大好きなことで身を立てる
――自身の好きなことに早くから身を置けたのは、素敵なことですね。
沼野恭子氏: そうですね、高校時代からの憧れでロシア語学科を選び進んだ訳ですので、学生時代には、「将来はロシア語を使って仕事をしたい」と強く思っていました。大学も4年生になってからだったと思いますが、当時学長をされていたロシア文学者の原卓也先生が、ロシア語の授業の時に、「NHKから求人がある。興味のある人は私の研究室にいらっしゃい」とおっしゃいました。当時は男女雇用均等法がなく、女性が試験を受けられるかどうかすら危うい時代だったので、まず研究室に伺って「女子でも受けられるんでしょうか」と聞くところから始まりました(笑)。大丈夫ということで、NHKを受けることに。ちょうど私が卒業する年に国際局という所で1人欠員が出たということで、とてもラッキーでした。短い期間でしたがNHKではロシア語放送の番組を作ったりニュースを編集したりと、面白い仕事をさせていただき、多くの刺激を受けました。
――次に進まれたのは、ロシア…ではなくアメリカだったんですね。
沼野恭子氏: 卒業して1年ほどでして結婚したのですが、その頃、夫はスラヴ文学者の卵で、結婚前から留学したいと言っていました。私も、もちろん留学してほしいと思っていました。ところが当時のロシアは、政治状況も含め留学しにくい環境にありました。夫は運よくフルブライトの奨学金を受け、アメリカに行くことになりました。ただ私は、その時はNHKの仕事が面白くなり始めた頃でしたので、「日本で待ってる」と言っていたんです(笑)。
ところが「1、2年で帰ってくる」と言っていたはずの夫は、全然帰ってくる気配もない(笑)。「そんなにいいところなのか、見に行こう」という気持ちで、留学先のハーバードに行きました。すると、そこは確かに素晴らしい研究環境で、「これじゃ帰ってきたくなくなるのもわかる」と感じ(笑)、それなら私も一緒にここに住んでみたいと思ったのです。
とはいえ私は当時まだ仕事を始めて3年でしたし、ロシア語を使える女性の仕事が非常に少ないことも分かっていましたし、その上クリエイティブな部分もあって、毎日のようにロシア語に接していられて勉強もできる……そういう恵まれた職場でしたので、その仕事を辞めてしまうことには随分と迷いもありました。結局、さんざん悩んだあげくアメリカ行きを決心しました。
常にロシアを向いていた
――渡米先のハーバード大学では日本語講師をされています。
沼野恭子氏: 夫は奨学金をもらっていましたが、私はもちろんそういうものはありませんでしたから、「君は自分で稼いでね」という感じで(笑)。ハーバード大学は日本語教育のレベルが高いと聞いていましたので、もしかすると日本語関連の仕事があるかもしれないと思い、渡米前に日本語教育学会や早稲田の語研でちょっとした日本語教育のコースに出ておきました。その資格を持って臨んだこともあってか、日本語学科の非常勤講師のウェイティングリストに入れていただきました。そのうち日本語の視覚教材を作りながら日本語を教える講師として雇っていただくことになりました。
――ロシアのことは一旦、忘れて……(笑)。
沼野恭子氏: いえいえ、やはりどうしてもロシアのことは忘れられませんでした(笑)。昼は日本語を教えながら、エクステンションコースと言って、いわゆる夜間コースのようなものですね、そこでロシア語の会話の授業に行ったり、ロシア史の講義を聴いたりして、半分、学生気分を味わいました。実際に講義を受けながら、「あぁ、私はやっぱりロシアのことを勉強したいんだな」と再確認しました。
日本に帰ったら、ロシアのことをもう一回勉強し直そうと決心し、帰国後、東大の比較文学・比較文化の大学院に入りました。在学中ポーランドへ渡り、そこでも1年弱日本語を教えていたのですが、ポーランドにいても、いつもロシア文学のことを気にし、ロシアのほうを見ていたように思います。