小松成美

Profile

1962年、神奈川県横浜市生まれ。 専門学校で広告を学び、毎日広告社へ入社。その後、放送局勤務などを経て、1990年より本格的に執筆を開始する。 主題はスポーツ、映画、音楽、芸術、旅、歴史など多岐にわたる。 情熱的な取材と堅い筆致、磨き抜かれた文章にファンも多い。 スポーツノンフィクションや、歌舞伎をはじめとした古典芸能や西洋美術、歴史などにも造詣が深く、関連の執筆も多い。 近著に『横綱白鵬 試練の山を越えて はるかなる頂へ』(学研教育出版)、『逃げない―13人のプロの生き方』(産経新聞出版)、『対話力 私はなぜそう問いかけたのか』(ちくま文庫)など。

Book Information

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本は人間のワンダーランド。その扉を開いてほしい



第一線で活躍する人物のルポルタージュを得意分野とし、テーマに肉迫するスポーツノンフィクションの書き手である小松成美さん。歌舞伎をはじめとした古典芸能や西洋美術、歴史などにも造詣が深く、関連の執筆も多数。講演では、多くの人物と信頼関係を築いてきたコミュニケーション術やプロフェッショナルなどについて語られることもあり、幅広い年齢層に支持されています。現在、数多くの人物ルポルタージュ、スポーツノンフィクション、インタビュー、エッセイ・コラムを執筆、雑誌や書籍にて精力的に発表している小松さんに、本の素晴らしさ、書くことの苦しみと喜び、そして、本で伝えたいことについて語っていただきました。

リーダーを育てるということ


――4月からは兵庫県立大学の客員教授を務められていますね。


小松成美氏: 生命理学研究科の中なのですが、リーディング大学院という、リーダーを育てる学部があります。韓国、インドネシア、中国からの留学生を含む、ドクターをとっている学生たちが、研究を包括したものを形にして世の中に投じるリーダーになる。そのリーダーを育てるための学部となっています。

これは国のプロジェクトでもあり、国が助成金を出しているので、東大や京大や早稲田など色々なところにあります。研究したものを社会に還元したり、投じたりするために、プロデュースやマネージメントをする学生の方たちのための学部です。彼らは理系の学生なので、いつもラボで研究をしているような、ものすごく知的な学生たちなのですが、そのリーダーを育てるという意味で、授業は全部英語となっています。

――それは教える側も同様ですか。


小松成美氏: そうです。世界で通じるリーダーという意味で、ディベートも、オピニオンを述べる時も、全て英語です。そういった専門知識や科学の中でリーダーになるために、スペシャルプログラムとして色々なステップを学ぶのです。学生は、大学内と教室と自分の家や寮を行き来していて、社会に触れる機会が少ないので、社会経験を積むための授業として、会社の経営者の方や、私は作家として、という感じで4、5人教授がいます。

その中で講義をさせていただくのですが、テーマは自由です。2時間やって、その後にみんなでディベートをするのですが、その司会も私がやっています。私のライフワークというか、『和を継ぐものたち』という本で職人たちの取材をしているので、前期は日本の職人たちの生活やその技、そして、そこにある問題点などについてやりました。私が、筆や扇子、和ろうそくなどの作り方を写真で説明をして、「なぜこうしたものが日本で発展したか」ということも説明して、この21世紀にある彼らの苦境を伝えた上で、「次世代に技術や伝統を伝えることが、難しい状況になってきています。あなたたちがリーダーだったら、この技術や伝統をどう守りますか?」ということをテーマにディベートをしました。この議論はかなり白熱しましたよ(笑)。

――今聞くだけでも大変面白そうですね。学生からはどんな意見が聞かれましたか。


小松成美氏: 「淘汰されるべきものもあるんじゃないか」、「リーダーにはそういう選択も必要じゃないか」という意見もありました。夢物語なら、「全ての技術者、後継者に助成金を出して…」といった感じになるのかもしれませんが、「なかなかそう旨くはいかないと思う」という意見もありました。自分が職人だったりしたら、自分のことしか伝えられないかもしれませんが、書き手の立場で取材をしたので、その授業の中では、問題点まで紡ぎ出せたのがすごく良かったと思います。

次回は、歌舞伎をテーマに講義をしようかと考えています。歌舞伎は歌舞伎座や京都の南座をはじめ、地方の劇場でも一年中、ほとんど毎日やっているのに、聞いてみた所、誰ひとり見たことがありませんでした。でも、彼らはきっと「日本の伝統芸能は何ですか?」と聞かれたら、「歌舞伎」と答えたりするわけです。ですから、今度はDVDを持っていって、勘三郎さんの『鏡獅子』を学生に見せたいなと、次の授業のプランを練っているところです。

自分が媒体となることによって、新たな花を咲かせたい


――6月からは高知県の観光特使にも就任されてます。


小松成美氏: はい。今、私が取材している株式会社ダイヤモンドダイニングの松村厚久社長にご縁を頂きまして、尾崎正直高知県知事をご紹介いただきました。私自身は横浜生まれの横浜育ちですが、高知県の観光特使をさせていただくことになりました。また、以前には坂本龍馬の手紙を題材にした『若い人におくる龍馬のことば』を書いていて、そのこともきっかけになりました。

子ども時代に司馬遼太郎さんの『竜馬がゆく』を読んで、龍馬が大好きになって、そこから維新の時代の歴史を調べるようになりました。あの時代のダイナミズムには胸が躍ります。薩長の人々、幕府の勝海舟など、傑物は数え上げたらきりがありません。中でも、土佐藩の人たちは傑出しています。他の藩の人たちは、自分の蕃を国として主に考えていたのに、脱藩した龍馬や中岡慎太郎は土佐のことだけでなく、日本や日本人のことを考えていました。自分がやるべきことだと思ったら、絶対に曲げない。他者のためであることが自分の喜びになるという、その高知の気質に胸をうたれたのです。

大人になって高知を旅すると、高知の方たちは本当に情が厚いなと感じました。今、“高知家”といったキャンペーンもありますが、まさに大きな家族といった感じで、みんな元気なのです。今回も高知へ行ってきましたが、情熱的というか、イタリア人みたいな感じで、本当の家族のように接してくれます。

――他者のためであることが、自分の喜び……そういった想いは取材にも繋がってくるのではないでしょうか。


小松成美氏: まさにそうですね。アスリートに取材をさせていただいても、自分のためにはもちろん、「自分以外の誰かのために何ができるか」ということに尽くしている思いを聞くことが多いのです。そういう胸に秘めた思いを伝えたいと思います。勿論、皆さん自分の目標や夢や欲望があるのですが、「自分ではない誰かのために力を尽くすということが、爆発的なエネルギーを生む」とおっしゃいます。

これは、エンターテインメントでもスポーツでも同じ。「自分のためだったら苦しくて足をとめていたのが、被災地で応援してくれている方のためだと思えば、止まらずに走りきることができる」と、なでしこジャパンの選手たちが言っていました。それを聞いて、「人間の心は、思うことによって色々な化学反応を起こす。だから、可能性は無限なんだな」と思いました。明治維新の武士たちにもそれを見ることができます。オリンピックやワールドカップで戦っている選手にもそれを感じるので、取材のテーマが尽きませんね。

――全てが取材対象ですよね。取材者、作家としての喜びとは?


小松成美氏: 執筆のテーマとなる方々が輝く瞬間に立ち会える、その興奮があります。でも50代になって、取材して原稿を書くというシンプルな仕事の中に、人と人をつなぐという大きな作用があるのだと思うようになったのです。それで、私が取材した方を、ジャンルも世代も性別も違う方たちに紹介することもあります。私にあるのは単純に、「この方とこの方が出会えばすごいかも」という思いだけなのです。ミツバチのように媒介することによって、そこにまた新しい種がまかれたり、花が咲いたりするのではないかと考えています。だから、観光特使もお引き受けしました。

作家としては、取材を許される立場として、そのテーマに肉薄します。書くために、ご家族さえ知らないことを知ることになります。でも、そこには人生の紆余曲折があるわけなので、喜びだけではなく、苦しみも共有することになります。作家は、主題の壮大な人生を享受するという職業で、他にないと思います。

主人公と自分を重ね合わせる


――先ほど、『竜馬がゆく』のお話が出てきました。


小松成美氏: 龍馬の本は小学生高学年に、本棚にあったのを読みました。今のようにゲームも携帯もコンピュータもなかった時代です。もっと幼い頃には母が色々な本の読み聞かせをしてくれました。家中にある物語を全部覚えてしまって、「新しい物語ないの?」と、私と弟が毎晩言うので、母は仕方なく自分で物語を作って、話してくれていました。昔話やアンデルセンやイソップなどの絵本を読んで、自分で字が読めるようになってくると、各出版社が出していた文学大全集を読むようになりました。『ナルニア国物語』『三銃士』『海底2万マイル』や『八十日間世界一周』などにも魅せられましたね。テレビでは手塚治虫アニメのとりこです。「ジャングル大帝」「鉄腕アトム」「リボンの騎士」など、イマジネーションを喚起する物語がたくさんありました。

小学生になると、トム・ソーヤとかハックルベリー・フィンやガリバーなどを読んで、冒険にとりつかれました(笑)。空想が勝って、段ボールで作ったいかだに乗って川に出てみたりもしました。あと『不思議の国のアリス』が大好きで、「絶対にウサギの穴があるはずだから」と森の中を歩き続けました。物語を読んで、主人公と自分を重ね合わせていたのかなと思いますが、だからこそ、退屈ではありませんでしたね。

漫画も読みました。小学生の時、『マーガレット』と『チャンピオン』を毎週とっていたので、『ベルサイユのばら』と、『ブラックジャック』と『ドカベン』は全部リアルタイムで読みました。時代の恩恵もあったかなと思います。本が好きすぎて、誰も知らない世界にどんどん1人で入っていけました。『巌窟王』や『ああ無情』などを読んで、うなされたこともあるほどです(笑)。

母の影響でしょうか。母親は戦時中、電球に傘をかけて本を読んでいたというぐらい大好きだったそうです。母が持っていた古い本の中には、サマセット・モームの『月と六ペンス』などがあり、それも読みました。

――文学少女だった小松さんはその後、どのように今の道に進まれるのでしょうか。


小松成美氏: 本はずっと好きでしたし、高校では水泳部に入ったりしてのびのび過ごしていました。でも、「自分はなぜ生まれたんだ」とか、「自分はなぜこの時代にこうして生きているんだろう」とか、「人間の価値は、どんなものではかれるんだろう」などと考えるようになりました。

偏差値とか、受験を考えるような時期になっても、「自分が知りえた人間のエネルギーや冒険心、チャレンジ精神は、そんなものじゃない!受験のようなもので自分は選別されたくない」という思いが強く、受験勉強に興味がなくなりました。でも受験に失敗すると、今度はその自分が許せなくなってしまったのです。クラスメイトが向き合っていたチャレンジから自分は逃げた。その先の選択は、滑り止めで受かったところに行くか、就職するか、浪人するかというこの3つ。もうここには自分の居場所はないと思い、滑り止めで受かったところも、行くのをやめてしまいました。

本が好きになった私は写真やデザインにも興味があり、広告の仕事に興味を持っていました。パルコで石岡瑛子さんのグラフィックを見て、それがあまりにもカッコよかったので、広告の専門学校に行くことにしたのです。

過去の自分を責めて病床に伏す。


――広告ですか。


小松成美氏: そうですね。「広告のプロデュースする仕事がしたい」と思っていました。18歳になってすぐに運転免許を取って、父に車を買ってもらい、行動範囲が飛躍的に広がり、当時はウインドサーフィンやテニスをやって、毎日、仲間と遊んでいました。丁度、ウインドサーフィンがオリンピック競技になった頃で、海に通い詰めました。専門学校の2年間はとても楽しかったです。

――その後、毎日広告社へと。


小松成美氏: 願い通り広告代理店へ入社し、20〜23歳までいました。仕事は楽しかったけれど、結局「女性は結婚しなさい」という空気に絶えられませんでした。85年に雇用機会均等法ができたのですが、寿退社という発想は純然と会社にあって、その年に私は広告代理店を辞めました。
御巣鷹山のあの事故の直後、TBSに契約社員として移ることにしました。報道局は活気があり、スペースシャトル「チャレンジャー」の爆発事故や成田空港を取り巻く闘争を取材する記者達の姿に憧れました。三里塚闘争の際に、火炎瓶の被害に遭った若い記者のジャケットが燃えて黒くなっているのを見て、報道という仕事の尊さと過酷さを思いました。現場の記者達とは、毎日のように語り合っていました。

中学、高校の頃には身近にあったベトナム戦争の報道の本を読んでいた私は、彼らの仕事に憧憬を持ちました。しかし、契約社員ではそんな仕事はできません。局の入社試験を受け直せば、と周囲から言われたこともありましたが、記者職、報道などは、4大卒しか入れませんでした。
結局、受験から逃げたことが今の自分を追い詰めている、と当時は思えました。そして、未来を真剣に考えなかったそれまでの自分を責めました。すると、ある日倒れて、救急車で運ばれたのです。ストレスによる酷いメニエール病でした。当然、仕事を続けられなくなりました。

――どのようにして、そこから新たな一歩を踏み出せたのでしょうか?


小松成美氏: 入院をして療養をすることになると、自分がどんなに恵まれているかが、だんだんと分かってきたのです。入院した病院のその病室の中では自分は一番症状が軽く、誰よりも早く退院しました。命に関わる病を治療している方々が、私の退院を、ものすごく喜んでくれました。自宅療養中には、父と母からは「あなたが好きなことをやりなさい」とも言われました。

退院したばかりの頃は、人に会うのが嫌だったので、毎日本を読んだり、ビデオで映画を観たりしていましたが、そこで改めて自分に向き合うことが出来ました。本や映画の中には、時代の不遇で、勉強することも長く生きることも叶わなかった人たちが、描かれている。「自分はこんなに安全な国に生まれ、健康を取り戻して、こんなに家族に守られている。あとは、リカバリーすればいいだけ」とある日、自然と思えるようになりました。

一生寄り添える仕事を探す


――「転んだら起き上がればいいじゃないか」と。


小松成美氏: ええ。そこからまた働こうと考えられるようになりました。アルバイトをしながら、「生涯寄り添える仕事、もしくは自己表現できるものを見つけよう」と思ったんです。色々なことを学んだり、話を聞いたりしました。勧められるまま客室乗務員やインテリアデザイナーを考えたこともありましたし、もう1回大学へ行こうかなとも考えました。26、27歳で、広告代理店でアルバイトをして、華やかなイベントの企画などもしていましたが、30歳までには自分の人生を定めたかったので、残り時間を数えるようになりました。その時、一番好きなものじゃないと続けられないと分かっていたので、そこに突き進んだ方が間違いないと思ったのです。一番好きなものといえば、本。本を読むだけでは生活の糧は得られないので、「本を書く人になる」とある日思い立ちました。それを決めた時の清々しさは、今も思い出します。
原稿を書くという事がどんなに難しいことかを、あの時知っていたら、絶対にそんなことは考えなかったと思いますが(笑)。

――周りの反応はいかかでしたか?


小松成美氏: 「ライターになり、ゆくゆくは本を書いて作家になりたい」と言ったら「お嫁に行きなよ」とか、「投稿欄があるから、そういうところに書けば?」とか、あと「同人誌とかがあるよ」などと、散々でした。でもそのうち何人かの方は、応援してくれました。「どんな作家だって、最初は素人」「一歩を踏み出すことでしか夢には到達できない」「成美なら大丈夫」と言ってくださいました。
最初にライターとしてのチャンスを与えてくれた1人が、『Number』の設楽敦生さんという編集長でした。私は、ライターとしての仕事を得るためにNumber編集部を訪ねるのですが、原稿を書いた経験は、アルバイトライターをしていた「HANAKO」という雑誌でのレストラン紹介だけで、素人も同然でした。外見も、ワンレンのロングヘアーに大きなイヤリング、赤いスーツを着て編集部を訪ね、「スポーツノンフィクションを書きたいんです」と。若い編集者達は、驚いていたと思います(笑)。

――スポーツを書きたいと思われた理由とは?


小松成美氏: 19歳の頃に『Number』が創刊されたのですが、その創刊ゼロ号に載っていた『江夏の21球』という山際淳司さんの名作を読んでいました。また、沢木耕太郎さんが書いた『敗れざる者たちや『一瞬の夏』など、スポーツをテーマにしたものに衝撃を受けていたんです。それ以前にはなかったスポーツ読み物を、10代の頃に読んで感動したのがきっかけでした。
小学校、中学校の頃には、ベトナム戦争などのニュースが日常的に流れていました。当時、偉大な流行作家は、みな第二次世界大戦を経験していました。作家が自生と向き合って、「人が生きるとは何か」とか、「国家とは何か」といったことを書いていました。
時が流れ、一九八〇年代の終わりには、スポーツが人々の注目の的になり、その活躍が大きな関心事になっていました。その中で、時代を切り裂くような勇気や希望を、スポーツ選手を取材して描きたいと願ったのです。

ライターになりたいと言った私に、ほとんどの人が「やめた方がいい」と言った時に、設楽編集長は、「じゃあ小松さん、ウチで連載を持ってみませんか?」と。こんな展開、考えられないでしょう?(笑)。今でもなぜ、設楽さんが私に連載を持ちかけてくださったのか、その理由が分かりません。

――すごいですね。どのような内容の連載だったのでしょうか?


小松成美氏: 「食卓絶景」という、アスリートの食卓を取材するというページでした。カメラマンとアスリートの家に行って、ご飯を食べているところを撮らせてもらい、手料理を食べながら食にまつわるエピソードを聞くというものでした。今ではできない取材です。
連載が始まって、取材のアポ取りやインタビュー、そして執筆と、毎日が勉強でした。何より大変なのは、原稿です。書いても書いても、OKが出ない。「原稿がつまらなすぎてタイトルが付けられません」と、原稿用紙をつき返されたこともありました。文藝春秋の資料室で泣きながら原稿を書きました。
でも、どんなに叱られてもライターの仕事を手放したくなかった。やっとみつけた自分の人生だと思えたからです。下手でも書くことが大好きだったから、「がんばろう!」というエネルギーは湧いていきました。3、4か月くらい経ったある日、担当編集者が「今日の原稿、ちょっと面白いですね。小松さんのインタビューの様子がうかがえますね、この調子で頑張ってください」と言ってくれたんです。
その当時はもうアルバイトも全部辞めてしまい、月収はNumberの連載料だけ。新しい服やバッグや靴は買えませんでしたが、物質とは比べられない歓びを得ていた私は、まったく躊躇することがありませんでした。

出版社、編集者が私を育ててくれた


――小松さん自身は書いた時に、手ごたえのようなものがあったのでしょうか?


小松成美氏: 駆け出しの頃は必死だから全然分かりません(笑)。もちろん、下手すぎて話にならなかったと思いますが、今思えば、そんな素人の私を、設楽編集長や担当の編集者が育ててくれたのです。

2年目になった時に、編集長から「もう小松さんは長いものをかいたほうがいい」と言われ、野茂英雄さんの取材を言い渡されました。原稿用紙30枚の読み物です。取材も大変でしたが、掲載されたら反響がものすごく大きくて、それで編集長から、「長く取材できるテーマを」ということで、92年からは、ワールドカップを目指すサッカー日本代表の取材をまかされました。ドーハの悲劇の時にも現地で取材しました。
Numberでの原稿を読んでくださっていた他の編集部のかたたちがスポーツ以外のテーマでの取材を提案してくれました。中でも、花田紀凱さん(現WILL編集長)は、「小松さんは、小松さんが好きな物を書くといい」と言ってくださいました。それで、大好きだった歌舞伎や映画や演劇や美術なども書くようになり、一気にテーマが広がっていきました。

――編集者というのは、小松さんにとってどんな存在ですか?


小松成美氏: 伴走者ですね。私の場合、まず、編集者に読んでもらいたい、と思って書いているのです。原稿を書くことほど苦しいことはありません。きっとそれも編集者と共有していると思います。とにかく書き続けることでしか上手くならないのです。そうやって書き続けていく中で、たくさんのテーマに出会いました。

――最初の本はビートルズがテーマですね。


小松成美氏: はい。92年、カタールでサッカー日本代表を取材している時、ホテルに浅間雪枝さんという編集者が電話をかけてきたのです。私は9歳のお誕生日の時にステレオを買ってもらって、初めて買ったLPがビートルズで、それ以来ビートルズが大好きでした。彼女からの電話は、「ビートルズ、お好きでしたよね?『バックビート』というビートルズの映画ができて、世界で初めての試写会がロンドンであるので、一緒に取材に行ってくれませんか?」という飛び上がるほどうれしい話でした。その取材が、最初の本『アストリット・Kの存在 ビートルズが愛した女』の出版のスタートです。

――テーマとの出会いもドラマがありますね。


小松成美氏: そうですね。92年10月のドーハのワールドカップアジア地区最終予選の取材が忘れられません。浅間さんの電話を受けた翌日のゲームがイラク戦に引き分けたあの「ドーハの悲劇」です。泣きながら原稿を書くのですが、同時に、この先もずっとサッカーを取材していこうと誓っていました。

――寄り添っているから、悲しみも大きかったのでしょうね。


小松成美氏: はい。帰国はチャーター便で選手と一緒に帰ったのですが、その時に当時のオフト監督から「この日本代表をずっと取材してくれて、どうもありがとう。僕はたぶんこの日本代表を去るけれど、君は日本代表をこれからも取材して欲しい」と言われました。私は「次もどうか続けてほしい」と言いましたが、彼は「決めたから」と。そして、「君は僕たちよりも有名だから」と言って、カタールの新聞をくれたんです。そこには「泣く日本人ジャーナリスト」といって、なんと私が泣いている写真が一面に載っていたのですよ(笑)。今でもその新聞は、記念に持っています。
オフト監督の言葉があり、「日本代表がワールドカップに行く戦いと、行ったその先の戦いを絶対に取材しよう」と決心した私は、中田英寿選手に出会うことになりました。

――全てが繋がっているのですね。ビートルズの本はどのようにして作られたのですか?


小松成美氏: ビートルズにまつわる2人、アストリット・キルヒヘアとスチュワート・サトクリフのツーショット写真があります。その2人が映画の主人公になっていたので、アストリットに、「あなたとビートルズの青春を、本にしたい」と手紙で頼みこんで、やっとOKしてもらってできたのが、最初の本です。9歳の時に、あのビートルズのLPを買っていなければ今には繋がっていなかったかもしれません。
 その本に心血を注いでくれた浅間さんとは、趣味でいつも一緒に歌舞伎を観ています。歌舞伎座に通って、2人とも中村勘九郎さんの芝居が大好きで。やがて、勘九郎さんのインタビューの機会が巡ってきて、「いつか中村勘九郎さん(十八代目勘三郎)の本を作りたい」と浅間さんに告白しました(笑)。それが単行本『さらば、勘九郎 十八代目中村勘三郎襲名』のスタートです。そういったように、私の中ではいろんな事が繋がって、今に活きているのです。

書くのが苦しければ苦しいほど、表現は輝くはず


――「原稿を書くことほど苦しいことはない」と先ほどおっしゃっていましたが、書くということの意義とは?


小松成美氏: 創作は苦しいですね。でも難しいからこそ、こういう本という文化があるのだと私は思うのです。原稿を書くという意味においては、使命と責任があります。取材を許され、署名原稿として書く者だけが、会ったこともない人にその情報を伝えることができる。保管さえされれば、100年先にもその本は誰かに読まれるわけです。だから、取材をして原稿を書くという権利を与えてもらうためには、きちんと取材をした上で原稿を書く必要があるのです。創作の苦しみがなければ本は完成しない。だから苦しみも:喜びのうちですね(笑)。本当に伝えたいものを書こうと思っているので、苦しければ苦しいほど、自分の表現としては輝いていくと信じています。

電子書籍は、私にとっては自然な流れで、ひとつの表現です。
しかし、いくらデジタルであっても、書くという行為に関してはアナログ、人の行為ですよね。いいものを書くには思考し、鍛錬するしかない。だから、職人に近いかもしれません。どんな匠でも、「完璧だと思ったことがない。生きている限り修行です」とおっしゃるのです。私ももっといい原稿を書きたいし、もっといい文章で伝えたい。困難があるからこそ、その尊さを知ることができます。私は書くことが大好きです。

――電子書籍も表現の1つということですが、抵抗はありませんでしたか?


小松成美氏: 私は、自分の作品は電子書籍化してほしいと思っています。若い世代は、最初から電子書籍で読んでいるので、読むアイテムが変わって当然です。タブレットや携帯で読んだりすること、電子書籍で読むことは全く問題ないと思います。版権の扱いはありますが、データとしては必ず、いわゆるデジタル書籍の本棚においてもらえるから、絶版にならないじゃないですか。紙でも電子でも、自分が好きなスタイルで読めばいいと思います。昔は海外に行くときに、たくさん本を持って行きましたが、最近は、紙の本に加えて電子書籍リーダーも持って行きますよ。

もちろん今でも、紙の本で読むし、紙の本が大好きです。全集などが大好きなので、色々ありますよ。昨日も、三島由紀夫の長編小説の全集などを開いていました。

――本の良さとは、どのようなところにあると思いますか?


小松成美氏: 本の質感が好きです。単行本の大きさや紙の手触り。そして、装丁。それはもう圧倒的ですね。あと、付箋を貼ったりできること。紙として、自分の手元にあるものを俯瞰することができるのがいいと思います。私が子どもの頃はGoogle検索、インターネットもない時代だったので、本が“教科書”や“教師”であり、あらゆることを学んだと思っています。

本には人の全てが描かれています。人は本当に優しいし、繊細だし、愛おしい。人は人のために命を犠牲にできるわけですよね。それと同時に、人は本当に愚かで、尊大で、醜くく、鼻持ちならない。殺戮を繰り返すし、差別をする。そういった全ての世界が本の中にあって、それが映画や音楽になっていきます。本を読まなくなったと言われている世代がいますが、本ほど情報量が多岐にわたり、情緒が豊かで、面白いものはない。もちろんロールプレイングゲームも面白いし、素晴らしいのですが、それを凌駕するアドベンチャーが本の中には待っている。だから、この小さな扉が、人間のワンダーランドの扉なんだということを知っていただきたい。「小松成美の本を読んで勇気づけられた」、「本当に本って面白いですよね」、と言ってもらえるような、いい作品を書いていきたいです。

――今執筆中の作品は?


小松成美氏: GReeeeNという音楽グループをずっと取材してきたので、彼らのことを1冊にまとめようと思っています。彼らは名前も顔も出していないので、青春小説として書き上げたいですね。どんなものにできるかなと考えているところです。

それと、ソニーの盛田昭夫さんと井深大さんが作った、ソニーの物語。盛田さんの末の弟、盛田正明さんにインタビューをして、盛田兄弟と井深さんがコンシューマーのためにもの作りに取り組んだ時代と世界へ羽ばたいた姿を書きたいと思っています。

それから、森光子さんの評伝。森さんが亡くなる直前に取材のお約束をして、OKが出た途端に亡くなってしまいました。でも、マネージャーさんから「私のことを、国民女優とか日本のお母さんと言うけれど、本当はどうだったのか。深くかかわった人たちから聞いてほしい」というメッセージを託されました。それで、今その証言をとって、原稿を書いているところです。

さらに、日本理化学工業という重度知的障害を持ったかたたちが日々いきいきと働いている会社の物語も執筆中です。

――今後、書きたいテーマはありますか?


小松成美氏: 日本はすごいと思います。取材して原稿を書かせていただくことで、誇りを感じられるので、日本や日本人をテーマにしていきたいですね。

(聞き手:沖中幸太郎)

著書一覧『 小松成美

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