小松成美

Profile

1962年、神奈川県横浜市生まれ。 専門学校で広告を学び、毎日広告社へ入社。その後、放送局勤務などを経て、1990年より本格的に執筆を開始する。 主題はスポーツ、映画、音楽、芸術、旅、歴史など多岐にわたる。 情熱的な取材と堅い筆致、磨き抜かれた文章にファンも多い。 スポーツノンフィクションや、歌舞伎をはじめとした古典芸能や西洋美術、歴史などにも造詣が深く、関連の執筆も多い。 近著に『横綱白鵬 試練の山を越えて はるかなる頂へ』(学研教育出版)、『逃げない―13人のプロの生き方』(産経新聞出版)、『対話力 私はなぜそう問いかけたのか』(ちくま文庫)など。

Book Information

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一生寄り添える仕事を探す


――「転んだら起き上がればいいじゃないか」と。


小松成美氏: ええ。そこからまた働こうと考えられるようになりました。アルバイトをしながら、「生涯寄り添える仕事、もしくは自己表現できるものを見つけよう」と思ったんです。色々なことを学んだり、話を聞いたりしました。勧められるまま客室乗務員やインテリアデザイナーを考えたこともありましたし、もう1回大学へ行こうかなとも考えました。26、27歳で、広告代理店でアルバイトをして、華やかなイベントの企画などもしていましたが、30歳までには自分の人生を定めたかったので、残り時間を数えるようになりました。その時、一番好きなものじゃないと続けられないと分かっていたので、そこに突き進んだ方が間違いないと思ったのです。一番好きなものといえば、本。本を読むだけでは生活の糧は得られないので、「本を書く人になる」とある日思い立ちました。それを決めた時の清々しさは、今も思い出します。
原稿を書くという事がどんなに難しいことかを、あの時知っていたら、絶対にそんなことは考えなかったと思いますが(笑)。

――周りの反応はいかかでしたか?


小松成美氏: 「ライターになり、ゆくゆくは本を書いて作家になりたい」と言ったら「お嫁に行きなよ」とか、「投稿欄があるから、そういうところに書けば?」とか、あと「同人誌とかがあるよ」などと、散々でした。でもそのうち何人かの方は、応援してくれました。「どんな作家だって、最初は素人」「一歩を踏み出すことでしか夢には到達できない」「成美なら大丈夫」と言ってくださいました。
最初にライターとしてのチャンスを与えてくれた1人が、『Number』の設楽敦生さんという編集長でした。私は、ライターとしての仕事を得るためにNumber編集部を訪ねるのですが、原稿を書いた経験は、アルバイトライターをしていた「HANAKO」という雑誌でのレストラン紹介だけで、素人も同然でした。外見も、ワンレンのロングヘアーに大きなイヤリング、赤いスーツを着て編集部を訪ね、「スポーツノンフィクションを書きたいんです」と。若い編集者達は、驚いていたと思います(笑)。

――スポーツを書きたいと思われた理由とは?


小松成美氏: 19歳の頃に『Number』が創刊されたのですが、その創刊ゼロ号に載っていた『江夏の21球』という山際淳司さんの名作を読んでいました。また、沢木耕太郎さんが書いた『敗れざる者たちや『一瞬の夏』など、スポーツをテーマにしたものに衝撃を受けていたんです。それ以前にはなかったスポーツ読み物を、10代の頃に読んで感動したのがきっかけでした。
小学校、中学校の頃には、ベトナム戦争などのニュースが日常的に流れていました。当時、偉大な流行作家は、みな第二次世界大戦を経験していました。作家が自生と向き合って、「人が生きるとは何か」とか、「国家とは何か」といったことを書いていました。
時が流れ、一九八〇年代の終わりには、スポーツが人々の注目の的になり、その活躍が大きな関心事になっていました。その中で、時代を切り裂くような勇気や希望を、スポーツ選手を取材して描きたいと願ったのです。

ライターになりたいと言った私に、ほとんどの人が「やめた方がいい」と言った時に、設楽編集長は、「じゃあ小松さん、ウチで連載を持ってみませんか?」と。こんな展開、考えられないでしょう?(笑)。今でもなぜ、設楽さんが私に連載を持ちかけてくださったのか、その理由が分かりません。

――すごいですね。どのような内容の連載だったのでしょうか?


小松成美氏: 「食卓絶景」という、アスリートの食卓を取材するというページでした。カメラマンとアスリートの家に行って、ご飯を食べているところを撮らせてもらい、手料理を食べながら食にまつわるエピソードを聞くというものでした。今ではできない取材です。
連載が始まって、取材のアポ取りやインタビュー、そして執筆と、毎日が勉強でした。何より大変なのは、原稿です。書いても書いても、OKが出ない。「原稿がつまらなすぎてタイトルが付けられません」と、原稿用紙をつき返されたこともありました。文藝春秋の資料室で泣きながら原稿を書きました。
でも、どんなに叱られてもライターの仕事を手放したくなかった。やっとみつけた自分の人生だと思えたからです。下手でも書くことが大好きだったから、「がんばろう!」というエネルギーは湧いていきました。3、4か月くらい経ったある日、担当編集者が「今日の原稿、ちょっと面白いですね。小松さんのインタビューの様子がうかがえますね、この調子で頑張ってください」と言ってくれたんです。
その当時はもうアルバイトも全部辞めてしまい、月収はNumberの連載料だけ。新しい服やバッグや靴は買えませんでしたが、物質とは比べられない歓びを得ていた私は、まったく躊躇することがありませんでした。

出版社、編集者が私を育ててくれた


――小松さん自身は書いた時に、手ごたえのようなものがあったのでしょうか?


小松成美氏: 駆け出しの頃は必死だから全然分かりません(笑)。もちろん、下手すぎて話にならなかったと思いますが、今思えば、そんな素人の私を、設楽編集長や担当の編集者が育ててくれたのです。

2年目になった時に、編集長から「もう小松さんは長いものをかいたほうがいい」と言われ、野茂英雄さんの取材を言い渡されました。原稿用紙30枚の読み物です。取材も大変でしたが、掲載されたら反響がものすごく大きくて、それで編集長から、「長く取材できるテーマを」ということで、92年からは、ワールドカップを目指すサッカー日本代表の取材をまかされました。ドーハの悲劇の時にも現地で取材しました。
Numberでの原稿を読んでくださっていた他の編集部のかたたちがスポーツ以外のテーマでの取材を提案してくれました。中でも、花田紀凱さん(現WILL編集長)は、「小松さんは、小松さんが好きな物を書くといい」と言ってくださいました。それで、大好きだった歌舞伎や映画や演劇や美術なども書くようになり、一気にテーマが広がっていきました。

――編集者というのは、小松さんにとってどんな存在ですか?


小松成美氏: 伴走者ですね。私の場合、まず、編集者に読んでもらいたい、と思って書いているのです。原稿を書くことほど苦しいことはありません。きっとそれも編集者と共有していると思います。とにかく書き続けることでしか上手くならないのです。そうやって書き続けていく中で、たくさんのテーマに出会いました。

――最初の本はビートルズがテーマですね。


小松成美氏: はい。92年、カタールでサッカー日本代表を取材している時、ホテルに浅間雪枝さんという編集者が電話をかけてきたのです。私は9歳のお誕生日の時にステレオを買ってもらって、初めて買ったLPがビートルズで、それ以来ビートルズが大好きでした。彼女からの電話は、「ビートルズ、お好きでしたよね?『バックビート』というビートルズの映画ができて、世界で初めての試写会がロンドンであるので、一緒に取材に行ってくれませんか?」という飛び上がるほどうれしい話でした。その取材が、最初の本『アストリット・Kの存在 ビートルズが愛した女』の出版のスタートです。

――テーマとの出会いもドラマがありますね。


小松成美氏: そうですね。92年10月のドーハのワールドカップアジア地区最終予選の取材が忘れられません。浅間さんの電話を受けた翌日のゲームがイラク戦に引き分けたあの「ドーハの悲劇」です。泣きながら原稿を書くのですが、同時に、この先もずっとサッカーを取材していこうと誓っていました。

――寄り添っているから、悲しみも大きかったのでしょうね。


小松成美氏: はい。帰国はチャーター便で選手と一緒に帰ったのですが、その時に当時のオフト監督から「この日本代表をずっと取材してくれて、どうもありがとう。僕はたぶんこの日本代表を去るけれど、君は日本代表をこれからも取材して欲しい」と言われました。私は「次もどうか続けてほしい」と言いましたが、彼は「決めたから」と。そして、「君は僕たちよりも有名だから」と言って、カタールの新聞をくれたんです。そこには「泣く日本人ジャーナリスト」といって、なんと私が泣いている写真が一面に載っていたのですよ(笑)。今でもその新聞は、記念に持っています。
オフト監督の言葉があり、「日本代表がワールドカップに行く戦いと、行ったその先の戦いを絶対に取材しよう」と決心した私は、中田英寿選手に出会うことになりました。

――全てが繋がっているのですね。ビートルズの本はどのようにして作られたのですか?


小松成美氏: ビートルズにまつわる2人、アストリット・キルヒヘアとスチュワート・サトクリフのツーショット写真があります。その2人が映画の主人公になっていたので、アストリットに、「あなたとビートルズの青春を、本にしたい」と手紙で頼みこんで、やっとOKしてもらってできたのが、最初の本です。9歳の時に、あのビートルズのLPを買っていなければ今には繋がっていなかったかもしれません。
 その本に心血を注いでくれた浅間さんとは、趣味でいつも一緒に歌舞伎を観ています。歌舞伎座に通って、2人とも中村勘九郎さんの芝居が大好きで。やがて、勘九郎さんのインタビューの機会が巡ってきて、「いつか中村勘九郎さん(十八代目勘三郎)の本を作りたい」と浅間さんに告白しました(笑)。それが単行本『さらば、勘九郎 十八代目中村勘三郎襲名』のスタートです。そういったように、私の中ではいろんな事が繋がって、今に活きているのです。

著書一覧『 小松成美

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