読者との喜びの共有
科学史科学哲学の魅力を私たちに伝えてくれる東京大学、国際基督教大学の名誉教授である村上陽一郎さん。「読者とともに喜びたい」と語る村上さんに、幼少期からの読書体験、科学史科学哲学とそれにまつわる人々との出会い、執筆に込められた想いを伺ってきました。
豊かな読書体験
――(村上さんのご自宅にて)ここが『私のお気に入り ─観る・聴く・探す』に書かれていた場所なんですね。
村上陽一郎氏: 父親と、それから母の兄弟が、この周辺に居を構えていました。今から76年か77年ぐらい前の話だと思います。当時は、母の一番上の兄と、母の次の妹の家族と、三家族だけが、この辺に住んでいたようです。祖母は結婚が早かったらしく、子どもが多かったみたいです。私が知っている限りでは、母方の兄弟は七人ぐらいだと思います。祖母は芝居が好きで、まだ私たちがわからないうちから、連れていってくれました。
――お父様は医者だったと聞いています。
村上陽一郎氏: はい。父は医者で病理学者でした。戦前の医学というのは、完全にドイツ語でずっとドイツ語を勉強してきたはずですから、少なくとも読み書きは十分な素養があったと思います。まさに大正教養主義の真っただ中で、父は中学校、高等学校の時代を過ごしました。当時、岩波文庫の原形になった、ドイツ語のレクラムという文庫があって、中学でドイツ語を習い始めると、そのレクラム文庫を原書で読み始め、高校に入ると哲学ばかりではなく、文学や歴史、思想関係のものも、レクラムを読んで勉強していたようです。例えばロシア文学のドストエフスキーやギリシャの哲学であるプラトンの本なども、レクラムで読んでいました。
――そんな父親からは、どのような影響を受けられましたか。
村上陽一郎氏: 私が四つぐらいの時、寝る前の三十分ぐらいに、父がレクラムの『岩窟王』を訳しながら、読んでくれたことを覚えています。父親は、あらゆる書物の原点を、レクラムにおいていたようです。ただ、日本語の書物もたくさんありました。漱石全集は全部そろっていましたね。読ませたくないものは、どこかへ隠していたのかもしれませんが、父親の書棚から本を勝手に持ち出すことについては、一切、文句は言われませんでした。
父親の読み聞かせの影響からか、小学校に入る前から字を覚えていて、姉の買ってくる吉屋信子や、久米正雄などの少女小説も読んでいました。読むことで、字を学んでいたのだと思います。姉が習字をやっているのをいつも見ていましたので、漢字の勉強もよくできていました。当時の本には、ほとんどルビが振ってありましたから、読めない漢字もルビによって、理解していました。ですから、小学校一年生の時に、「五月雨」というのを誰も読めず、私は、そういう時に率先して手を挙げるのは嫌な人間だったので(笑)、黙っていたのですが、当てられたので、「さみだれ」と答えました。その時に、「なんで手を挙げないの」と、先生に怒られた覚えがあります。
――本を読み進めながら、字を覚えていったのですね。
村上陽一郎氏: 野球選手の御園生(みそのお)など、特殊な読み方の人名なども知っていました(笑)。字を覚えることに対する苦労は、全くなかったような気がします。姉がいたこと、親が本をどんどん読ませていたことが、その理由だと思います。小学校時代、一番読んだのは漱石全集と、それからおふくろの強い薦めがあって読んでいた、宮沢賢治の本。童話としては、坪田譲治さんが編集した『グスコーブドリの伝記』とか『風の又三郎』とか。表題作だけではなくて、大体十編から十二編ぐらいの童話が、一冊になってまとまっている著作集を持っていました。例えば『飢餓陣営』や、『どんぐりと山猫』とかいうようなものが入ったのも含めて、子どもが読むべきものは、ほとんど手元にありましたね。
――自由で豊富な読書環境に囲まれていたのですね。
村上陽一郎氏: アルツイバーシェフというロシアの青春作家の『サーニン』という小説もありました。それは、やや性愛的な話が出てくるもので、そういった部分は伏せ字になっていました。当時私は小学校高学年でしたが、そういうものを読んでも、特に怒られることはありませんでした。それから戦後まもなく、新潮社から世界文学全集が出た時には、ローレンスの『虹』や、ジュール・ロマンの『プシケ』などを、小学校の終わりか、中学に入る頃ぐらいに、親父が買ってくると、すぐ読みました。『プシケ』なんて、セックス描写が豊かなんですよね。トーマス・マンの『選ばれし人』も、センセーショナルな記述の多い小説ですが、平気で私に読ませていましたから、そういう意味では、早熟だったかもしれませんね。
子どもの頃は、賢治の童話から、直接的に宗教的なものは感じなかったかもしれませんね。ただ父親は、聖書をいつも読んでいました。我々に強制することはありませんでしたが、キリスト教に対しては、子どもの時から比較的開かれていたかもしれません。小学校の先生の一人が、内村鑑三先生の最後の直弟子と言われていて、大変熱心なクリスチャンで、ご自分でも日曜学校のようなものを開いていらっしゃいました。その集会には、戦後すぐに参加するようになりました。自覚した宗教体験としては、そこがスタートだったのではないかと思います。
病を患い、絶望の縁に
――その頃の興味対象はどのような所に向いていましたか。
村上陽一郎氏: ある意味、なんでも好きだったと思います。歌も好きでした。スポーツはあまり得意ではなかったのですが、中学の時に、杉下茂を指導したことを自慢にしている英語の先生と出会って、「タッパがあるな(背丈が高い)。杉下二世にしてやる」と言われて、カーブの握り方などを教わりました。
――先生に見いだされ、やり方を教わって……。
村上陽一郎氏: そしたら、すごく曲がるんですよ。最初はもしかすると、自分は天才じゃないかと思いましたよ(笑)。クラス対抗などでピッチャーをやったりもしました。でも、やはりそんなことはなく、「自分には何が出来るんだろう」と考え始めました。
そんな時に、自宅で開業している父親の背中を見て、やりがいのある仕事だろうなと思うようになったのです。父は、本当に限られた範囲のご近所の方々しか診ておらず、その中には、実は太宰治もいたんです。それから、後に市村羽左衛門になった、板東さんもいました。父親のような仕事が自分に向いているかどうかはさておき、「進むべき道なのかな」という漠然とした想いを抱き始めましたね。
――父親からはどんな反応をされましたか。
村上陽一郎氏: 大学受験の際「多分、理Ⅱを受ける」と相談した時は、少し嬉しそうな顔をしていました。でもその時一言「さて、お前に向いてるかな」と言われたのも覚えています。実はその頃、チェロをやっていて芸大にも興味を持っていたので、迷いが頭をよぎっていました。そんなとき、私は胸の病気に罹ってしまいました。その年の十二月に父が亡くなり、一家は生活に困るようになり、色々と思い描いていたこと、自分の中にある可能性などが全部消えてしまいました。
――時間を要する実験が必須の理系学生にとっては、大きなハンデとなったのではないでしょうか。
村上陽一郎氏: 当時は「きれいな空気の場所で、絶対安静」とされていました。本すら読まずにひたすら休んでいるという時間を、一日何時間か過ごさなくてはなりませんでした。何もしないという時間は本当に辛かったです。先に入った連中が、学生実験で徹夜しているのを見ると、その道も閉ざされたなという思いはありました。この時期に病気になったのは、人生において一番大きな曲がり角だったと思います。ただ、幸福か不幸かっていうのは、それこそ死んでみないと分からないかもしれません。
幸せへと導いた、師との出会い
――そのような状況からどのように這い上がったのでしょうか。
村上陽一郎氏: もう何もかもあきらめていた部分もありました。健康状態がそんな感じだと、それこそ家庭を持つことも、そう簡単ではない。確かに、私はわりあい引っ込み思案になって、積極的に動く人間ではなくなりました。けれども私の根本には、楽観主義がありました。それは辿ると信仰と繋がるのかもしれませんね。聖書の言葉に、「明日のことは思いわずらうな」という有名なものがあります。「野のユリを見なさい。野のユリは、何を着ようとか、何を食べようとかいうことは、一切思わずに、ただ生きているじゃないか。それは神の恵みが、そこに及んでいるからだ」と。ギリギリのところで、そういった思いがあったのかもしれません。
――信仰が支えになったと。
村上陽一郎氏: もう一つ私が前に進めたのは、大森荘蔵先生に出会ったことが大きな理由だと思います。大森さんは、非常に不思議な人だと思います。学生を突き放す人でもあるし、非常にある種、シニカルな人でもありました。大森さんは物理から文転をして、哲学科に学士入学をした方です。
その際、東大の物理の教室におられた小谷正雄先生が「これで、日本のノーベル物理学賞候補者が一人減った」と嘆いたというエピソードが残されているくらい、物理学の世界で将来性を嘱望された学生だったそうです。鋭い能力から放たれる光みたいなものを持ち合わせた先生だったと思っています。その光に私は照らされて、追いつけないながらも後を歩んで行こうと思えたことは、私にとって幸せだったと思います。
科学史科学哲学の大きな魅力
村上陽一郎氏: 私の専門は科学史・科学哲学となっているのですが、当時は、科学史・科学哲学を学ぶ大学院はありませんでした。大森先生がおられる教養学部に、比較文学・比較文化課程があったので、そこに進みました。科学哲学は、大森先生と個人的なゼミや学習会をしてもらい、科学史については、私と同じように科学史を専攻したいけれど、比較文化に入ってきた後輩と勉強をしていました。私が教員になってから、科学史・科学哲学の大学院ができ、教員として勤めることになりました。本との出会いと同じく、人との出会いにも、大きな力があるのだと思います。
――そうして科学史・科学哲学の道に進まれたのですね。
村上陽一郎氏: 大森先生に出会ったことが運命的でした。科学史・科学哲学という領域は文系的なアプローチだけではなく、理系的な実験も結構できるんです。生物学の実験も、物理もできます。ちょうど文系と理系との半々のところに位置しているものですから、理系から完全に離れる意識のなかった私にとって、どちらも行き来できるのはものすごく魅力的でした。
書き手と編集者の間にあった深い繋がり
――文理を行き来することで見えてくる魅力を本に記されています。
村上陽一郎氏: ガリレオを一緒に読んでいた、物理学の専門家である小野健一先生が『美と豪奢と静謐と悦楽と』(三省堂)という本を出された際の担当編集者に、私を紹介してくださったことがきっかけでした。『日本近代科学の歩み』(三省堂)に繋がるのですが、元となった修士論文は、日本における生物進化論を題材にした、わりと大きな論文でした。大森の貝塚を発掘したと言われているモースが紹介する前の段階の、主として江戸時代の文献などをだいぶ読み込んで、そういうものを全部まとめて書いたものです。それから本をいろいろと書くようになりました。
――翻訳もされています。
村上陽一郎氏: シャルガフの書いた『ヘラクレイトスの火』を翻訳しました。彼の自伝なのですが、その内容たるや、とにかくすさまじい幅広さなんですよ。文学もあり芸術もあり、思想もあり、それから政治もあり、研究者としての生き方もあり。彼は十カ国語以上話せましたし、ハンガリー語やデンマーク語まで勉強しているんです。私はデンマーク語なんて知りませんので、とても苦労しましたが、面白い仕事でした。自分の知らない世界を開いてくれるという点では、翻訳はすごく大事な仕事だと思っています。
それを「お前しかやれない」とおだててくれたのは岩波新書の浦辺さんという方でした。新曜社の堀江洪さんという編集者も印象的でした。新曜社の前は培風館にいらして、自然科学系、社会科学系の担当をしていました。東大の社会学を出た方で、決して難しいことは言わないのですが編集者としては少し怖い人でした。
――怖い、というと。
村上陽一郎氏: 非常に知識も広いく、この人が見ている限り下手なことは書けないな(笑)、というような思いを書き手に抱かせるような人なのです。彼から「村上さん、単行本を書かないか」と言われて出したのが『西欧近代科学』です。堀江さんが、亡くなる前に「どうしても自分の手で復活させてほしい」と言ってくださって『西欧近代科学』と『近代科学と聖俗革命』の二冊を再刊してくださいました。堀江さんに出会ったことは、本を書くという点では、ある意味で決定的でしたよね。彼と出会えたことは、本当に幸いでした。
――どんな存在でしたか。
村上陽一郎氏: 堀江さんに限らず、編集者は私にとって共同作業者です。岩波書店の元社長である大塚信一さんもそういった方でした。1996年に『奇跡を考える』という本を出したのですが、その時にまたも、「お前しか書けない」と……殺し文句の上手な人で、のせられると「なんとかしてそれに応えよう」と思うわけです(笑)。その頃と比べると、編集者との付き合いもずいぶんと様変わりしました。単に「本を書く、原稿を貰う」という関係ではなく、もう少し身近で、時には生活を共にするような時代から見ると、今はなかなか難しいのでしょうか。業界全体の逼迫感のようなものを感じます。
変化した「本」とのつきあい方
――本の世界も大きく変わりましたか。
村上陽一郎氏: 電子書籍の登場などはその最もたるものではないでしょうか。昔は、版権のなくなったものなど、手に入れたくてもなかなか手に入れられない状況でした。今は、あっという間に、直接目にすることができる。夢のような状態ですよ。書く時も、ネットとパソコンが切り離せなくなりました。そういう点から言えば、技術の進歩は本当にありがたいと思っています。
――研究活動にも変化はありましたか。
村上陽一郎氏: 今、国立情報学研究所では、各大学の紀要などを電子化してきています。研究者の間でも、電子化されることの便利さというのは、大きいのではないでしょうか。ただ、便利さが故に、いろいろな問題が生じていることも事実です。コピー&ペーストが、ごく自然になってしまっていること。東大では、学生のレポート執筆の際「ウェブサイトから引用することは禁じない。ただし、引用元やその日時まで詳しく書き込むように」と言っています。一つでもそういうことを怠った論文があると、その学期の試験は0になるよ、と厳しく言っていますね。
デジタル化されたデータを、どう扱っていくかっていうことに関しては、今まさに過渡期にあります。引用をきちんとすること、それから時間もきちんと同定すること。共通認識、ルールをきちんと研究者が作り上げなければいけません。
読者と一緒に喜びたい
村上陽一郎氏: 最近は書店に足を運ぶことは減りましたね。特に古書店。昔は、神田や本郷に入り浸っていて、大体の古書店の店主さんとは顔なじみになっていました。今はAmazonで古書がいくらでも手に入るようになりました。それでもある種の古書に関してはまだ繋がりがあって、月二回ぐらいのぞきますが、それ以外はあまり、本屋さんに行かなくなりました。本だけでなく、もしかしたら歳をとった自分自身の感性も変わってきているのかもしれません。
けれども変わらないものがあります。それは「読者に一緒に喜んでほしい」という想いです。「普通はこう考えるだろうけど、こんな風に考えてみたら、面白いことが見えてくるんじゃないか、どう?」という思いですね。それが、今までやってきた一番大きな動機になっていると思いますし、これからもそんな想いで書き続けていきたいですね。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 村上陽一郎 』