概念化できないものを文章にする
――先ほど、「まとめることが重要」とおっしゃっていましたが、どのような思いで本を書かれているのでしょうか。
内山節氏: 20代の終わり頃、僕の本としては2冊目となる『山里の釣りから』という本を出しましたが、これは意図しなかった本という感じなのです。釣りをやっていたので上野村にも行っていたし、編集者ともよく釣りの話をしていました。そんなある時、「雑誌で、原稿にしないか」という話が出て、つい引き受けることになったんです。それまで僕は、約束事が多い論文スタイルの本だけを書いていました。概念の明確化というのが第一の約束なのですが、そうするとこぼれてしまうものも出てきます。それを拾い上げるのは、論文ではやりにくいけれど、『山里の釣りから』はエッセイの形式をとっているので、普通だとこぼれてしまうようなものを軸にして書いていくということができる。能力があれば絵で表現したっていいし、音楽でもいい。それから自分の生き方そのもので表現してもいいですね。「表現って、自由なんだな」ということに気が付いて、しばらくこれをやろうかなと思うようになりました。
――自由な形で表現するための手段の1つになったのですね。
内山節氏: そうですね。例えば、現在、どういう風に新しい貧困層が発生しているかという原稿だと、それは論文できちんと書いた方が、読者もわかりやすいと思います。でも、「今日の日本人は、幸せなのか」という文章だと、論文形式では難しい。例えば、若いうちに結婚相手が見つかった人がいたとします。それは幸せの絶頂かもしれませんが、1年後には不幸になっているかもしれません。そこから振り返ると、1年前の幸せが不幸の始まりにように見えるかもしれません。ですが、50年間、一緒に仲良くやってきた人だと、その結婚式の時の幸せ感を繰り返し思い出すかもしれません。お金があるから幸せということではないし、貧乏ならば幸せということでもありません。幸せの概念化はできないから、幸せとはなんですかと言われた時に、明確に答えることができないわけです。有名なアランの『幸福論』などいくつもの幸福論はありますが、こういうテーマを扱おうすると論文形式には合いません。
ユーザー・読者に押し付けないことが大事
――本を作る時に、工夫されていることなどはありますか。
内山節氏: 発表した段階で僕の手からは離れると思うので、それをどう読むかは自由だと思っています。音楽も同じですね。今は、電機業界などは厳しいのではないかと思うのですが、その1つの理由は、自分たちの作ったものをユーザーに押し付けてしまった、ということ。「ユーザー目線で」という言葉がよく使われますが、僕には違和感があります。例えばスマホも、こういうこともできます、ああいうこともできますと、作り手側が押しつけてきたから、その結果として、全機能を使っている人がいないのではないでしょうか。ただ、今はスマホしかないから、スマホを使っているだけ。でも電球とか、昔からの延長線上にあるものは、押し付けがないでしょう?だからそれぞれ、好きな電球を買ってくればいいわけです。作り手の意図をユーザーにも納得させようというのは、マーケティングの手法だったのでしょうが、キャッチコピーというか、「これが文化的な生活」というような押し付けのように感じます。だから、短期間でつぶれてしまったところもありますよね。作り手は、「私たちは、作りたいものを作っています」ということに徹するべきなのです。「ほしいです」という人もいれば、「けっこうです」という人もいると思いますが、それでいいのです。
――それを求めている人間に届けばいい、という感じなのですね。
内山節氏: そうです。本の中には、1000部出せばペイする本もあれば、100万部売れる本もある。出版社側からすれば100万部の方がありがたいでしょうが、本の価値は売り上げ部数に比例するわけではありませんし、その逆の可能性もあります。美術書などに関しては、作りたいものを1000部作って、それを欲しいと思う人が受け取る。ただし、それなりの価格となりますよということで、いいのです。僕自身は、印刷物はプリントアウトしていないと頭に入らないのですが、別に電子ブックがあってもいいと思っています。6000円とか8000円になってしまうと、読みたいと思っても読めないかもしれない。それが500円とか1000円でネット上で読めて、それを読んだ人から紙でも出していただきたいといった要望がくれば、5000部、作りましょうという話になるかもしれません。紙と電子書籍は対立するわけではなくて、補い合えばいいのだから、あとはどういう形で共存するかという問題だけだと思います。ネット検索ができるようになる前は、仕事場には色々な種類の辞典がありましたが、場所をとるし、重いし、何年か経ったら買い換えるのも大変。僕の場合はネット検索もしますが、今でも紙の辞典を使ったりもします。パソコンがみんなの手に渡り始めた時には、紙が使われなくなると言われました。ところが実際は、プリントアウトの山。校正などでも、一度プリントアウトしてチェックすることが必要だったりします。だから紙と電子は、良い悪いは別として、すでに共存しているのです。
――内山先生の本も電子書籍になっていますね。
内山節氏: そうですね。でもぼくの読者は、ほとんどの方が紙を好む人のようです。電子書籍の場合だと、例えばロンドンにいても、日本の特殊な本まで瞬時に購入することができるわけです。だから新聞や雑誌の方がとりあえずはメリットがあるのかなと思います。ただ、アメリカの新聞や雑誌とは違って、日本の場合はオンラインがサブという感じになるんじゃないかなという気はするんです。
僕は結構新しいものが好きなので、インターネットが使いやすくなった頃に使うようになりました。でも、検索に膨大な時間を使ってしまい、結局、自分の仕事ができないという事態に陥ったことがあり、不要な検索はしないように努力しています。今は、自分が関心を持っている研究領域の単語を、2つ3つ入れて検索すると海外の論文まで出てきます。でもその量があまりにも多すぎて、結果としては読めないという問題も起きています。そういう情報の海のようなものもあってもいいとは思いますが、それだけでは機能しません。その使い方も、皆さんで今作っているのだろうなと思います。
――そういったインターネットとの付き合い方においても、途上という感じなのですね。
内山節氏: そうですね。車と自転車の関係でいえば、今はまた自転車が復活してきました。つまり車と自転車の関係はずっと途上なんです。主に車を使うか、自転車を使うか、あるいはそれを共存させるかは、その人のライフスタイルにもよりますが、自転車が消えるような時代はこないでしょう。CDが出てもレコードは生き残りましたし、電子的なアンプ一色になるのかと思ったら、先進国などでは真空管アンプが復活しました。名器と言われた300Bという真空管があるのですが、左右に2本ずつほしいと思えば、国産の真空管は1本10万円だから40万円。周辺部分もかなりいいものを使わないといけないので、パワーアンプだけで100万円。だから、手が出る人だけが買うという感じですが、本もそういう形で共存してもいいわけです。本も愛蔵版というものでなければ、電子で安く読むのもありになると思います。通常の本も残ると思うし、オンデマンド的なものも、電子書籍もそれなりにいくだろうと思います。それがこういった使い分けの中でどう展開していくのかは、使う人たちが作っていくものなのだと僕は思います。儲かるために、確定であるかのような情報を出してくる人もいますが、そういったものに惑わされずに、全てはまだ決まったわけではないと思っておいた方がいいと思います。
発信者という位置づけではない
――書き手として、どのようなことを伝えていきたいと思われていますか。
内山節氏: 実は、僕自身には発信者という位置付けがなく、自分の書きたいことを書いているだけなのです。この課題が、どういう風に自分には見えるのかを知りたい。だから知りたくないものは、書きません。同じようなものを感じている人たちとの共有といった部分はあるかもしれませんが、僕自身は何かを発信しようとかいう気はありません。逆に何かを発信しようとか、読者にうけるものをと考えて書いても失敗したりします。でも、そういったことを考えて書くのもいい分野もあると思います。例えば冠婚葬祭の時のマナーなど、ハウツー的なものに関しては、読者が何を知りたがっているのかをきちんと調べて、それに対して答えを出していくのが、一番有効です。今の政治状況の中で、何かを訴えたいといった内容のものなども、もちろんあると思いますが、僕の場合には、訴えたいという気持ちで書いているのではありません。例えば原発の問題。昔から僕は原発に対しては批判的だったし、今でもそれは変わりません。でもそれを書いて世論を喚起しようとは、全く思っていません。原発について自分が書くとすればこれしかない、ということを書いているだけなのです。
――著作集と、同時発売で先生の本が出ますが、これが完結するのは予定としてはいつ頃なのでしょうか。
内山節氏: 来年の12月です。色々と約束しているものもあるので、順次こなしていかなければいけませんが、僕としては、その時にやりたいことやるというスタイルは変わらないと思います。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 内山節 』