表現は自由。
東京大学大学院人文社会系研究所兼任講師などを歴任し、1970年代から、東京と群馬県上野村を往復して活動を続けていらっしゃる哲学者の内山節さん。「森とともに暮らす社会」の創出をめざすNPO法人「森づくりフォーラム」の代表理事を務める傍ら、地域づくりの情報誌『かがり火』の編集長、そして「東北農家の会」「九州農家の会」などで講師としても活躍。2010年より、立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科教授を務められています。『労働過程論ノート』を機に、哲学・評論界へ。趣味である釣りを通して労働のあり方を語った『山里の釣りから』の他、『自然と人間の哲学』『時間についての十二章』『「里」という思想』など多くの著書を出版されました。上野村で畑や山の作業を行い、森と人間との関わりを中心に独自の哲学論を展開している内山先生に、哲学の道へと進まれたきっかけ、本作りにおいて大切なことなどをお聞きしました。
様々な経歴を持つ学生たちと、共に学んでいく
――「21世紀社会デザイン研究科」ではどのようなことをされているのでしょうか。
内山節氏: 社会デザインをしていく時の基盤にある思想などが、担当分野という感じでしょうか。大学を出て、そのまま大学院にくる方も若干いますが、8割ぐらいは社会人です。年齢はバラバラで、2~3年働いている方もいらっしゃいますし、僕の先輩にあたるような人もいます。学生さん同士の付き合いが、とても勉強になる環境だと思います。自分のお父さんぐらいの世代の人もいるわけですが、ここだと学生同士ですから、教え合ったりすることもできます。逆に年齢が上の人も、20代と同じレベルで話をするという機会はなかなかないですよね。学生同士、とても仲がいいし、そこで勉強することも多いと思います。
――その中での先生の立ち位置とは。
内山節氏: ここは大学院なので、一番大事なことは修士論文や博士論文を書くこと。ただ、論文を書いていくための基礎学習といったものも、多少は必要になるので、色々な形でカリキュラムを展開しています。社会デザインというのは、何をやっても社会デザインと言えなくもない。非常に狭く見れば、行政的な地域デザインといったものになるかもしれませんが、広くとれば、経済の形や音楽活動も社会デザインに影響していきますし、場合によっては、家族のあり方も社会デザインに関係します。あらゆる分野が入っているという言い方もできるので、学生さんたちの論文の問題意識も範囲がものすごく広くて、この研究科には何から何まであるという感じがします。
この間、博士号をとった学生さんがいるのですが、彼は社会人の経験も長いし、語学力もあるので、アメリカやイギリスのエシカルビジネス的な動きを調査しながら、関連論文も向こうの論文を使って書いていました。そういう個別領域になると、学生の方が専門家というケースもよくあります。だから授業中も、ディスカッションしながら、学生さんに教えてもらうこともあります。学生と一緒に楽しんでいるような感じですね。
物理学と哲学の共通項
――哲学という分野には、昔から興味があったのでしょうか。
内山節氏: もともとは、理科系に行こうと思っていたのです。僕は昭和25年の生まれで、湯川秀樹さんがノーベル賞をとった影響を受けた人が、多い世代でもあるのです。これからは科学や技術の時代だという雰囲気もありました。だから小・中学校の頃は、化学系もあれば電気もあるというように、広い意味で理科系のもので遊んでいました。親に頼んだり、自分で買ってきたりもしたので、自分のところにも、科学系の実験道具や、電気の組み立てができるようなものや顕微鏡も天体望遠鏡もあるという科学少年でした。学校の授業でも、僕は圧倒的に数学が得意だったのもあって、理系かなと決め込んでいました。だからある程度、研究していこうとすると、大学・大学院に行くといった感じになるのだろうなという気持ちはあったと思います。
――科学と哲学というと、ずいぶん違う分野に思えるのですが。
内山節氏: 湯川さんが賞をとった時は、理論物理という言われ方をしましたが、そういう分野と哲学というのは、それほど離れていないのです。当時はまだ実験設備がなく、原子核の構造素粒子的世界を調べることができなかったので、出てきた現象を基にして推理していくというものでした。そのやり方は、哲学とかなり似ているので、昔は、物理学をやりながら哲学をやろうという人もたくさんいました。理系の一部の分野においては、哲学とも非常に近いものがありました。だから中学の時から、あまり理解はできませんでしたが、哲学や思想系の本も読んでいましたよ。高校に入った頃から、より真面目に読むようになり、哲学が面白いというのがわかり始めたのです。
――やっぱり哲学だ、と思われたきっかけとは。
内山節氏: 高校に入った頃には、非常にいい実験機ができ始めました。サイクロトロンと呼ばれる加速器ができて、素粒子の動きをとらえることができるようになったり、原子核の内部の素粒子に何があるかというのが、実験的に証明できるようになったわけです。それで、どれだけいい加速器を持っているかというのが、研究成果を決めるようになってしまいました。サイクロトロンはすごくお金がかかります。当時はそれぞれの国で始めたわけですが、今またやろうと言っている超大型機に関しては、世界共同でやろうかというぐらい、一国では持ちきれないようなもの。まだ1965年頃ですから、アメリカと比べれば差がありましたが、日本でもそれが動きだしました。その頃から、物理学自体が実験器具に左右されるようになりました。そうすると途上国の人は、先進国に留学して、そこに混ぜてもらうしかないわけです。科学というのは平等に開かれていなければいけなかったのが、だんだんと変わってきました。だからなんとなく、面白みがなくなってきたというか、そういう気持ちと、哲学が面白くなってきたという気持ちが合わさって、方針転換しようかなと考えたのです。
哲学に実験設備はいらない
――物理学に対する違和感もあったのですね。
内山節氏: 物理学だと大学院までいこうかなと思っていましたが、哲学の場合は実験設備はいりません。アリストテレスなどは2000年も前の哲学だけど、アリストテレス自身は現代進行形の、現代哲学としてやっていたわけです。だから僕らも哲学をやるのならば、やっぱり現代哲学でなければいけません。過去から学ぶものはたくさんあるけれど、過去を学ぶこと自体が目的ではありません。現代的な問題意識があるから、アリストテレスを読むのであって、アリストテレスの文法を研究するわけではありません。アリストテレスの研究が専門ですとか、カントが専門ですという人たちも、現代的問題意識を持ってやっているので、そういう研究もあっていいと僕は思っています。ただ僕は、現在、課題とされているものをもっとストレートに見ていきたい。だから色々な書籍を読むこと、そして、現代がどんな風に動いているのかということを自分の目で見ることが重要となります。そしてもう1つは、ディスカッションしていくということ。そう考えると、僕の場合は研究室に入らなくてもいいかなと思ったのです。インフォーマルのものもありましたが、研究の議論をしたりするようなグループもたくさんあったし、先生たちも参加するような、もう少し開かれた研究の場もありました。経済哲学を学ぶために、僕に経済を教えてくれる先生もいました。だから、完全に独学という感じではないのです。
――哲学の道へ方向転換したことは、大きな節目だった。
内山節氏: あの頃は全共闘運動があったし、大学を中退する人もたくさんいたので、今よりはハードルが低かったかもしれませんね。僕の場合も、2、3年後に軌道修正しても構わないとも思っていたので、一大決心をしたという感じではありませんでした。僕の場合、就職しようという考えはなかったし、極端なことをいえば、10年後に大学で勉強しようとなってもよかったのです。
――反対などはされなかったのですか。
内山節氏: そういったことも割と自由に決めることができたのは、僕の父が映画のプロデューサーだったせいもあるかもしれません。東宝争議というのがあり、父はそれからプロデューサーとして独立して仕事をしてみたり、色々な形で仕事をしていました。映画を1本作るのに、1年ぐらいああでもないこうでもないと話し合ったり、スタッフを決めて、お金を集めてという感じで、昔は撮影に何カ月もかかっていましたし、計画性のある仕事をしているようには当時は思えませんでした。家にたまに来る人も、映画監督や小説家、シナリオライター、音楽の作曲家、それにカメラマンなどで、真面目なサラリーマンとは少し違った感じの人が多かったです。よく言えば自由な人たちが多く、父も僕の進学に関しては、どうぞお好きにという感じでした。
――ご自身の判断に、迷いはなかったのでしょうか。
内山節氏: この大学に行って、この会社に勤めてということを計算すると、そのための最適なコースを歩むことになります。でもそういう目的が存在しない場合は、自分で「いい」と思ったことをやってくしかない。その「いい」と思った自分の勘を徹底的に信じるしかありません。でも、それでいいのではないかと僕は思っているのです。50代の中盤ぐらいになると、小学校の同窓会をやりたがる人もいて、僕も1、2回くらい顔を出したことがありました。会社を辞めた人や、自分で会社やお店を始めている人とか、仲間と数人で会社を作った人たちも結構います。20代ぐらいに、通常のコースを歩んでいる人から見ると、大丈夫なのかと思うような道を選ぶ人もいましたが、それでも全員、生活ができています。農業を始めた人で、サラリーマン時代の収入には追いつかないけれど、飢え死にすることはないし、きちんと子どもを大学ぐらいまで行かせている方もいます。そういう人は海外旅行をしますが、行きたいのは、ニューヨークでもパリでもなくバングラデシュの農村。バックパッカーのような感じで、お金も使いません。また、旅行に費やす時間も長くとれたりするので、より自由な旅行ができるわけです。自分の好きな道に進んだ人は、その方向でできる範囲の生活でいいわけです。だから、案外、世の中は平等なのだなと感じました。
「この本だけは、出したい」という編集者、そしてそれを読む読者がいた
――ご自身の目で見たものを、本という形にまとめて出されたのは、20代の頃ですね。
内山節氏: 自分の考えを少しまとめておこうかなという気持ちがあり、26歳の時に出すことになりました。でも僕にとっては、出版することよりも、まとめておくことの方が重要だったのです。22、3歳ぐらいになると、周りの人は「普通だと大学を出て就職している歳なのに、あいつ、どうするんだろう。就職先を世話しちゃおうか」などと僕のことを心配するようになったそうです。それで研究会の仲間や先輩が、勝手に雑誌の編集部と話をつけてきて、編集部の方から僕に依頼がきたのです。「なんで突然、僕のところに依頼がくるんだろう」と思いましたよ。当時は、専門誌でも「無名だけど、面白いことやっている奴はいないか」と探しているようなところもありましたので、僕が書いたものを、またどこかの出版関係の人が読んで「ぜひうちでも、出してくれ」という依頼があったりもしました。そういう感じで1~2本書いたら、「これをきちんと書いて、本にする気がありますか?」と単行本の編集者が来たりして、基本的にこっちからお願いすることはありませんでした。
――本を出すことになった頃と今とでは、出版社や編集者の考え方は違うのでしょうか。
内山節氏: 今だと、企画が採算ラインに乗るかどうかというのが、一番重要な検討課題という感じもあるのかもしれません。でも「これは、出したい」というものについては、採算ラインに乗るかどうかはどうでもいいという編集者も、当時は結構いたように思います。会社が倒産しないように、それなりに売れるものも出してバランスをとる必要はありますが、こういうものも出したいとか、こういう傾向のものを出しながら社会を変えていきたいとか、そういったところが多かったです。そして、どうしても出したいということで出す本でも、少なくとも大幅な赤字は出さないという、そういった経営が成り立つだけの読者が当時はいたのです。著者と同じような気持ちを持って、本を読んでくれる人たちがいたというのも大きかったと思います。編集者・出版社、そして読者という全部が、少しずつ変わっていったのです。
信頼により、成り立つ関係
――編集者とは、どういったやり取りをされているのでしょうか。
内山節氏: 僕の場合は、色々な提案をされ過ぎても困ることがあります。例えばビジネス書だったら、編集者からの「こういうことも入れてください」という意見も、場合によっては有り得ますが、哲学や思想は、そういったことが簡単にできる分野ではありません。最初の頃は、原稿ができた段階で、編集者の目から見てわかりにくいところなど、そういうことを教えてもらうこともありました。でも、ある程度、本の数も増えてくると、そういうこともなくなり、「どうぞご自由に」とか「やりたいことをやりませんか」というような依頼のされ方が多くなりました。雑誌の特集の中に1本、載せる形になれば、当然その特集のテーマから外れてしまうわけにはいかないので、大きなテーマの中で、こういうメンバーでやりますということは言われますが、それでも中身に注文を出されることはあまりありません。編集者の方はどうかわかりませんが、僕は編集者を信頼しています。でもヒントになる場合もあるので、何か提案したいこととか、気が付いたことがあれば言ってもらいたいと思います。それを採用できるかどうかはわかりませんが、信頼関係があるから、本当に気持ちよく仕事ができます。
――信頼関係で成り立っているのですね。
内山節氏: 雑誌や新聞だと締め切りは明確になりますが、単行本は、締め切りも場合によっては、あやふやになるケースがあります。編集者も企画書を作って了解をとっているわけですが、それと違うものが出てきたとしても、特にものの考え方に属するものだったら、規格通りである必要性もないというか、問題にはならないこともあります。AKBの本を書くといっておいて、出てきたのがプロレスの本だったというような極端なケースじゃなければいい。アメリカなどの出版社だったら考えられないかもしれませんが、日本の場合、契約書は基本的に最初に取り交わしません。初めて仕事を一緒にする時以外は、大体わかっているというような感じがあって、社会通念と違うような形で印税を支払うとか、今回はこれだけに下げますとか、そういった場合以外は、印税の話もあまりしません。契約書を作ってしまうと入稿の日付が入りますが、場合によっては、もう少し時間をおいた方が良くなるという可能性もあるわけです。大抵の場合、再稿が出るぐらいの時に、最終的に契約書を交わします。原稿料も振り込まれてから、初めてわかることも多いのですが、信頼関係があるからこそ、対立したり破綻することがないのかなと、僕は思っています。
概念化できないものを文章にする
――先ほど、「まとめることが重要」とおっしゃっていましたが、どのような思いで本を書かれているのでしょうか。
内山節氏: 20代の終わり頃、僕の本としては2冊目となる『山里の釣りから』という本を出しましたが、これは意図しなかった本という感じなのです。釣りをやっていたので上野村にも行っていたし、編集者ともよく釣りの話をしていました。そんなある時、「雑誌で、原稿にしないか」という話が出て、つい引き受けることになったんです。それまで僕は、約束事が多い論文スタイルの本だけを書いていました。概念の明確化というのが第一の約束なのですが、そうするとこぼれてしまうものも出てきます。それを拾い上げるのは、論文ではやりにくいけれど、『山里の釣りから』はエッセイの形式をとっているので、普通だとこぼれてしまうようなものを軸にして書いていくということができる。能力があれば絵で表現したっていいし、音楽でもいい。それから自分の生き方そのもので表現してもいいですね。「表現って、自由なんだな」ということに気が付いて、しばらくこれをやろうかなと思うようになりました。
――自由な形で表現するための手段の1つになったのですね。
内山節氏: そうですね。例えば、現在、どういう風に新しい貧困層が発生しているかという原稿だと、それは論文できちんと書いた方が、読者もわかりやすいと思います。でも、「今日の日本人は、幸せなのか」という文章だと、論文形式では難しい。例えば、若いうちに結婚相手が見つかった人がいたとします。それは幸せの絶頂かもしれませんが、1年後には不幸になっているかもしれません。そこから振り返ると、1年前の幸せが不幸の始まりにように見えるかもしれません。ですが、50年間、一緒に仲良くやってきた人だと、その結婚式の時の幸せ感を繰り返し思い出すかもしれません。お金があるから幸せということではないし、貧乏ならば幸せということでもありません。幸せの概念化はできないから、幸せとはなんですかと言われた時に、明確に答えることができないわけです。有名なアランの『幸福論』などいくつもの幸福論はありますが、こういうテーマを扱おうすると論文形式には合いません。
ユーザー・読者に押し付けないことが大事
――本を作る時に、工夫されていることなどはありますか。
内山節氏: 発表した段階で僕の手からは離れると思うので、それをどう読むかは自由だと思っています。音楽も同じですね。今は、電機業界などは厳しいのではないかと思うのですが、その1つの理由は、自分たちの作ったものをユーザーに押し付けてしまった、ということ。「ユーザー目線で」という言葉がよく使われますが、僕には違和感があります。例えばスマホも、こういうこともできます、ああいうこともできますと、作り手側が押しつけてきたから、その結果として、全機能を使っている人がいないのではないでしょうか。ただ、今はスマホしかないから、スマホを使っているだけ。でも電球とか、昔からの延長線上にあるものは、押し付けがないでしょう?だからそれぞれ、好きな電球を買ってくればいいわけです。作り手の意図をユーザーにも納得させようというのは、マーケティングの手法だったのでしょうが、キャッチコピーというか、「これが文化的な生活」というような押し付けのように感じます。だから、短期間でつぶれてしまったところもありますよね。作り手は、「私たちは、作りたいものを作っています」ということに徹するべきなのです。「ほしいです」という人もいれば、「けっこうです」という人もいると思いますが、それでいいのです。
――それを求めている人間に届けばいい、という感じなのですね。
内山節氏: そうです。本の中には、1000部出せばペイする本もあれば、100万部売れる本もある。出版社側からすれば100万部の方がありがたいでしょうが、本の価値は売り上げ部数に比例するわけではありませんし、その逆の可能性もあります。美術書などに関しては、作りたいものを1000部作って、それを欲しいと思う人が受け取る。ただし、それなりの価格となりますよということで、いいのです。僕自身は、印刷物はプリントアウトしていないと頭に入らないのですが、別に電子ブックがあってもいいと思っています。6000円とか8000円になってしまうと、読みたいと思っても読めないかもしれない。それが500円とか1000円でネット上で読めて、それを読んだ人から紙でも出していただきたいといった要望がくれば、5000部、作りましょうという話になるかもしれません。紙と電子書籍は対立するわけではなくて、補い合えばいいのだから、あとはどういう形で共存するかという問題だけだと思います。ネット検索ができるようになる前は、仕事場には色々な種類の辞典がありましたが、場所をとるし、重いし、何年か経ったら買い換えるのも大変。僕の場合はネット検索もしますが、今でも紙の辞典を使ったりもします。パソコンがみんなの手に渡り始めた時には、紙が使われなくなると言われました。ところが実際は、プリントアウトの山。校正などでも、一度プリントアウトしてチェックすることが必要だったりします。だから紙と電子は、良い悪いは別として、すでに共存しているのです。
――内山先生の本も電子書籍になっていますね。
内山節氏: そうですね。でもぼくの読者は、ほとんどの方が紙を好む人のようです。電子書籍の場合だと、例えばロンドンにいても、日本の特殊な本まで瞬時に購入することができるわけです。だから新聞や雑誌の方がとりあえずはメリットがあるのかなと思います。ただ、アメリカの新聞や雑誌とは違って、日本の場合はオンラインがサブという感じになるんじゃないかなという気はするんです。
僕は結構新しいものが好きなので、インターネットが使いやすくなった頃に使うようになりました。でも、検索に膨大な時間を使ってしまい、結局、自分の仕事ができないという事態に陥ったことがあり、不要な検索はしないように努力しています。今は、自分が関心を持っている研究領域の単語を、2つ3つ入れて検索すると海外の論文まで出てきます。でもその量があまりにも多すぎて、結果としては読めないという問題も起きています。そういう情報の海のようなものもあってもいいとは思いますが、それだけでは機能しません。その使い方も、皆さんで今作っているのだろうなと思います。
――そういったインターネットとの付き合い方においても、途上という感じなのですね。
内山節氏: そうですね。車と自転車の関係でいえば、今はまた自転車が復活してきました。つまり車と自転車の関係はずっと途上なんです。主に車を使うか、自転車を使うか、あるいはそれを共存させるかは、その人のライフスタイルにもよりますが、自転車が消えるような時代はこないでしょう。CDが出てもレコードは生き残りましたし、電子的なアンプ一色になるのかと思ったら、先進国などでは真空管アンプが復活しました。名器と言われた300Bという真空管があるのですが、左右に2本ずつほしいと思えば、国産の真空管は1本10万円だから40万円。周辺部分もかなりいいものを使わないといけないので、パワーアンプだけで100万円。だから、手が出る人だけが買うという感じですが、本もそういう形で共存してもいいわけです。本も愛蔵版というものでなければ、電子で安く読むのもありになると思います。通常の本も残ると思うし、オンデマンド的なものも、電子書籍もそれなりにいくだろうと思います。それがこういった使い分けの中でどう展開していくのかは、使う人たちが作っていくものなのだと僕は思います。儲かるために、確定であるかのような情報を出してくる人もいますが、そういったものに惑わされずに、全てはまだ決まったわけではないと思っておいた方がいいと思います。
発信者という位置づけではない
――書き手として、どのようなことを伝えていきたいと思われていますか。
内山節氏: 実は、僕自身には発信者という位置付けがなく、自分の書きたいことを書いているだけなのです。この課題が、どういう風に自分には見えるのかを知りたい。だから知りたくないものは、書きません。同じようなものを感じている人たちとの共有といった部分はあるかもしれませんが、僕自身は何かを発信しようとかいう気はありません。逆に何かを発信しようとか、読者にうけるものをと考えて書いても失敗したりします。でも、そういったことを考えて書くのもいい分野もあると思います。例えば冠婚葬祭の時のマナーなど、ハウツー的なものに関しては、読者が何を知りたがっているのかをきちんと調べて、それに対して答えを出していくのが、一番有効です。今の政治状況の中で、何かを訴えたいといった内容のものなども、もちろんあると思いますが、僕の場合には、訴えたいという気持ちで書いているのではありません。例えば原発の問題。昔から僕は原発に対しては批判的だったし、今でもそれは変わりません。でもそれを書いて世論を喚起しようとは、全く思っていません。原発について自分が書くとすればこれしかない、ということを書いているだけなのです。
――著作集と、同時発売で先生の本が出ますが、これが完結するのは予定としてはいつ頃なのでしょうか。
内山節氏: 来年の12月です。色々と約束しているものもあるので、順次こなしていかなければいけませんが、僕としては、その時にやりたいことやるというスタイルは変わらないと思います。
(聞き手:沖中幸太郎)
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