編集者が持つ熱い想いに呼応する
――編集者というのは、どのような存在であってほしいと思いますか。
波頭亮氏: 編集者とは、内助の功というか、場合によっては奥さんみたいなものだと思います。筑摩で出した『知識人の裏切り』という対談の本があります。19年前に西部邁さんと対談本を作ろうということで対談したのですが、原稿があがっていった段階で、当時の編集長に対して西部さんが怒ってしまって、出版されることはありませんでした。対談を聞きながらテープを起こして文章をまとめていてくださった吉崎さんという編集者がいたのですが、それから19年後、彼は筑摩に移っていたのです。ある時彼から「あの時の玉稿を、いまだに宝物として持っています。なんとかこの玉稿を世に出したいのです。先生、ご協力いただけませんか?」という連絡がきたのです。「そんなに大事に思ってくれていたのなら、僕が西部さんに頼んでもう1回対談して、19年経って日本がどうなったかというので、1冊にしようか」ということで本になりました。この本の表紙に彼の名前を出したいなとさえ思います。
また、『プロフェッショナル原論』を担当してくれたのは、筑摩の湯原さんという名物編集者なのですが、気難しい人からも「湯原が言ってくるんだったら、本を書いてやる」と言われるような方なのです。奇異なご縁でもありますが、そうやって「いい本を作りたい」という人が励ましてくれたりアドバイスをくれたりすると、すごく元気づくし、「よし、頑張ろう」と思えるのです。伴走者というよりもっと重い存在です。
――編集者は、どのような媒体においても必要な存在でしょうか?
波頭亮氏: そうだと思います。見識が高くて、社会に対する問題意識と編集のスキルがある方がいてくれた方が、いい本が生まれる可能性が高いです。ただ、編集者がつかないと良いものが生まれないかというと、そんなこともないと思います。色々な人が気軽に、インターネット上で自分の書いたものをアップできる環境というのはいい。ただ最近は、優秀な編集者というのは「10万部売れる本を作れる」とか「30万部狙える」という意味で言われるようになって、その優秀の定義が変わってきていますよね。だからクオリティの高い本を生み出すという意味での、優秀な編集者さんが少なくならなければいいなと僕は思っています。
――最近面白いなと思われた本はありますか?
波頭亮氏: 社会評論の分野では、二冊挙げられます。文化人の会合があったのですが、そこである音楽家が「これ、面白かったよ」と言っていたのが白井聡さんの『永続敗戦論』。僕はこの本が出てすぐに読みましたが、白井さんはオリジナルな着想と、地道な史実研究をベースに思い切ったことを書いていて、若手の中だったら素晴らしい書き手だと思います。あと昨夜読んだのは、中島岳志さんの『「リベラル保守」宣言』。
今、健全な保守思想を持っている人と話してみたら、中道リベラルな人とは価値観の違いがあるのです。それで「本来、健全な中道リベラルと中道保守というのは実は根っこってすごく近いんだよ」ということを中島岳志さんは書かれているのです。立派な書き手というのはたくさんいるのだから、そういう人はもっと売れるようになってほしい。薄い本が本屋に多すぎるから、良い本が目立たないような気がします。あと、ヒット作を作ろうと思うと、今の本屋の店頭環境を見ても、あとAmazonのリストでも、いい本を売るのが難しいと思います。
――発信側だけでなく、読み手側も皆で意識する必要がありそうです。
波頭亮氏: 本の形態と流通のプロセス以上に、国民自体の知的好奇心や見識という問題が大きいような気がします。
あと、書き手として、思うことがもう1つ。昔と比べて物価は10倍くらい高くなったのに、50年間、原稿料って変わってないそうです。もし10倍原稿料を貰えたら「いい文章を書こう!」と思うだろうし、僕でももしかしたら書くことで食えるかもしれない。余裕も生まれるし、ハッピーですよね。カメラもデジタルの時代になって、カメラマンさんを連れてくる取材も減っています。記者さんがデジカメで10カット~20カットを撮って、編集部に修正のソフトがある場合は、持って帰ったやつを修正する、という感じのようです。
友人のカメラマンの桐島ローランドは、最近は中国に稼ぎに行ったりしているそうです。作家もカメラマンも、お金のためじゃないとはいえ、もう少し金銭的にも報われる商売になるといいなと思います。
ノイズは必要ない
――そのような中、新しいメディアとして電子書籍の可能性は。
波頭亮氏: 書き手を見てみると「やっぱり本は紙がいいよね」と言う人と、「Kindleが1冊あれば、すごく便利」という人と半々ぐらいでしょうか。僕は、1冊1冊、「これは自分じゃなきゃ」というのをいつも真剣に意識して書いているので、書き手としては結構真面目な方だと思うんですよ。だけど読み手としては全然ダメ。本は、読み終わったら、邪魔になるから、ほぼ全て捨ててしまいます。僕が欲しいのは本ではなくて、コンテンツ。大学時代に1回集計してみたのですが、毎週2000ページずつ本を読んでいたのです。200ページの本だったら10冊、250ページの本でも8冊。
――毎週それだけ本が増えると……。
波頭亮氏: あっという間に部屋が本に占領されるわけです(笑)。だから捨てる事を選んだ。
「もう1回読みたいと思ったら、買えばいいんだ。2回も読む本は、100冊に1冊もない」ということに気付いて、気が楽になって本を捨てるようになりました。昔は今ほど、すぐに絶版になったりしなかったという理由もあったと思います。立花隆さんは書庫のためにビルを建てているので、本当にすごいと思いますよ。
洋服に関しても同じなのですが、シーズンを振り返って、1回しか袖を通さなかったものは心を鬼にして捨てます。不精なところもあると思います。ものを持つのが苦手で、本もタブレットも持ち歩かないし、クライアントさんに行く時も、いつも手ぶらです。手帳も、買うとすぐに、使わないページを破って捨てます。カードもキャッシュカードとクレジットカードそれぞれ1枚しかないし、財布は生まれてから持ったことがありません。お札はポッケに入れられますよね。要するに面倒くさいのが嫌いなのです。ワイシャツや下着は、30~40枚をまとめて買ったら、5年間はもうこれで買わなくていいやと思うのです。
――余計なものに煩わされたくない、という感じですね。
波頭亮氏: そうですね。僕はそういったスタイルなので、電子書籍に何の抵抗もありません。それに、電子化が語られる場合、違法コピーの話が出てきますが、もっと重要な問題である知的財産、知的アセットの独占問題の方が大きい気がします。JOIがクリエイティブ・コモンズを始めた時には最初から「どんどん僕のものを使って」と言いました。もったい付けるよりは広がった方がいいですよね。カメラマンや作家とか、それを生業にしている人たちの生活を守るために著作権を大事にすることは大切ですが、孫子(まごこ)の代まで、じいちゃん・ばあちゃんが書いたもので左団扇なんてのは、だめですよね。だからディズニーは好きじゃないです。
――波頭さんのフィルターを通して残ってきた本が気になります。
波頭亮氏: 何冊かありますよ。トールキンの『指輪物語』の初版というか最初の瀬田貞二訳の本。ちょっとギクシャクしているというか、英語直訳っぽい翻訳なのですが、知性と教養がある訳し方で、素晴らしいです。あの本は大学の1年生か2年生の時に評論社から文庫本で出て、繰り返し何回も読んでいるので、登場人物をほとんど覚えています。あれは西洋の歴史と文化の集大成です。単なるおとぎ話やファンタジーではない深さを感じました。あの『ハリー・ポッター』と基本的には構図は一緒ですが、教養書という感じがしてパンチが強いです。
日本社会にある豊かな社会との「齟齬」に異論を呈す
――素晴らしい媒体である「本」の書き手として、今後どんなものを発信されますか。
波頭亮氏: 何が正義かというのは、人によって全然違いますが、「人が100人いたら100人の正義があるんだよ」というのは違うと思います。誠実、平等、博愛などの明らかな正義のグループ、分かりやすい表現でいうとジョン・ロールズの正義と、不正義とは、はっきりわかれます。
例えばアウシュビッツの虐殺を「正義である」という人はいませんよね。今、日本が向かっている方向と、「民主主義」における正義や豊かな社会との間には大きな齟齬(そご)があると思うのです。日本経済はジャングル経済化してしまっています。生活保護受給対象者が増えている中で消費税をどんどん上げて、100兆円も内部留保がある企業の法人税減税をやろうという逆再分配の政策は、僕が思い描く正義、豊かな社会の姿とは逆の方向へいっているので、それに対して異論を呈してみようと思います。
それから『戦略策定概論』は出版してから15、6年経つので、経営学史、あるいは経営戦略理論概論といった本をハードカバーで出そうと思います。実は、締め切りが3年ぐらい過ぎています(笑)。友だち、知人に読まれても恥ずかしくないようなクオリティの本を書こうと思ったら、3カ月ぐらいまとまった時間をとらないと書けません。でもコンサルティングの仕事があるので、3日間続けて他の仕事を入れないというのも難しくて、なかなか本が進まないのです。でも、その本はきちんと書き上げて、世に出したいと思っています。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 波頭亮 』