明しなさい!」と言われたのを覚えています。1年ぐらい色々やっていたら、ある時、ふと抜け出る感覚というか、幽体離脱のような体験をして、それからは、禅の創始者である達磨大師の「二入四行論」の内容が逐一分かるようになったのです。でも、あるページでパタッと止まってしまいました。
――止まってしまったのは、どのようなページ・言葉だったのでしょうか?
晴山陽一氏: 「住空」という言葉で止まっていまいました。その言葉が出てきた時に、“空に住する”という発想が禅的ではない、達磨の発想とは違うと思ったのです。なぜ違和感を感じたのか、どうしても知りたくなって、その本の監修をしていた柳田聖山という世界的な禅思想史の権威の先生に直接手紙を書いたんです。
「こういう風な訳の方がいいと思うのですが、どうでしょう」といった内容の手紙を書いたら、柳田先生から分厚い返事が返ってきました。そこには「本の読み方は自由です。私は私の読み方を、本にしています。どうかご法愛ください」と書かれてありました。そのような経緯で、世界的な学者と友達になってしまいました。それまでお会いしたこともなかったのに、のちには結婚式にも来てくださいました。
面白い話で勉強しなければつまらない
――色んなことに興味を持って究めていかれるわけですが、その後出版の道を選びます。
晴山陽一氏: このまま音楽家になれればいいという思いもあったし、柳田先生からは「京都に来なさい」とも言われていました。音楽や禅、それから哲学も、文を書くのも好きで、語学も好き。ドイツ語、ギリシャ語、フランス語も勉強しました。でも就職を考えた時には「何か違うな」と思いました。結局、啄木(本の世界)が勝ったのです(笑)。
教育大附属駒場の英語の教師であった父は、教育社(現ニュートン社)で、ドリルや本を書いていました。ある時、出版社から父に、アルバイト学生を募る手紙が届きました。それを見て、アルバイト募集に応じたのがこの世界に入った最初のキャリアです。どの教科をやりますかと言われた時に、「お父さんが英語の先生だから」ということで、英語に決まりました。
――やってみていかがでしたか?
晴山陽一氏: 教育社の月刊のドリルはすごく売れていて、最盛期の会員は80万人、1人平均4冊とっていたから、毎月240万部くらい売れていました。私は初めて英語と正面から向き合いました。すると、「中学英語」の教科書や参考書は例文がつまらない、ということに気づきました。イギリスとアメリカの教材を買いあさって比較して読んでみると、日本で教えている英語とは、順番や内容が全く違う。向こうは例文からして面白い。面白い話じゃないと勉強していても、つまらないですよね。
また、われわれが作るドリルのすべてに外国人の校閲者がついていたのですが、彼らから、「日本人の英語はここが変!」とか「このTHEの使い方は勘弁してくれ!」などと原稿が真っ赤になって返ってくるわけです。「会って話したい」と言ってくる校閲者もいましたので、私も必死に対応しました。そうやっているうちに、自分でも本を書きたくなってしまって……。
――書きたくなってしまって……どうしたんですか?
晴山陽一氏: 勝手に原稿を書いてしまいました(笑)。イラストも全部、自分で描きました。すべての文法事項を、自然なシチュエーションで学べるようにしようということを考えました。例えば山を2人で登っていたら、雨が降ってきたので「あの小屋で避難をしよう」とか、天気の情報を知りたいから、そういう状況で「ラジオを持ってる?」と言えばストーリーとして意味を持つわけですよ。そのようなコンテキストなしで「This is a pen.」というような例文は生きた英語ではないのです。その違いを学習者に知らせようと思いました。そういう風に、ストーリーで教えたかったので、中学の3年分の英語に全部イラストをつけました。
――勝手に書いた(笑)原稿は、その後どのような経緯で本となったのでしょうか?
晴山陽一氏: ちょうどその時期に、会社から本を出そうという社長発の企画がありました。東京中の権威ある先生方から原稿を集めたのですが、社長としては、どうも納得がいかない。その時に誰かが社長に「晴山が何かやっていますよ」と伝えたようで、私がその出版の担当に任命されました。「これから半年間、部屋に籠もって本を完成させろ」と言われたのです。出来上がった本には、私の名前こそ載りませんでしたが、私の幻の処女作となり、15〜20万部ぐらい売れたと思います。
社長の号令→新しい挑戦→成功。のループ
――雑誌の創刊にも携わられたそうですね。
晴山陽一氏: 23年間勤めた中で印象的だったのは、『Newton』という科学雑誌が刊行され、40万部という、もうお化けのような科学雑誌になったことですね。通常科学雑誌は5万部も売れないのに、創刊号が40万部売れた時は、科学雑誌の奇跡とまで言われました。ある時、私を半年間閉じ込めた(笑)あの社長に呼ばれ、新しい名刺を渡されました。見ると「経済雑誌編集室」と書いてあり、「経済雑誌は、うちの会社にないのに変だな」と思ったら、「お前が作るんだ!」と言われ、『Newton』の弟分みたいな『Common Sense』という雑誌の創刊を担当することになりました。まだ平社員なのに室長権限を与えられ、私以上に若い部下を3人付けられましたが、やり方がまったく分からず困り果てました。
アメリカの元大統領顧問や世界各国のシンクタンクの社長、それから日本からも名士を集めるなどして、名だたる顧問を付けてくれました。野口悠紀雄先生や、ミスター円と言われた榊原英資先生などが品川プリンスに集まって編集準備会を始めたのですが、「晴山が雑誌を作るので、宜しくお願いします!」などと紹介されました。その先生たちは半分英語で会話をしていましたし、世界各国のカメラマンが次々に売り込みに来ましたので、英語が不得意な編集者だったら、とても対応できなかったのではないかと思います。
――その後もソフト開発など、次々と新しいものを作られていきます。
晴山陽一氏: 新しいことを始める時は、いつも社長から呼ばれました。ドリルの会員数が10万人位に減った時にも突然呼ばれて、「紙の時代は終わった。お前がソフトを作れ!」と言われました(笑)。それで作ったのが、『大学受験1100単語』という、たった2日間で1100単語を覚えられる奇跡のソフトです。これは、名古屋に十何回も通って、ブラザーと技術提携して専用ソフトと専用機を作りました。専用機の中に入っているソフトは私が作りました。
インターネットの黎明期にあたる96年ぐらいでしたが、先見の明があった社長は、一種の天才なのだと思います。英単語の速習講座なども、若者の心をくすぐるやり方でした。お菓子の山もあったし、マクドナルドのタダ券も配って、「疲れたら電源をオフにして、隣に中央公園があるから昼寝してきてもいいよ。また元気になったらやりなさい」という感じで、たいへん自由な雰囲気でした。2日間で参加者が覚えた単語数は、平均でも400から500語だったのですが、2日目に4人の生徒が本当に1100単語をクリアしたのです。それで「奇跡の教室」という感じで世の中に知れて、全国の塾や予備校、高校からお呼びがかかるようになって、突然、生活が変わりました。
晴山流、ネタ倉庫の作り方。出版の秘密
――その頃新しい挑戦をしていく中で、本を出されています。
晴山陽一氏: そうやって新たな挑戦を英語を絡めながらやっていく訳ですが、またもや社長から呼ばれ、「次はTOEICの単語ソフトを作れ!」と言われました。早速TOEICソフトの準備に取りかかりましたが、「ビジネスマンを集めてTOEIC速習講座をすることになった時、『自分は受けたことがありません!』では許されないだろう!」と思うようになり、TOEIC受験を申し込みました。
多忙な中、あれよあれよという間に試験の前日になっていました。夜中の11時になってアルクのTOEIC模試600問のパッケージを開けてCDを聞いてみたものの、スピードが速くて全然耳に入ってきません。会社では「700点ぐらい取りますよ」などと豪語していましたが、隣に座っていたバイリンガルの女性からは「耳を鍛えていないんだったら、400点台がせいぜいじゃないかしら!」と言われたのを思い出しました。
「このまま受けずにすませないか……」というわけにもいかず、とにかく問題構成を調べるだけ調べて2時頃には寝てしまいました。ところが翌日起きてみたら、「TOEIC攻略10カ条」というのが自分のアタマの中に奇跡的にひらめき、それを忘れないように朝刊の広告の裏に書きました。それに従って試験を受けたところ、結果は740点でした。役員会で一連の経緯を報告をしたら、当時役員をしていた社長夫人が「その話、面白いから本に書いてみたら?」とつぶやいたのです。そこで、速習講座の講師をしながら、教壇で立って本を書き始めたのです。
――それが『 TOEIC 必勝の法則』ですね。
晴山陽一氏: そうです。雑誌を作っていたときの友人に原稿を送ったところ、『マーフィーの法則』をプロデュースした編集長の目に留まりました。「TOEICの攻略法は、世の中にあまり知られていないし、この原稿、めちゃくちゃ面白い!」と気に入ってくれて。編集長のもとへ伺ったところ、その場で本の出版が決まりました。その会見の席上で会社を辞めて執筆に専念することを思い立ち、翌月には会社をやめました。その後、本が出るまでの半年間は、ネタ集め、流通業でいう倉庫づくりに専念しました。将来の私の読者が喜ぶであろう例文は、その時からずっと集めています。
――晴山さんのネタの倉庫作り。どんな風にしているのでしょう。
晴山陽一氏: 自分の気に入った例文でデータベースを作って、それをテーマ別と文法別で分類しておきました。依頼によってテーマ別から選ぶか文法別から選ぶか、あるいは名句から、諺から、ジョークからという風に切り口の選択も可能にしました。
私の場合は、「しっかり準備したのち、一瞬で書く!」というやり方なので、そういった意味では料理と同じかもしれません。資料に貼る付箋は、外に飛び出ているものと出ていないものとがあります。外に出ている付箋は夜の塾で出題すると引っ込めるようにしているので、あとから見ても、すでに使用したかどうかが一瞬で分かります。
出版を依頼されるとセレクトする。そして、本にする時に配列するわけですが、話の順番で面白さが変わってきますので、この配列という作業もとても大事です。コレクトしてセレクトして配列する」という、その流れ作業で私の流通業が成り立っているのです。徹底的に準備するからネタ切れにもならないし、永遠に書き続けられるだろうという状況が、もう当たり前になってしまって、さらに書くのがどんどん速くなっていきました。
読者にとって、最高のものを引き出せる人
――編集者、書き手と両方の立場を持つ晴山さんならではの本づくりですね。
晴山陽一氏: 編集者だったので、どういう順番で出したら一番仕事がやりやすいかを知っている、という部分もあると思います。「まずデザインを決めてしまうと楽ですよね。とりあえず1章分出しますよ」というと編集者は喜びます。実際に原稿を渡す段階では、「8章ができました、3章できました!」といったように順不同で原稿を出していきます。その際、「これは完全原稿ですから、どんどんデザインに入っていいですよ!」と言います。出したものからどんどん編集に入っていって、それで本ができるのですが、ゲラを見たプロの校正者に「初校なのに完璧です!」と驚かれたこともあります。このように、書きやすい章から完全原稿を渡していく、というのが私の執筆法です。
――晴山さんの考える良い編集者とはなんでしょう。
晴山陽一氏: 編集者には、もともと本が好きで、自分でも本を書きたいぐらいの人が多くて、自分のテーマを色々と持っている人もいますが、それが、仇になる場合もがあります。著者が本当にやりたいことの中に割って入って、自分の存在を主張してしまうような編集者もいるかもしれません。優秀な編集者だとしても、それでは執筆者も困ります。だから理想を言えば、著者と同じぐらいのレベルに立って議論もするけれど、著者の中から、読者にとって最高のものを引き出せる人であること。
私も3年前までは籠もりきりでひたすら書いていたのですが、最近は外に出て、読者など、色々な人と会っています。それまでは読者がなかなか見えませんでした。でも、読者が何を求めているかということは知らなければいけないし、上級・中級・初級と書き分ける場合、単に自分の中で勝手に想定するのではなくて、「初級の人が何に苦しんでいるのか」といったことをリサーチしないと、それに応えることができないのです。だからこそ編集者が間に立って、「皆さん、こういうことで苦労しているんですよ」などと、読者との繋がりを作ってくれる編集者はありがたいですね。読者ではなく編集者が喜ぶ本を書いても、良い本とは言えないと私は思います。
誰もがみんな「書ける」、電子書籍時代とネタ集めのノウハウ
――そういった本作りの想い、ノウハウは主宰する出版塾においても活かされています。
晴山陽一氏: 現在やっている出版塾のパートナーは、電子書籍の専門家です。本を執筆する上でのネタ集めとか、クリエイトするといった部分を私が担当して、パートナーが電子書籍の企画書の作り方から、最後にはKindleで出版するところまで指導します。ちょうど、第1期が終わったところなのですが、塾生が続々とKindleデビューをしています。電子書籍は、ネタさえあれば10年で100冊の本を作ることも可能なのです。1冊出したら死んでもいいというのではなくて、電子書籍で50冊、100冊出すぐらいの意気込みで、生活自体を変えてほしいと私は言っています。私が実際にしていることなどを話して、「まず書ける状態になってください。こうやればその状態になれますから」というと、みんな驚きますが、何も難しいことではありません。これだったらどんどん出せるという「執筆体質」をまず作って、それを個々の作品に結び付けていくという形なのです。
全員が著者になるということを、この塾では目指しています。多くの人が本の書き出し部分でつまずいてしまいます。書き出しは本の中でいちばん書くのが難しい部分であり、しかもここを突破しないと残りを書けないと思い込んでいるので、序文や第1章で身動きがとれなくなってしまうのです。そこで、「私のやり方はこうです!」という話を30分しただけで、「危機を脱しました。やり方を変えて進めます」と、すでに本を出されている方からも言われたことがあります。出版塾はいくつかありますが、私の場合は、低額でも親身に指導して、全員が著者になるというところを目指しています。
――第2期は、どのようなことに力をいれていきたいと思われていますか?
晴山陽一氏: 本だけでなく、人生そのものをクリエイトする秘訣を、どんどん広めていきたいと考えています。それは本を書くためのテクニックではなくて、生き方そのものだと私は思っています。2期目に入って言っているのは、「クリエイトという言葉は単に作品を作るという意味ではなく、この塾では人生そのものをクリエイトするという捉え方でやっている」ということ。そのことを誰でも簡単に実習できるようにしたいと思っています。
すべては驚きと喜びのために
――ノウハウを惜しみなく出されるのは、どんな想いからなのでしょうか。
晴山陽一氏: ノウハウを囲い込むということは一切考えていません。みんながいい本を書けるようになってほしいと思います。誰かがベストセラーを書くということは、それを読んだ何十万人の人たちが喜ぶわけだから、私にとってはそっちの方が大事。第1期の塾生は10人ぐらいなのですが、「企画書ができました」とか「最初の章が書けました」とか、できあがった段階で、夜中の3時、4時でもメールがきます。私は、それが何時であろうとも「よくやったね」とか「ここを直して」などと対応するようにしています。だから「晴山先生は寝てないんじゃないか?」などと言われることもあります(笑)。夜のTwitterでの英語塾も無料でやっていますが、みんなの反応を見ているのが楽しくてしょうがないので、このスタイルでいいと私は思っています。
震災で変化した出版界。転換期の2年間
――10年連続10万部という記録も、そういう想いの結晶だと思います。
晴山陽一氏: けれどもその記録も、東日本大震災が起こって、途絶えてしまいました。東北の書店が大きな打撃を受け、Amazonの倉庫も影響を受けたと聞いています。用紙の値段が高騰し、それをカバーするために印税率を引き下げる出版社も出てきました。出版社の地力が低下し、刷り部数を減らしたり、企画の審査もシビアになり、広告の仕方も変わりましたね。昔は新刊の広告を全部出していた出版社も、売れる本に絞って広告を出すようになりました。
企画は通りにくくなるし、厚い本が売れないため定価を下げて薄い本が好まれる。すると、定価が下がるので、ますます作家の状況は厳しくなります。同じ仕事をしていても半分しか稼げなくなるし、色々なことが重なって「もう廃業に向かっていくのかな」と思うほどの暗い年でした。それで翌2012年は、今まで自分ができなかったことを色々やってみようと思いました。執筆に追われていると、意外と英語を話す機会がないということに気づいたのです。実際に英語を話すことによって、これまで書けなかった本が書けるかもしれないと思いました。それで、毎日何度もSkype上で外国人と英語で喋るということを集中的に行いました。
2013年には「100人の有名な英語の先生と会おう」というスローガンを掲げました。「多くの優秀な先生のセミナーに参加し、人気のある著者とじかに会って、彼らが何を考えているのかを知ろう」と思ったのです。そこで気づいたのは、セミナーに行くこともせずに悶々と苦しんでいる「見えざる英語学習難民」の存在でした。TOEICで300点ぐらいで低迷してもがいている人たちが何千万人もいる、ということがセミナーに参加することで逆に見えてきたのです。「その何千万を相手に、私だったらたくさんの本を書けるな!」ということに気が付いてからは、企画も湧きやすくなり、出版社からの依頼も劇的に増えました。
人生を創造するテクニックでみんなを明るくしたい
――「みんなを喜ばせたい」というライフワークを再認識できたのですね。
晴山陽一氏: スランプが続き、このままじゃダメだと思って根本から考え直すという2年間を経て、自分のテーマを再確認しました。今年は1月から、出版や執筆について指導する塾も始めました。ベネッセの「著者大学」の教授にも就任しました。これはSNS中心で展開する大学で、MOOCsというアメリカで今流行りだしているオンライン大学のような感じです。ひたすら書斎に籠もって本を書いていた3、4年前とは全く違う活動の形が見えてきており、今後はそれがどんどん広がっていくと思います。
私の試行錯誤の結果得られた、「人生を創造するテクニック」で、この国を明るくしていきたいと願っています。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 晴山陽一 』