名和高司

Profile

1957年、熊本県生まれ。 東京大学法学部卒、ハーバード・ビジネス・スクール修士(ベーカースカラー授与)。三菱商事の機械(東京、ニューヨーク)に約10年間勤務。 2010年まで、マッキンゼー・アンド・カンパニーのディレクターとして、約20年間、コンサルティングに従事。2010年より現職。専門はグローバル経営、成長戦略、イノベーション、企業変革、リーダーシップ。 著書に『「失われた20年の勝ち組起業」100社の成功法則 「X」経営の時代』『日本企業をグローバル勝者にする経営戦略の授業』(PHP研究所)、『学習優位の経営―日本企業はなぜ内部から変われるのか』(ダイヤモンド社)など。

Book Information

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

『第三の波』と出会い、ビジネスの波に乗る


――就職という分岐点では、どのような道を考えられていたのでしょうか。


名和高司氏: マスコミに行くことも考えました。でも、父に相談したところ、「マスコミというのは傍観者だから、もう少し当事者の仕事に就いたらどうだ」と言われて、「それもそうかな」と、納得する部分がありました。それで商社を選ぶことにしたのですが、その時の気持ちは今も覚えています。ランボーという詩人がいますよね。ランボーは、非常に早熟で、彼は詩を10代で書き終わって、その後、商人になるんです。実は、私にも小説家になりたいと思った時期があって、大学1、2年の頃には小説を書いて応募していました。だから就職する時には、「ランボーのように筆を絶って、これからは商人になるんだ」と、まるで青春が終わったかのような悲壮感がありました。でも入社してすぐに、衝撃的な本との出会いが待っていたのです。

――どのような本だったのでしょうか。


名和高司氏: アルビン・トフラーという未来学者の『第三の波』という本が、私が入社した頃に出たのです。今度は未来学に凝りまして、三菱商事の同期と、まだ日本語になってなかった『第三の波』を読むための、「サードウェイブ」という勉強会を始めたのです。その頃から、企業について、かなり興味を持ち始めました。4年間、東京にいて、その後、ニューヨークに4年行きましたが、その頃には、完全に商社マンになっていました。日々の仕事が面白かったですね。本よりも、『GSウィーク』や『ウォール・ストリート・ジャーナル』ばかり読んでいて、そういう意味では、ビジネスの波に乗っていたという感じがありました。

クリステンセン先生、イノベーションとの出会い



名和高司氏: 寺山修司の『書を捨てよ、町へ出よう』の世界ですが、まさにそうですね。それで、「もう一度、しっかり学びたい」と思うようになりました。ビジネススクールの社内の選考に受かって、ニューヨークからボストンに行くことになりました。ハーバードで出会った先生たちも、周りにいる人たちも、すごく良い刺激になって、2年間はたくさん勉強しました。そのままビジネススクールに残ろうかと思うほど、ビジネススクールは自分に合っていたなと思います。

ハーバードでは、イノベーションが1番面白かったですね。マイケル・ポーターが私の先生だったのですが、今はイノベーションの大家と言われている、クレイトン・クリステンセン先生もいました。まだ先生が駆け出しの頃で、『イノベーションのジレンマ』を書く前でした。そのクリステンセン先生に刺激されて、私が2年で選んだテーマも、イノベーションでした。クリステンセンが言っているような、イノベーションのモデルが出始めるといった時期に出くわしたことはラッキーだったと思います。次の新しいスターが出てくるという時期で、当時のハーバードは面白かったですよ。

――最優秀賞を獲得されましたが、並々ならぬ努力が必要だったのでは…。


名和高司氏: ええ。日本人では私を含め、4人になったと聞いています。私が90年にとったので、もう20年以上前のことになりますが、日本人が獲るのは難しいと思います。
私の場合は、自分で考えて、人と違うことを考える癖をつけるようにしました。全体的にレベルを上げるというか、議論の質を1つ上に上げるような努力をしました。反論を言うだけではなく、弁証法的に言うと、アウフヘーベンするような、そういう議論を常に組み立てようと心がけました。教授が90分間使って話したいという流れに合うので、最後の方で発言すると、すごく喜ばれます。逆に言うと、「一体この人は、どういう風に、この議論を導こうとしているのか」という、ある種の心理学的な戦いを、教授としていたのです。その辺が、推理小説を読むみたいで、面白いのです。だから講義の90分間は、最後まで飽きることはありませんでした。

ハイテク、イノベーションが得意技


――最優秀賞をとった翌年に、三菱を退社されます。


名和高司氏: ええ。6年ぶりで東京に帰ってきて、カウンター(逆)カルチャーショックがあって、それをベーカー・スカラーも獲られ、三菱商事の大先輩でもある堀さんに相談しました。すると「ぜひBCG(ボストン・コンサルティング・グループ)に来い」という話になったのです。それで、マッキンゼーも受けていたので、断りに行きました。そしたら「大前研一を見てから断れ」と。なぜマッキンゼーがつまらないと思っているか、なぜBCGが面白いかという訳を話したら、大前さんは「マッキンゼーは俺の子どものようなもんだ。そんなこと言わせない」と怒ってしまいましたが、途中から「君の言う通りかもしれない。君と一緒に、マッキンゼーを変えよう」という話になって、「そうですね」と私も乗ってしまいました。堀さんに謝るのが大変でしたね(笑)。それが33、4歳の頃だったと思います。堀さんと大前さんという、当時の最高峰の人たちから引っ張られたのは、すごく自分としてはうれしかったです。

――最初はソウルに行かれたそうですね。


名和高司氏: 大前さんが、ちょうどソウルオフィスを立ち上げていて、その創業メンバーに入れたのもラッキーでした。最初は半年などと言われていたのが、気がついたら2年半ぐらい経っていました。今でこそ、大きなオフィスとなりましたが、当時はまだホテルの2階の一角に部屋を借りて、韓国人と日本人が10人ずつという規模でした。オフィスを立ち上げたのは、楽しかったですね。彼らの成長ぶりはすごかったですよ。LG、サムスン、ヒュンダイ、ポスコだとか、今はもう超一流になりました。日本に追いつき追い越せという戦略を、一緒に作っていましたので、30年経つと違うもんだなと思いますね。

その後は、基本的には東京。マッキンゼーは、自分の得意技を自分で決めなくてはいけなかったのです。私の場合は、ハイテク系で、かつイノベーションというのが、得意技だったので、ネットバブルの頃も、何社からかお誘いがありました。同じところに、ハーバードからマッキンゼーに行った、同年代の南場智子さんがいました。彼女はDeNAという会社を作ったのですが、私にはそういう勇気もなく、「コンサルタントが天職かな」と思いながら、長居してしまったという感じもあります。そして4年前にようやく、大学など、別の道へと向かうことになり、その一方で魂の故郷というような感じもあるBCGにも、シニアアドバイザーとして参画することになりました。

著書一覧『 名和高司

この著者のタグ: 『大学教授』 『コンサルタント』 『アドバイザー』 『スポーツ』 『海外』 『哲学』 『組織』 『心理学』 『科学』 『学者』 『リーダーシップ』 『イノベーション』 『アジア』 『研究』 『新聞』 『子ども』 『お金』 『人生』 『法学部』 『仕組み』 『編集長』 『世代』 『日本語』 『経営者』 『リーダー』 『バブル』 『アプリ』 『ビジネスコンサルティング』

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
著者インタビュー一覧へ戻る 著者インタビューのリクエストはこちらから
Prev Next
利用する(会員登録) すべての本・検索
ページトップに戻る