杉山恒太郎

Profile

1948年、東京都生まれ。立教大学経済学部卒業。株式会社電通においてデジタル領域のリーダーもつとめ、インタラクティブ広告の確立に寄与。小学館「ピッカピカの一年生」キャンペーン、セブンイレブン「セブンイレブンいい気分」などを手掛ける。カンヌ国際広告祭金賞をはじめ、多数の賞を受賞。同取締役常務執行役員、顧問を経て、2012より現職。 著書に『無垢の力 ピッカピカでい続ける法』(講談社)、『クリエイティブマインド つくるチカラを引き出す40の言葉たち』(インプレスジャパン)、『ジャパン・プレゼンテーション―世界に伝わる広告表現スキル』(角川oneテーマ21)、『オリエンタル・ボーイ』(河出書房新社)など。

Book Information

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面白い仕事だから好きなのではなく、好きになるから面白い。



「公共広告機構(現ACジャパン)の「WATER MAN」でIAA・国際広告賞グランプリを、JT「あ、ディライト」では、カンヌ国際広告映画祭銀賞を獲得するなど、様々な賞を受け、またカンヌ国際広告祭審査委員や、ACC・CMフェスティバルの実行委員長など、世界的なクリエイティブディレクターとして活躍されています。『ジャパン・プレゼンテーション』『無垢の力 ピッカピカでい続ける法』など、クリエイティブの方法論に関する発信もされている杉山さんに、クリエイティブな仕事をする上で重要なこと、成功の秘訣、また生涯現役プレイヤーとして、発信のネタ集めのユニークな手法を伺いました。

プレイヤーとして、現場監督として


――最近のアドテック九州2014でも講演されたそうですね。


杉山恒太郎氏: アドテックは、90年代の終わりにアメリカではじまったデジタルマーケティングのカンファレンスですが、僕はすごく初期から注目していたんです。実際に参加してみると、まだ当時の日本にはなかった考え方や技術で溢れかえっていて、「これはヤバい。日本は大丈夫か」と戦慄しましたね。だからその後、若い人たちから「日本でアドテックをやりたい」という相談を受けたときは、僕は「すぐにやったほうがいい」と言いました。おかげで、今でも彼らは「生みの親」なんて呼んでくれている(笑)、それがいまや、広告の世界でも重要な役割を担う存在のひとつになっているのは、とても感慨深いですね。

――こちらのライトパブリシティでも、ご自身が舵を切っていく役割でしょうか。


杉山恒太郎氏: クリエイティブの現場監督として、また自分自身もプレイヤーとして仕事をしています。それに、手前味噌ですが、ライトパブリシティには、細谷巖、秋山晶というクリエイティブの神様と呼ばれる人間が2人もいます。そのクリエイティブ界の巨人たちと、若い人との間の橋渡し役も僕の仕事ですね。

――ネット・デジタル時代のクリエイティブの特色はなんであると考えていますか。


杉山恒太郎氏: インターネットやデジタルが人間の生活を激変させる、重要な時期に僕らは生きているのですが、大切なのは、やっぱり本質をきちんと理解することだと思います。歴史的な変革を起こしたとはいえ、インターネットはやっぱりツールだし、デジタルは技術です。それを使うアイディアがまずなくちゃいけない。そういう意味では、インターネット以前、デジタル以前と底辺に流れているものは同じなんです。逆に言えば、新しいものを知っているだけでは不十分とも言えます。電通のデジタル部門のリーダーをしていた時にも、非常にデジタルリテラシーの高い部下たちによく話していたのですが、最先端の技術を知っているというところで勝負していると、技術なんてすぐに陳腐化してしまうんです。さらに最先端に通じている次世代が現れたら、あっという間に置いてきぼりを食らう、なんてこともありますから。

でも、だからといって、インターネットやデジタルを理解していない人が「クリエイティブの底に流れるものは一緒だよ」と言っても、あまり説得力はないと思います。どこが同じで、どこが違うのかはちゃんと知っておかなくちゃいけない。欧米だと最近は、コーディングできたり、コードが読めたりしないと入社できないエージェンシーが増えてきているとも聞きますけど、もうデジタルは基本言語のような感じですよね。だから、デザインをやっている若い人には、「最低でもコーディングはできるようになってほしい。でもアイディアが重要だということは変わらないから、臆することは全くない」と言っています。2年前に僕がライトパブリシティに移籍した時にも、若い人たちは、自分たちのデジタルスキルに不安を抱いていたけれど、今はほとんどの人がサイトくらいなら、当然のように作れるようになってきていますね。2年で見違えるようになって、自信が顔にも表れています。これは技術に限ったことじゃないけど、やっぱり、どんなに小さくてもいいから、成功体験を積み重ねること。それが次のステージに飛躍するための一番の良薬なんですよ。



原体験にある「死」への恐怖とクリエイティブ


――小さい頃から何かを生み出して発信する仕事に就きたいと思っていましたか?


杉山恒太郎氏: 家にずっといるというタイプではありませんでしたね。どちらかというとガキ大将で、体は決して大きくなかったのですが、いつも7、8人の“子分”と一緒に、野球をやったり自転車に乗って野原を駆け巡ったりという典型的な野生児でした。“子分”の中には1人、2人すごく体のデカいのがいて、今なら、「あいつがかかってきたら、僕なんか確実に負けていたな」と思うのですが(笑)、なぜかみんなが僕をたててくれていた(笑)。

中学校、高校へと進んでも、勉強ではなく、サッカーに没頭していました。でも、音楽と本が好きで、体育会系と文化系、どちらでもあるし、どちらでもないといった感じだったと思います。絵を描くのも好きでしたね。親にも、「絵を描いている時のお前が、一番好きだ」なんてよく言われていました。中学・高校を通して、美術の先生にも、「スポーツやめて、絵を描けよ」と、いつも誘われていましたが、美術部という集まりは、なんとなく苦手で……。

――野性と知性と感性が、共存していたのですね。


杉山恒太郎氏: 少なくとも、ガキ大将である自分と、極端に無口で喋らない自分という両極端の性格を持っていました。だから学校では、何を考えているか分かりにくい人だったと思います。人と話が合わなかったので、学校ではひとりで静かにしていることも多かったんです。実際に小学生にしては、ちょっと変わったことを考えたり、感じたりもしていたんです。小学校3、4年の頃には「死」というものを意識し、無性に怖くなって、両親はじめ身近な人たちが、いつかはいなくなるということを受け止められなくなったりもしましたね。周りの同級生は、お気楽でいいなぁ(笑)なんて、勝手に思い込んだり。いつも孤高の少年(笑)という記憶があります。

本当の意味で「死」の恐怖から自由になれたのは、たぶん子どもを持ってからだったと思います。僕は愚かだったから、ずっと子どもというのは自分を不自由にするものだと思っていた。だから、子どもを持たない人生を送るつもりだったのですが、ある時に、その一番避けている方向へ行ってみようと思ったんです。ジョン・レノンが「家事や子育てのような楽しいことを、女性だけにやらせちゃたまらない」と言って、息子のショーンが生まれて何年間か仕事をやめたでしょ? 僕自身はストーンズのファンで、決してザ・ビートルズびいきではないのだけど、あれと同じです。今だから言えますが、僕も3年間ほど、仕事そっちのけで子どもたちと遊ぶことばかり考えていました。サラリーマンなのにね(笑)。

子どもというのは、育てているつもりが実は自分が育てられているんだということを、そのとき知りました。インディアンの教えにもあるのですが、子どもというのは公共物なんです。「授(さず)かりものではなくて預(あず)かりもの」であると。預かって、大事に育てて、公共物だから、また世の中にお返ししていく。

ともあれ、子どもができた瞬間に、「歴史に加担したから、もういつ死んでも大丈夫だ」と思いましたね。「死」が怖くなくなりました。生涯現役と決めているので、理想は仕事中にコン、と逝くことですけど、そのくらい今は気持ちの面で自由です。「子どもができた瞬間にどれだけ人は自由になれるか。とにかく早く子どもを作って楽になれ、成仏できるぞ」なんて、“子持ち成仏論”を後輩たちには唱えているくらい(笑)。

モノを作るには、違和感が必要


――内なる孤独感と、表に現れる社交性、違和感をその後どのようにクリエイティブへと昇華させていったのでしょうか。


杉山恒太郎氏: 学生の頃は、この違和感をどうやって埋めたらいいんだろうと、いつも考えていましたね。世間との握手の仕方が分からないから、悩むわけじゃないですか。正直に言うと、今でも同じような戸惑いをいつも感じていますよ。色々な悩みを昇華しようと、もがいている最中です。でも、多分その違和感がないとモノは作れないと思います。だからその違和感に対して我慢しなければいけないというか、負けてはいけないんです。

ビデオの登場がチャンスを生んだ


――最初のキャリアである電通では、どんなスタートでしたか?


杉山恒太郎氏: 最初は自分の力のなさに愕然としましたね。仕事には美術的知見やスキルなんかも求められるわけだけど、僕は美大出身ではないし、十分な知識もありませんでしたから。美大というのは絵描きや芸術家になるためだけの大学ではなく、商業美術やデザインなどを勉強できるところでもあると、もっと早くそのことを知っていたら…という想いも頭をかすめましたが、悔やんでも仕方がない。だから、置かれている状況の中で、自分に何ができるのかといつも自問していました。

人のオリジナリティとは何なのかと思って、字に注目したこともありました。というのも、有名なコピーライターは、みんなとても味わいのある字を書くんです。いわゆる上手な文字じゃないし、達筆でもなかったりするのだけど、なんだかその人らしいオリジナリティがある。どうしたら、そんな字が書けるようになるのだろうと、たくさんの人たちの字を集めて、模写したりもしました。そうするうちに、いつしか僕も自分らしい字が書けるようになったんです。不思議なもので、そういう字で書きだすと、キャッチコピーや企画も売れるようになるんです。クライアントに、きちんと評価してもらえるようになるというか……。おそらく、自分の内面にあるものが、スムーズに表現できるようになるんでしょうね。

――模写からオリジナリティを確立されていったのですね。


杉山恒太郎氏: そうやってオリジナリティを確立していく中でチャンスが巡ってきます。当時、CM制作の現場ではまだフィルム撮影が主流で、例えばカメラマンは映った映像をその場で確認できず、プロフェッショナルな経験と知見をもとにした「長年の勘」がものをいう世界でした。僕自身は、ものすごくたくさんの映画を観ていたので、映像の知識は負けていなかったのですが、撮影の経験はもちろんありません。2回りも3回りも年が違う、何人ものスターを仰ぎ見ながら、「カッコいいな。僕があんなふうになるのに何年かかるんだろう」と思っていました。
そんな時に、アメリカからビデオが日本に入ってきたんです。ビデオを使えば、その場で映像を確認できるから、「長年の勘」に頼る部分を小さくできます。おまけに、ウン千万も使っていた制作費を、ウン百万で作れるようにもなる。でも、フィルムで美しいものを作ってきた先輩たちは「ビデオは自分たちの美学に合わない。クオリティが落ちるし、俺たちの美意識を放棄することになる」と言う。しめた! と正直、思いましたね。

――チャンスをつかんだぞ、と。


杉山恒太郎氏: 自分のフィールドを見つける事ができたと思いました。ビデオの映像は、電気的で、先輩たちは美学に合わないと言ったけど、とても新しい感じではあったんです。陰影がないけれど、それがかっこいいとも言えたし、臨場感があって生々しくて、いわゆるニュース性がある。これでCMを作ったら、一気に上へ行けるなと思いました。そこに、小学館の仕事の話があったんです。あまり予算もなかったし、そもそもフィルムでは成り立たないから、ビデオで勝負させてもらえた。やりたいものが向こうから飛んできたわけですから、幸運でした。

どこまでその仕事を愛せるか


――それが「ピッカピカの一年生」だったんですね。


杉山恒太郎氏: そうなんです。日本中をまわって、翌年小学校に入学する子どもたちの姿を撮ることができたのは、まさにビデオだからですよね。映像はニュースを撮る時と同じサイズですから、アートディレクション的にはちょっと気持ちが悪いのですが、おかげで全国からあたかも生中継のように子どもたちがメッセージを送ってきているように見える。それは企画のキモともいえる大事なところですから、寧ろすごくありがたいことでした。この仕事がきっかけで、いろんなことがどんどん好転していきましたね。いいスパイラルに入っていくか、そうでない方向に転がるかは、気の持ちようによるんです。冷静に考えると恵まれた条件ではなくても、そこで「僕ってみじめだな」と思わずに、「だったら、こんなパンクみたいなことをやれるじゃないか」と思えるかどうか。それによって、生み出すものも違ってくるし、そのあとの展開すら大きく変えることができるんです。

――それがクリエイティブの醍醐味であると。


杉山恒太郎氏: そう。仕事というのは自ら作っていくものだから、いい仕事、悪い仕事という区別は、本当はないんですよ。先輩たちはよく、「10本の仕事がきたら、だいたい9本はつまらない。でも1本はチャンスだから、そこで頑張れ」などと言っていましたが、実は残りの9本の中にも、捉えようによっては面白いと思えるものがいくらでも転がっているんです。毎回フルスイングしないといけません。そして、仕事が楽しいと思うこと。仕事を成功させたいなら、面白いと思える仕事を選ぶのではなく、目の前にある仕事をとにかく好きになることですね。面白い仕事だから好きなのではなくて、好きになるから面白いんですよ。要は、どこまでその仕事を愛せるか。それに尽きます。

実際には、必ずしもうれしいことばかりではなく、辛いことも多いんですけどね。特に僕は、「ピッカピカの一年生」にしてもそうだし、デジタルチームの立ち上げにしてもそうでしたが、なぜだか新しいことばかりやるハメになるので。ご存じの通り、この国では前例のないものを始めようとすると、訝しがられたりして、すごく大変です。ときどき、「なんで、いつも余裕のある感じでいるの?」と訊ねられたりもするのですが、実際は全然余裕なんかなくて、山あり谷ありですよ。苦しい顔なんか見せても仕方がないから、そうしないだけで。そこは一種の痩せ我慢ですね。できるなら、あっと驚くようなことを、サラッと成し遂げる自分でありたい。野球でも守備の上手い人は、難しいゴロでも簡単に処理するから、あまりプレーは派手じゃない。自分もそういう風でありたいと思います。

――特にクリエイティブに携わるうえで、大切にされている事はありますか。


杉山恒太郎氏: あらゆることに偏見を持たず、常にフェアでいたいと考えています。偏見を持っていると、新しいことがおきたり、見たことがないものと出会った時に、それを吸収できないじゃないですか。だから、できごとにしても人にしても、偏見を持たないで付き合うようにしています。えてして人間は、正しく見えるものとか、好感を持てそうなものに惹かれるものだけど、実際のところは踏み込んで付き合ってみないとわからない。だから若い人には、とにかく目の前のことに対して偏見を持たないで、まず挑戦してみてほしいと思いますね。

それと最近は「とにかく長生きしろ。長生きは本当に楽しいよ」と言っています。もういい歳になってきたからかもしれないけれど(笑)、長く生きていると本当にいろんなことがあるんですよ。例えば、先日、仲のいい友だちの1人が伊豆に建築家の吉村順三が建てた家を見つけて、リノベーションして暮らし始めたんです。で、ちょうどうちの次女がいま大学で建築を学んでいるので、そのことを教えて、「この家は、なんでこんなにすばらしいのか」とふたりで話しました。僕は昔から吉村順三が大好きなのですが、まさか自分の娘と吉村順三について語りあう幸せなことが自分に起きるとは思ってもいませんでしたね。生きていて良かったなと思いました(笑)。長く生きていると、自分では想像できなかったことが時々起きる。人生、今だけじゃないよ、最後までわからないよ、と声を大にして言いたいですね。

アナログもデジタルも、両方を使い分ける


――そんな杉山さんならではの視点から、クリエイティブの、広告の素晴らしさを伝える記事を連載されていましたね。


杉山恒太郎氏: 「世界を変えた広告10選」ですね。今年の2月末から日本経済新聞(日経新聞)の文化欄で10回にわたって連載しました。広告業界の人に向けてではなくて、毎朝、日経新聞を読むような企業の幹部に向けて書いたもので、かつての広告というのがどれだけ輝いていたかということと、本来、広告にはこんな力があるんだということを伝えたかったんです。広告界へのささやかな恩返しのつもりで。日経新聞の文化欄は、多くの人が見るじゃないですか。だからきちんとした文体で書こうと思って、まず鉛筆を握って原稿用紙に向かい、こういう話にしよう、こういう言葉を盛り込もうなどと、全体像を“スケッチ”してから、あとは全部iPhoneで書いて送りました。鉛筆で紙に文字を書き付けていくと、エンジンがかかって高揚もします。それをそのまま持ち込んで、iPhoneで焼きつけるイメージです。日常生活の中で気になったことや疑問なども、iPhoneを使って調べてメモするようにしているので、もう手放せませんね(笑)。僕はけっこう本を読むのですが、気になった言葉や気づいたことなんかも、やっぱりiPhoneにメモしています。

――iPhoneで書くんですね。読み手としてはいかがですか?


杉山恒太郎氏: 最近は坂口恭平君の本を読みました。君島佐和子さんの『外食2.0』も面白かった。それからもう一つ、今の興味と今後やりたいことにも関わってくるのですが、スタンフォード大学のd.schoolの本もすごく学ぶところが多かった。今は空間と時間にとても興味があって、そういった関係の本をたくさん読んでいます。いい本は何度でも繰り返して読みますね。時間が経つと自分自身も変化しますから、同じ本でも捉え方も変われば、気付くものも違ってくるんです。そうやって、読み返しながらふと気になった言葉などは、全部iPhoneにメモ。あとで見たら、笑っちゃうようなくだらない言葉なんかもありますけどね(笑)。
僕は本は一種のオブジェだと思っているところがあるので、紙の本が結構好きなのですが、でも、なんでもiPhoneの人だから、電子書籍にもすごく魅力は感じています。読みやすいし、知識を持って歩けるわけだし、やっぱりいいなと思う。

――杉山さんの興味と気づきは、今後どのような形でコラボレーションされていくのでしょうか?


杉山恒太郎氏: 今は、本当にいろんなことをやっています。丸の内に全く新しい考え方のミュージアムを作っています。高松に「四国村」という古民家のテーマパークのようなところがあるのですが、そこの全面リニューアルに携わったり。唐津ではもう3年近く、唐津焼美術館設立の準備をしていて、そこも画期的なミュージアムにしようと思っています。いい空間づくりや、いい時間づくりをしている、といえばいいですかね。もちろん、いわゆる広告制作の仕事も変わらずやっています。これらはすべて、今まで広告の仕事で培った経験を、新しい形で生かしているだけなんです。広い意味で、全部広告。広告の仕事が好きなんですよ。きっと一生、広告をつくり続けていくでしょうね。

(聞き手:沖中幸太郎)

著書一覧『 杉山恒太郎

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