面白い仕事だから好きなのではなく、好きになるから面白い。
「公共広告機構(現ACジャパン)の「WATER MAN」でIAA・国際広告賞グランプリを、JT「あ、ディライト」では、カンヌ国際広告映画祭銀賞を獲得するなど、様々な賞を受け、またカンヌ国際広告祭審査委員や、ACC・CMフェスティバルの実行委員長など、世界的なクリエイティブディレクターとして活躍されています。『ジャパン・プレゼンテーション』『無垢の力 ピッカピカでい続ける法』など、クリエイティブの方法論に関する発信もされている杉山さんに、クリエイティブな仕事をする上で重要なこと、成功の秘訣、また生涯現役プレイヤーとして、発信のネタ集めのユニークな手法を伺いました。
プレイヤーとして、現場監督として
――最近のアドテック九州2014でも講演されたそうですね。
杉山恒太郎氏: アドテックは、90年代の終わりにアメリカではじまったデジタルマーケティングのカンファレンスですが、僕はすごく初期から注目していたんです。実際に参加してみると、まだ当時の日本にはなかった考え方や技術で溢れかえっていて、「これはヤバい。日本は大丈夫か」と戦慄しましたね。だからその後、若い人たちから「日本でアドテックをやりたい」という相談を受けたときは、僕は「すぐにやったほうがいい」と言いました。おかげで、今でも彼らは「生みの親」なんて呼んでくれている(笑)、それがいまや、広告の世界でも重要な役割を担う存在のひとつになっているのは、とても感慨深いですね。
――こちらのライトパブリシティでも、ご自身が舵を切っていく役割でしょうか。
杉山恒太郎氏: クリエイティブの現場監督として、また自分自身もプレイヤーとして仕事をしています。それに、手前味噌ですが、ライトパブリシティには、細谷巖、秋山晶というクリエイティブの神様と呼ばれる人間が2人もいます。そのクリエイティブ界の巨人たちと、若い人との間の橋渡し役も僕の仕事ですね。
――ネット・デジタル時代のクリエイティブの特色はなんであると考えていますか。
杉山恒太郎氏: インターネットやデジタルが人間の生活を激変させる、重要な時期に僕らは生きているのですが、大切なのは、やっぱり本質をきちんと理解することだと思います。歴史的な変革を起こしたとはいえ、インターネットはやっぱりツールだし、デジタルは技術です。それを使うアイディアがまずなくちゃいけない。そういう意味では、インターネット以前、デジタル以前と底辺に流れているものは同じなんです。逆に言えば、新しいものを知っているだけでは不十分とも言えます。電通のデジタル部門のリーダーをしていた時にも、非常にデジタルリテラシーの高い部下たちによく話していたのですが、最先端の技術を知っているというところで勝負していると、技術なんてすぐに陳腐化してしまうんです。さらに最先端に通じている次世代が現れたら、あっという間に置いてきぼりを食らう、なんてこともありますから。
でも、だからといって、インターネットやデジタルを理解していない人が「クリエイティブの底に流れるものは一緒だよ」と言っても、あまり説得力はないと思います。どこが同じで、どこが違うのかはちゃんと知っておかなくちゃいけない。欧米だと最近は、コーディングできたり、コードが読めたりしないと入社できないエージェンシーが増えてきているとも聞きますけど、もうデジタルは基本言語のような感じですよね。だから、デザインをやっている若い人には、「最低でもコーディングはできるようになってほしい。でもアイディアが重要だということは変わらないから、臆することは全くない」と言っています。2年前に僕がライトパブリシティに移籍した時にも、若い人たちは、自分たちのデジタルスキルに不安を抱いていたけれど、今はほとんどの人がサイトくらいなら、当然のように作れるようになってきていますね。2年で見違えるようになって、自信が顔にも表れています。これは技術に限ったことじゃないけど、やっぱり、どんなに小さくてもいいから、成功体験を積み重ねること。それが次のステージに飛躍するための一番の良薬なんですよ。
原体験にある「死」への恐怖とクリエイティブ
――小さい頃から何かを生み出して発信する仕事に就きたいと思っていましたか?
杉山恒太郎氏: 家にずっといるというタイプではありませんでしたね。どちらかというとガキ大将で、体は決して大きくなかったのですが、いつも7、8人の“子分”と一緒に、野球をやったり自転車に乗って野原を駆け巡ったりという典型的な野生児でした。“子分”の中には1人、2人すごく体のデカいのがいて、今なら、「あいつがかかってきたら、僕なんか確実に負けていたな」と思うのですが(笑)、なぜかみんなが僕をたててくれていた(笑)。
中学校、高校へと進んでも、勉強ではなく、サッカーに没頭していました。でも、音楽と本が好きで、体育会系と文化系、どちらでもあるし、どちらでもないといった感じだったと思います。絵を描くのも好きでしたね。親にも、「絵を描いている時のお前が、一番好きだ」なんてよく言われていました。中学・高校を通して、美術の先生にも、「スポーツやめて、絵を描けよ」と、いつも誘われていましたが、美術部という集まりは、なんとなく苦手で……。
――野性と知性と感性が、共存していたのですね。
杉山恒太郎氏: 少なくとも、ガキ大将である自分と、極端に無口で喋らない自分という両極端の性格を持っていました。だから学校では、何を考えているか分かりにくい人だったと思います。人と話が合わなかったので、学校ではひとりで静かにしていることも多かったんです。実際に小学生にしては、ちょっと変わったことを考えたり、感じたりもしていたんです。小学校3、4年の頃には「死」というものを意識し、無性に怖くなって、両親はじめ身近な人たちが、いつかはいなくなるということを受け止められなくなったりもしましたね。周りの同級生は、お気楽でいいなぁ(笑)なんて、勝手に思い込んだり。いつも孤高の少年(笑)という記憶があります。
本当の意味で「死」の恐怖から自由になれたのは、たぶん子どもを持ってからだったと思います。僕は愚かだったから、ずっと子どもというのは自分を不自由にするものだと思っていた。だから、子どもを持たない人生を送るつもりだったのですが、ある時に、その一番避けている方向へ行ってみようと思ったんです。ジョン・レノンが「家事や子育てのような楽しいことを、女性だけにやらせちゃたまらない」と言って、息子のショーンが生まれて何年間か仕事をやめたでしょ? 僕自身はストーンズのファンで、決してザ・ビートルズびいきではないのだけど、あれと同じです。今だから言えますが、僕も3年間ほど、仕事そっちのけで子どもたちと遊ぶことばかり考えていました。サラリーマンなのにね(笑)。
子どもというのは、育てているつもりが実は自分が育てられているんだということを、そのとき知りました。インディアンの教えにもあるのですが、子どもというのは公共物なんです。「授(さず)かりものではなくて預(あず)かりもの」であると。預かって、大事に育てて、公共物だから、また世の中にお返ししていく。
ともあれ、子どもができた瞬間に、「歴史に加担したから、もういつ死んでも大丈夫だ」と思いましたね。「死」が怖くなくなりました。生涯現役と決めているので、理想は仕事中にコン、と逝くことですけど、そのくらい今は気持ちの面で自由です。「子どもができた瞬間にどれだけ人は自由になれるか。とにかく早く子どもを作って楽になれ、成仏できるぞ」なんて、“子持ち成仏論”を後輩たちには唱えているくらい(笑)。
モノを作るには、違和感が必要
――内なる孤独感と、表に現れる社交性、違和感をその後どのようにクリエイティブへと昇華させていったのでしょうか。
杉山恒太郎氏: 学生の頃は、この違和感をどうやって埋めたらいいんだろうと、いつも考えていましたね。世間との握手の仕方が分からないから、悩むわけじゃないですか。正直に言うと、今でも同じような戸惑いをいつも感じていますよ。色々な悩みを昇華しようと、もがいている最中です。でも、多分その違和感がないとモノは作れないと思います。だからその違和感に対して我慢しなければいけないというか、負けてはいけないんです。
著書一覧『 杉山恒太郎 』