面白さを共有できる喜び
ライター、編集者の古賀史健さん。話し手との臨場感やリズム感が伝わる原稿で、数々の本を世に送り出してきました。岸見一郎先生との共著『嫌われる勇気』(ダイヤモンド社)は、版を重ね日本のみならず海外にも届けられています。書く事で「面白さを共有したい」という古賀さんに、本との関わり、ライターの魅力など、現状と抱える課題まで今の想いを伺ってきました。
“卒論”で伝える喜びを知った小学生
――『嫌われる勇気』が、様々な場所で評価されています。
古賀史健氏: 哲学者・岸見一郎先生との共著であるこの本は、おかげさまで21刷、累計58万部となりました。台湾版と韓国版も好評のようで、アドラーの思想が少しずつ広がっていることを実感します。刊行時に掲げていた理想からするとまだまだ通過点ではありますが、今後自分がどんな本をどうつくっていけばいいのか、大きな指標となった気がしています。
――なにげに手に取った一冊から始まったと聞いています。
古賀史健氏: 1999年の冬、当時20代の〝青年〟だったぼくは、池袋の書店で岸見一郎先生の『アドラー心理学入門』と出逢うことができました。平易なことばで語られる、どこまでも深淵で、世間の常識を根底から覆すような思想。それまでフロイト派やユング派の言説にどこか引っかかりを感じていた自分は、大きな衝撃を受けました。いったいアルフレッド・アドラーとは何者なのか。どうして自分はこれまで彼の存在を知らなかったのか。アドラー関連の書籍を片っ端から買い漁り、夢中になって読み込む中で、ある事実に気がつきました。
ぼくが求めていたのは、単なる「アドラー心理学」ではなく、岸見一郎というひとりの哲学者のフィルターを通して浮かび上がってくる、いわば「岸見アドラー学」だったのだ、と。「いつか岸見先生と一緒にアドラー心理学(岸見アドラー学)の決定版といえるような本をつくりたい」と願うようになり、幾人もの編集者に声をかけながら、その機会を待ちわびていました。そしてようやく京都に住む岸見先生との面会を果たしたのが、2010年の3月。『アドラー心理学入門』を読んでから10年以上が過ぎたときのことでした。このとき、岸見先生が語った「ソクラテスの思想はプラトンによって書き残されました。わたしはアドラーにとってのプラトンになりたいのです」という言葉に、思わず「では、ぼくは岸見先生のプラトンになります」と答えたことが、この本のはじまりになります。
――多くの本との出会いの中で、「書いて伝える」仕事が古賀さんのライフワークとなりました。
古賀史健氏: その節目節目には様々な本との関わりがありました。ぼくと本との関係は、幼稚園に入る前、隣に住んでいたおばちゃんに読み聞かせをしてもらっていたところから始まります。最初は絵本を読んでもらっていたのですが、楽しくてしようがありませんでした。どんどんせがむものですから、ついには読んでもらうものがなくなってしまいました。そこで、次にお願いしたのが自宅の本棚にあった百科事典。「あ行」から終わりまで片っ端から読み上げてもらっていました(笑)。全くリンクしてない情報が、どんどん入ってくる快感は今でも覚えています。小学校に上がる頃には、自ら本屋さんに通うようになっていました。父が仕事の関係で、図書券をよくもらってきており「マンガ以外の本だったら、なんでも買っていい。ただし『こち亀』はOK」というわが家のルールがありました。
――『こち亀』は、優良図書だったのですね(笑)。
古賀史健氏: 『がきデカ』はダメだとか、よくわからない線引きでしたけれど(笑)。それから映画も好きで、よく従兄弟のお兄ちゃんに連れていってもらって、小学生が観ないような少し難しい映画も観ていました。その映画の面白さをクラスメートと共有するには、当時はレンタルビデオもなかったので、テレビで放映されるのを待つしかない。どうにかして、知った楽しみを早く伝えたいという想いが強くなっていきました。
――「知る」楽しみから「伝える」喜びを覚えたのは。
古賀史健氏: 小学校5~6年生の時の担任がすごく変わった先生で、「テーマはなんでもいいから、一年間をかけて、レポート用紙50枚の“卒論”を書きなさい」という課題を出してくれました。みんなは江戸時代の歴史などをテーマにしていましたが、ぼくは映画で感じた感情や面白さをみんなと共有したいと思い、小説を書きました。その時書いたのは「スター・ウォーズ ジェダイの復讐」と「猿の惑星」などを混ぜたようなSFモノだったのでした。朗読しながら、目の前にいるクラスのみんなが、手に汗握りながら聞いてくれている感じが、ひしひしと伝わってきました。僕が笑ってほしいと思うところで笑ってくれましたし、読み終わった後にはスタンディングオベーションです(笑)。
絶対に言い訳ができないもので表現したい
――そこで書く醍醐味を味わったのですね。
古賀史健氏: 「小説を書くのって、すごく楽しいな」というのを実感した強烈な原体験となりました。しかしまだその時は、文章で伝えるという明確な想いはなく、映画が好きな事から監督になりたいと思っていました。けれども脚本の作り方や、監督になる方法もわからなかったので、自分がいつか作るであろう映画のポスターを必死で描いていました(笑)。自分の頭の中にあるストーリーや構成を描きだし、そこにタイトルとキャッチコピーをつけて、ポスターのようなビジュアルにして教室に飾ったりしていました。周りからは「お前、何やってるの?」と言われていましたね(笑)。
――表現方法を模索していたのでしょうか。
古賀史健氏: 当時は、絵コンテの切り方が存在することすら知らなかったので、小説にするかポスターにするしか、アウトプットの手段がありませんでした。大濠高校時代はサッカーに集中しつつも「大学に入ってから、好きな映画をやろう」と決めていました。
――大学では、映像コースへ進まれます。
古賀史健氏: 「映画を作ることができる」という話を聞いて進みました。独学で自主製作の映画を撮っていました。「ぴあフィルムフェスティバル」などのコンテストに出せば、何かいいことが起こるだろうと漠然と考えていましたが、甘かったですね。満足出来るものが、なかなか作れない。監督の立場だと、カメラ担当や役者をやってくれる友達に、色々と指導しなければいけません。頑張ってくれている友達に対する遠慮もありましたし、自分の考えているものを伝えるとか、自分の中で見えている「画」をみんなで共有するための言葉を持ち合わせていませんでした。
――共有できないもどかしさを感じます。
古賀史健氏: アマチュアとはいえ、監督をやっていると「プロの役者を使っていれば」とか、「ちゃんとしたカメラマンを使っていれば」とか、色々な言い訳が出てきます。その言い訳をする自分が嫌で、「絶対に言い訳ができないジャンルって、なんだろう?」と考えたのが、一つの岐路でした。「自分の想いを表現できるのはなんだ、それは文章だ。もうそっちに進むしかない。」という結論に至りました。
視力2.0の眼鏡店員
――そこから、いよいよ「書く」仕事に……。
古賀史健氏: 就かず、眼鏡屋さんに就職しました(笑)。自分の中で漠然とした想いがあって、「“作家”というのは就活してなるものでもないし、卒業したらまずは仕事に就かなきゃいけない。仕事を持ちながら、“作家”になるんだ」と。学生時代は人見知りだったこともあり、とりあえず一年間、接客業をやって人見知りを克服しようと思いました。定時であがることのできる仕事を選んで、夜に小説を書いて応募して、そのうちにと企んでいました(笑)。
――眼鏡屋さんに、白羽の矢が立ったのは(笑)。
古賀史健氏: ぼくは視力が2.0で、それまで眼鏡屋さんにはまったく縁がなかったのですが、「重い物を持たなくていいし、優雅に眼鏡を拭いている」イメージがあったので、まずはそこだと(笑)。入ってみて、すぐに間違いだと気づきました。特にその会社は変わったところで、合宿所にプロレスラーが出入りしていて、新入社員の合宿では朝6時に起きてみんなで砂浜を走るような社風でした(笑)。仕事が終わった後は、日付が変わる深夜まで接客のロールプレイをさせられ、小説を書く時間など全くありませんでした。「九州ブロックの未来を、古賀君に任せた」などと言われるようになりましたが、次に進む事にしました。「いやいや、そんなつもりじゃないんです」と(笑)。
――そこで、ようやく書く仕事に。
古賀史健氏: 小説家になるのならば、ライターとして記事を書くような仕事も、左手ですいすい書けるぐらいじゃないと通用しないだろうと思い、出版社に入りました。けれども、簡単だと思っていたライターの仕事が、実は奥が深いということにそこではじめて気が付きました。深さを知った事で、もっと突き詰めたいという想いが強くなり東京へ。入社して一年もたたないうちにフリーになりました。
孤独の中で培った読書の時間
古賀史健氏: フリーになってしばらくのあいだは、仕事もお金もなく、ただ自由な時間だけがありました。少ないお金で、文庫本を買ったり図書館で本を借りたりして、仕事と食事、睡眠以外は全部、読書に費やしました。その時に読んだ本の“貯金”が、後に仕事をしていく中で大きく膨らんでいきました。
――孤独の時間を、貯金の時間に。
古賀史健氏: そうですね。その時期には、漱石や鴎外からドストエフスキーやトルストイまで、国内外の古典を徹底的に読みました。今でも二十代の若いライターさんには「二年間でもいいから、仕事とご飯以外の時間は、全部、読書に費やした方がいい。そこでためた“貯金”が、三十代以降に絶対にいきてくるから」という話をします。そんな生活をしながら、当時『朝日新聞』の日曜の求人欄によく出ていた出版関係の会社に電話をして、最初にもらった仕事が、ギャラリーバスツアーの案内文でした。そこからは、仕事上の付き合いがあるフリーライターの先輩に相談して、少しずつ仕事が入ってくるようになりました。
“話し言葉”から“書き言葉”へ変換する
――ライターという仕事を「“話し言葉”から“書き言葉”への変換」と表現されています。
古賀史健氏: 一貫して続けているのは「言葉として語られなかったこと」を言葉に変換することです。ぼく自身は、自分のことを才能があるとか、面白い人間だとは思っていません。世の中には、面白い人たちがたくさんいるけれど、残念なことにその人たちは、自分の面白さを伝える言葉を持っていない。その人たちに代わって「この人は、こんなに面白いんだよ」というのを伝える媒体になる。そういう役に、一番魅力を感じているのです。
――古賀さんは相手の魅力をどのように感じ、また引き出していくのでしょうか。
古賀史健氏: まずは自分自身が、どれだけ面白がっているかというのを、きちんと把握しなければいけません。下調べの段階では、「プライベートだったら、絶対に友達にならないな」と思うような人も確かにいます(笑)。でも自分の中に“好き”という気持ちが少しでもないと、会話が成立しないし、いい原稿にもなりません。「人心掌握術がすごい」とか、そういった一点だけでも見つけることができたら、そこを自分の中で膨らませます。その人を好きだという気持ちで会いに行くと、向こうにもそれが瞬時に伝わるから心を開いてくれます。「あなたの大ファンです」といった気持ちを前面に出して、いかに相手に気持ち良くなってもらうか、というのをぼくは考えています。
そうやって相手が心を開いた状態になってくれれば、こちらが鋭い質問をぶつけなくても、相手から話してくれたりもします。また、自分が面白いと思っている情報と、他人が面白いと思うだろう情報のギャップも意識しないといけません。「読者の人は、こういう疑問を持つと思うのですが」という聞き方をするのが全体の7割ぐらいで、「これは個人的に、どうしても聞いてみたかった」というのが残りの3割。専門家は知っていても、読者は知らなかったりする部分も丁寧にすくいあげていきながら、その本や記事にしかない新しい情報というものも、突っ込んでいかないといけません。
録音から拡声へ 届けるための“編集力”
古賀史健氏: 世の中に伝えるために、相手が話した言葉を正確に録音します。しかし、その録音された言葉そのままでは、あまり広がりがありません。もっと伝えるためには「拡声器」が必要です。ぼく自身は「拡声器」の役割を果たしたいと思っています。アンプを通すので、音が歪んだりとか、若干、その人が言っていた言葉から、変わってしまったりする部分もありますが、それはいわば、アコースティックギターとエレキギターの違いのようなものなのです。アコギの音だけだったら、ちょっと伝わらなかったりすることもあるけれど、エレキの音は遠くに届くし、なによりかっこいい(笑)。「日本武道館全員が喜ぶ」というような感じです。
――アンプを持ったロックなライターが求められている、と。
古賀史健氏: 原稿を書くだけのプロというのは、もはや成立しなくなっているのではないかと思っています。例えばSNSなどを見ていても、講演録など記録(録音)されたテキストデータは即日であがってくる時代です。ライターの存在意義は、うまい言葉に変換するだけではなく、その情報をいかに編集して、どういう順番で物事を伝えていくかということではないかと思うのです。情報の出し方など、うまく編集していく能力が必要となります。
特に一冊の本となると、読む方も疲れますので工夫が必要です。例えば1章から5章まであるとしたら、めちゃくちゃ面白い話を1・2章に入れて、4章ぐらいでちょっと専門的な話をして、5章でクライマックスを迎えるというように、ある程度、展開を作らないと読後感も良くありません。おいしい話を最後にとっておいても、序盤でつまらなかったら、その段階で本を閉じてしまう人もいるかもしれません。だから、編集の目線は常に持っておかなければいけません。編集者は私たちの原稿にたくさん赤を入れますが、同じように、自分の原稿にいかに赤を入れられるかも大事です。
――自分の原稿に、赤ですか。
古賀史健氏: ぼくの場合、普段はテキストエディタのソフトで原稿を書いています。ゴシック体で横書きなのですが、書き終わったらそれをWordにペーストして、縦書きに組み替えて、フォントも明朝体に変更します。ルックスを変えるだけでも、ずいぶんと色々なアラが見えてきます。さらにそれを紙に出力してチェックすると、自分ひとりでもかなり赤を入れることができます。
巻物でも本でもできなかった、新しい形
――多くのプロセスを経てようやく本が出来上がります。
古賀史健氏: 多くの手を経て作られた本などは、まさに書き手と編集者の思いの結晶だと思います。それをどのようにして読者に届けるか。いくら良い内容であっても読者との対話が生まれるようなものでなければ届きません。パッと見た時に、読者が「これってどういうこと?」という「?」マークが頭の中にパッと浮かぶようなものです。目次やあとがきを読んで、頭の中の「?」マークが、なるほど!という「!」マークに変わる瞬間を、パッケージで作ることができるようにと考えながら、本を作っています。
――届ける哲学を感じます。
古賀史健氏: ネットやリアルに限らず「書店は、競馬場のパドックだ」というのが、ぼくの持論です。握りしめた手持ちの1000円を払って、それに見合う読書体験が得られるかどうかというのを、本に賭ける。村上春樹さんの新作などは鉄板ですが、時々、千円で買って、十万円とか二十万円の万馬券になって返ってくるような本もあります。最初に目に入るタイトルと装丁の情報から、いかに見つけるかというのが、パドックで馬を見ているのと同じような感覚なのです。
――馬券のように、本も手元で買える時代になりました。
古賀史健氏: アナログからデジタルに。入手方法もデバイスも常に変化し続けています。しかし、本質的な内容や重要性は変わりません。巻物という形から本になった時に、「読みにくい」と言う人や、活版印刷が出てきた時には「手書きじゃないと、本の味がない」と言う人はたくさんいたはずです。今、「紙ならではの手触り」とか、「インクのにおいが」と言っているのもそれと同じですよね。デバイスが変わったところで、中身が変わるわけではありません。
ただ気になるのは、本の出版文化が育んできた、職人的な部分との折り合いをどうつけていくのか、ということです。デザイナーとの会話でよく話題にされるのは「意図した文字組が、反映されづらい」ということ。電子書籍では、拡大したり行間を変えたりと、自由にカスタマイズできますよね。伝統と新技術がうまく融合した先に、あらたな書物の可能性があるのだと思います。
たとえば、村上春樹さんの『1Q84』の冒頭に、女の人が歩いていて、車からマイケル・ジャクソンの「ビリー・ジーン」が流れるシーンがあります。電子書籍ならば、実際に「ビリー・ジーン」の音楽が流れ出す、というような仕掛けも組み込めます。そういう風に、今まで無かったものが加わる事によって、読書体験がもっと広がっていく可能性があると思います。小説家やクリエイターは、面白い表現を追及していくのが好きな人たちだと思うので、この電子化の流れは、積極的に進めていけば、きっとぼくらがまだ考えてもいないような、あらたな本の形が、出来上がっていくのではないでしょうか。
あらたな世界で「書ける」ライターを育てたい
――表現の幅も広がり、明るい書籍の未来が見えてきました。
古賀史健氏: あとは、どれだけコンテンツの作り手がいるか、ということです。書籍の執筆依頼を受けたとき、どうしてもスケジュールが埋まっていてお断りしなくてはならない場合があります。すると編集の方が「誰かいいライター、いませんか?」とさらに聞いてきてくれます。その時「この人だったら、絶対大丈夫ですよ」と言える人が、依頼の数より少ないのです。これは明るい書籍の未来に対して、対照的な悲しい状況だと思います。ライター業界には、「これをやっちゃ駄目」という禁止のルールが多く、「ここを伸ばしたら、もっと面白くなる」というような加点主義的な評価と育成をしてこなかったのが、一つの原因ではないかと思うのです。
――『20歳の自分に受けさせたい文章講義』(星海社新書)には、古賀さんのノウハウと哲学が詰まっています。
古賀史健氏: この本の中で、現役のライターであるぼくは現場で15年かけて蓄積したノウハウを余すところなく伝えるという“文章の授業”に挑戦しました。「結局、センスや才能の問題だ」と、考えられているライティングですが、技術的に教えられることは、山ほどあります。おかげさまで、多くの人々に読んで頂き、賞をいただくきっかけにもなりましたが、それだけこうした文章に対する関心の高さがうかがえます。これからは、この紙面で展開した文章講義をマンツーマンで教える制度を作っていきたいと思っています。単に講座を開くだけでなく、ひとつの組織として、しっかり教えていきたいですね。そうやって教えることによって、自分よりも面白いライターさんがもっとたくさん出てきて、業界全体が活性化していくことを願っています。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 古賀史健 』