湯之上隆

Profile

1961年、静岡県生まれ。京都大学大学院工学研究科修士課程原子核工学専攻を卒業。 16年間に渡り、日立製作所・中央研究所、半導体事業部、デバイス開発センター、エルピーダメモリ(出向)、半導体先端テクノロジーズ(出向)にて、半導体の微細加工技術開発に従事。2000年に京都大学より工学博士授与。 現在は微細加工研究所所長としてコンサルタント、調査・研究に従事。 著書に『日本型モノづくりの敗北 零戦・半導体・テレビ』(文藝春秋)、『「電機・半導体」大崩壊の教訓』(日本文芸社)、『日本「半導体」敗戦』(光文社)がある。

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「発見」を伝えたい



コンサルタント、執筆活動や講演会をおこなう微細加工研究所所長の湯之上隆さん。まさかの、ゴキブリの話から始まる湯之上さんのエピソードの数々を伺ってきました。

始まりはゴキブリの研究から


――(本棚を見て)色々なジャンルの本がありますね。


湯之上隆氏: 昔は昆虫少年で、昆虫図鑑を親に買ってもらい、そこに載っている昆虫を全て飼ってみたいと思っていました。ゴキブリは人に嫌われていますが、面白いですよ。ゴキブリは恐竜時代から存在していて、人間よりも歴史が古い。その上、羽根があるから空を飛べる。そして、非常に体が薄いので、とても狭い隙間も入っていけますし、水の上も歩けます。雑食性でなんでも食べるので、生命力も強いのです。それで、小学校6年生の時に、夏休みの宿題の自由研究で、ゴキブリの研究をやってみたのです。

――ゴキブリ、ですか(笑)。


湯之上隆氏: 今思ってもインパクトのある実験でしたよ(笑)。ゴキブリは雑食性でなんでも食べるとは言っても、好き嫌いがあるだろうと仮説を立て、まず母数になるゴキブリを200匹集めました。牛乳瓶をたくさん用意して、中に餌を入れ、牛乳瓶の口にバターを塗っておきます。自分の家だけではなくて、近所にもお願いして仕掛けさせてもらいました。そうすると、夜中に餌にひかれたゴキブリが寄ってきて、牛乳瓶の中に落ちるのです。上がろうとしてもバターでツルツルすべる。一晩で、大体2、3匹集まります。そうして200匹集めました。そのゴキブリを、色々な食べ物を置いたお皿を並べた段ボールに入れて、ゴキブリが何を好きかという大実験をしましたね(笑)。

――結果は……。


湯之上隆氏: 季節は夏だったのですが、果物に1番たくさん集まりました。甘い汁気の多い、例えばブドウだとか桃だとか、それよりランクが落ちるけどスイカとか。水気があって甘い果物が人気だったのです。この実験で、静岡県知事賞をもらいました。うれしかったですね。

最先端を知るために、数学と物理を勉強


――その頃から研究者魂がうかがえます。


湯之上隆氏: 中学生の頃、僕の人生を決めた本に出会いました。京大農学部の石井先生が書かれた岩波新書の『ゴキブリの話』という本です。ゴキブリを研究している先生がいて、しかも僕がすでに解明したことが書かれていたりして、感動しました。例えば、ゴキブリは、1匹、2匹で飼っていると成長速度が遅いのですが、100匹とか200匹で飼っていると卵を産み、孵化するサイクルが非常に速いのです。石井先生の本には、それが何故そうなるかが書かれていたりするのです。それで、京大の農学部に行って、石井先生の研究室に行くんだと決めたのです。

――そして実際に京大農学部へ進まれましたよね。いかがでしたか。


湯之上隆氏: それが、困ったことに、石井先生は既に退官していました(笑)。でも僕はゴキブリに端を発して、生物学が好きだったので、そっちに進もうと思いました。特に、生命科学や遺伝子学に憧れて、生意気にも1年生の頃に生命科学の専門書を買ってきたのですが、生物学の最先端の本は、数学と物理で記述されていて、読めなかったのです。それで、2年生から3年生の時に理学部数学科の転部試験を受けました。ただ、受かったのですが、思っていたのとは違っていました。

僕は道具として、言語として、数学を学びたかったのですが、理学部の数学は、芸術の世界だったのです。僕がやりたいことではない。それで、京大理学部は学科の移動が自由だったので、数学は止めて物理に行き、物理を主に勉強するようになりました。素粒子論とか原子核論を勉強していたら、それ自体がすごい美しい学問で、虜になってしまったのです。ああ、これは面白いなと。それで、もうちょっとこれをやりたいぞと思い、素粒子論の修士課程に行こうとしたのですが、京大の理学部の大学院というのは狭き門で、落ちてしまいました(笑)。滑り止めに素粒子論の講座がある工学部の原子核工学科も受験し、こちらは受かったのでそっちに進学しました。

――どういったことをされていたのですか。


湯之上隆氏: 素粒子の中に、陽子と中性子と電子があるのですが、中性子の実験を行うことにしました。中性子の実験には原子炉を使います。原子炉から出てくる中性子を集めて、エネルギーを計測したり、中性子を何かに照射してその物性がどう変化するかというような実験をしていました。ですから原子炉で修士課程の2年間を過ごしました。

反論でつかんだ日立への入社


――その後、日立製作所の半導体部門、半導体の研究所へ行かれるわけですが、原子核を学んでいたのが、なぜ半導体のほうへ行かれたのですか。


湯之上隆氏: 中性子の実験をするにあたってデータを集めるシステムとしてパソコンを使っていました。パソコンはとても便利なものですが、どうなっているのか知りたいと思い、分解してみたのです。パソコンの中には半導体(正確に言うと半導体集積回路ですけど)が入っていて、これが何らかの動作をしているみたいだと。原子核も面白いなと思ったけど、あまり身近なものではない。ところがパソコンというのは、触ることができて、また役に立つもので、割と身近なものですね。しかも、これから急速に世界に普及していくみたいだな、というのをなんとなく感じていました。それで、半導体をやってみたいなと思ったのです。日立だったら中央研究所がどうやらその総本山だということで、面接に行ったのです。

――面接はどうでしたか。


湯之上隆氏: 面接官から、「君ね、来るところ間違っているよ」と言われました。「原子核物理と半導体物理は天と地ほど違うんだ」と。それを言われた時、カチンときました。だって僕はまず生物をやりたくて大学に入ったのです。生物学があって、それを学ぶために数学に行き、次は物理に行き、その物理の中の一分野である原子核物理にいったわけです。僕の頭の中には生物、数学、物理という構図があるのです。で、その小さな物理学の中に原子核物理と半導体物理があるのに、この面接官は原子核物理と半導体物理は天と地ほど違うと言った。「えっ、同じ物理じゃないのか?」「ニュートン力学だとかマクスウェルの電磁気学が通用しないような違う物理なのか?」というように反論したのです。そうしたら面接官は絶句してしまって。「そんな風に言うんだったらお前やってみろ」と。それで、入社することになりました。

日立製作所での経験。微細加工から経営学の研究へ


――長年の経験と実績に基づいて、様々なことをされていますが、ここまで来るのには、ご苦労をされたのではないですか。


湯之上隆氏: 半導体の中にはDRAMというメモリがあります。その世界シェアでかつて日本は8割を占めていました。僕はそのピークの時に日立に入りました。最初は、中央研究所で微細加工装置の研究開発を8年やりました。次に半導体の量産工場へ行って、DRAMを作る生産技術を5年経験。今度はデバイス開発センターに行って、次世代のDRAMの微細加工技術の開発を3年ほどやりました。その頃、日本のDRAMは韓国に抜かれ、1社では立ち行かなくなったため、NECと日立の合弁会社エルピーダメモリ(現マイクロンメモリ ジャパン)ができ、僕はそこに志願して出向しました。最初は800人の出向社員で形成されていたのですが、志願したのは800人中、僕1人しかいませんでした。

――志願された理由とは。


湯之上隆氏: 僕はずっとDRAMをやっていたので、「日本の最後の砦であるエルピーダを自分の手で何とかしたい」と思ったのです。ところがNECと大バトルをやってしまって、課長を降格させられ、エルピーダからたたき出されてしまいました。それで最後に行ったところがセリートという国のコンソーシアム、つまり共同研究機関でした。結局、日立に入社して以来、16年間に渡って、ずっと半導体の微細加工をやっていたことになります。
しかし、2000年のITバブルを機に行われたリストラによって早期退職勧告を受け、辞めることになりました。その時に、たまたま同志社大学の社会科学の研究センターに教員のポストがあるから来てみないかと誘われ、経営学の研究をすることになりました。家族もいたので、とにかく仕事をしなければいけない。ですから、経営学のケの字も知らないくせに先生になってしまったわけです。DRAMのピークに入社して一回も浮上なし。凋落とともに技術者人生を歩み、日本がDRAMから撤退すると同時に辞めさせられてしまった。一体なぜこうなってしまったのか、技術の視点だけではなく、経営学の視点からも解明しようと、5年間、研究をしました。

――研究は、どのようにして進めていったのでしょうか。


湯之上隆氏: 凋落を研究しようとしてデータを集め、世界の中で日本はどういう状態にあるかということを明らかにしようとしました。それに、売上高やシェア、利益などをまず調べました。1冊10万円する半導体データブックや半導体製造装置のデータブックを、20年分ほど揃え、売上高やシェア、利益などのグラフを書いてみました。すると、負けたって当たり前のことが起きているということが分かってきました。



備忘録として、広告として


――貴重な図を、新聞や講演会やホームページなどで、無料で公開されています。


湯之上隆氏: まず、ホームページを作っている理由が2つあります。僕は連載記事を7つ持っているのですが、同じことを書くことがないように、いつどこで何を書いたかというのを、自分の備忘録として残したいというのが、ホームページを作るに至ったきっかけの1つです。だから誰のためかというと、自分のために作っているわけです(笑)。執筆だけではなく、講演会についても、どこで誰のために何を話したか、というのが分かるように全部記録しています。自分のパソコンを持っていなくても、誰かのパソコンからアクセスすれば、いつでも見られるのもいいですよね。僕のクラウド上にある書斎だと思っています。
それから、僕のような個人コンサルは、「湯之上さんの知恵を借りたい」など、企業からアクセスがあって初めて仕事をすることができるようになります。ホームページを作っておけば、企業の方々がそれを見て、湯之上って一体どんな人なのか、どんな記事を書いているのか、何を講演しているのか、大体人物像や知識レベルが分かると思うのです。その結果として、講演依頼や執筆依頼、コンサル依頼に結びつく。だからホームページは、仕事のための広告でもあるのです。これが2つめの理由です。

――先程、重複を避けたいというお話がありましたが、やるからには同じものの繰り返しは嫌だと。


湯之上隆氏: 何のために執筆しているかというと、第一に仕事だからというのはあるのですが、もともと研究者であり技術者だったので、発見をしたいのです。例えば、売上高のこのピークはなんだろうとか、何故ここから下がり始めるのだろう、ここに何があったのだろうなど、そこに解釈が付けば、社会の中の、産業の中の、小さな発見になると思うのです。そういう発見をたくさんしたい。二重に同じものを発見してもしょうがないです。

世界一周で得たもの


――仕事をされる上で、大切にされている思いは。


湯之上隆氏: 僕の原動力は、まず面白いと思うことです。しかも発見をすると興奮する。だから、発見したいと思うのです。例えば小学校の頃、僕の夢は自分の庭に昆虫図鑑にある昆虫を全て、つがいで飼うことだなんて思っていたり。ゴキブリを研究していた時に、こいつらには個性があって、顔が違うということを発見して、感動したり。そういう発見をすると、なんだか充実した気分になってうれしくて仕方がない。そして、その発見をさらに誰かに知ってもらいたいと思うのです。だからたくさんの記事を書いているのでしょうね。

――研究のために、世界一周をされたこともあるそうですね。


湯之上隆氏: 半導体というのは、微細化すると小さなチップの中によりたくさんの機能を詰め込むことができる。さらに速度や動きが速くなる。そして消費電力も下がる。さらに小さくできるわけだから安くなる。微細化するといいことばかりなのですが、4、50年にわたる集積回路の歴史の中で、「もう微細化は限界だ」ということが何度も言われました。2007年頃も、65から45ナノでもう限界が来ると言われていました。そんな時、委託研究を受けたのです。なぜ僕が選ばれたかというと、技術者としてずっとやってきたので、半導体の「いろは」は知っている。その上で経営学的な視点があると。この2つの素養を持っている人は、なかなかいなかった。それで、微細化はいつ頃止まると世の中の人は思っているのか、さらに、微細化が止まってしまうと世の中は一体どうなってしまうのかということを研究してもらいたいという委託研究を受けました。最初は、半導体メーカーにも装置メーカーにも材料メーカーにもいる、微細化のキーパーソンの意識を調査しようとしてアメリカやヨーロッパを行き来していたのですが、予算が足りなくなったので、グルッと回ってしまうことにしたのです。

世界一周には、もう一つ課題がありました。その頃、ブラジル、ロシア、インド、中国、つまりBIRICsという新興諸国が経済発展を遂げていると言われていました。しかし、その真の姿が良く分からない。それを自分の目で見てみたいと思いました。特に人口の多い中国とインドの経済発展がどうなっているのかを見たかったのです。

――実際に行ってみて、いかがでしたか。


湯之上隆氏: 例えば人口11億3千万人のインドでは、税金を払うことができる富裕層が3000万人(1%)しかいない。その下の30%の層は、所得はあるけどあまりに低いので税金を払うことができない。そのまた下の30%の層は、所得がまったくない。さらにその下の30%の層、つまり一番下の層は税金という概念を知らない乞食たちです。そのような国が経済発展を遂げている姿というのは、日本人が思っている姿とは全く違う。富裕層以外の人たちも、携帯電話、冷蔵庫、テレビなどを買いたいのだけれど、あまりにも所得が低いから、うんと安いものでないと買えない。そのようなインドで、冷蔵庫やテレビはサムスンやLGなど韓国製品がほとんどをしめていました。携帯電話はほとんどのノキアでした。なぜ、サムスンの家電製品が売れていたかというと、鍵とバッテリーがついていたからです。それはなぜかというと、泥棒が多い上に、毎日停電するからです。そうした工夫をしているのに、価格は日本製品の半額です。現地の営業マンの話を聞きましたが、「日本製は売れるわけない」と言っていました。

世界一周が終わった後、日立の幹部がいる前で講演する機会があったのです。「マーケティングしているのか?」と聞いたら、「当社にマーケティングという部署はない」と言っていました。これが、半導体もエレクトロニクスも韓国に負けてしまった大きな原因だと思います。

電子書籍の求めるマーケット



湯之上隆氏: 僕は、電子書籍については結構、否定的なことを言っています。
僕は、今まで3冊の本を出していますが、全て電子書籍になりました。最初の本の編集をしてくれた人が、僕の本を出した後に独立して、電子書籍の会社を作りました。その会社に誘われて、役員になっていますけど(笑)。それで、紙で5万部売れたものを電子書籍にして出したのですが、なんと5冊しかダウンロードされなかったのです。ですから、それが電子書籍に対する僕のスタンダードです。世の中では電子書籍、電子書籍騒いでいるけど、そんなものは、まやかしだと思います。というのは、その会社で全部で50冊ぐらい電子書籍を販売しましたが、僕の本だけではなく、版権が切れた有名な小説家の本なども、売れたものでも500部や、1,000部でした。結局、2年ぐらいやってみて、電子書籍は売れない、ダメだという結論になりました。

――電子書籍が売れなかった理由は。


湯之上隆氏: アメリカでは、電子書籍の売り上げが紙の売上高を抜いています。アメリカと日本は何が違うのか。これは考えてみれば当たり前なのですが、アメリカの本というのは、ほとんどが分厚くて大きく、値段も3000円や5000円など、高いのです。そして、本屋さんが少ないので、本を買うのが大変なのです。ところが電子書籍なら車で遠くまで買いに行かなくても、Amazonではクリック1つでダウンロードできます。ですから、アメリカには売れる素地があるわけです。ところが日本には、本屋があちこちにありますし、文庫や新書など、買いやすい小型の本がありますからね。

――日本では、近くの本屋で持ちやすい本が手に入るので、電子書籍を買う理由がないと。


湯之上隆氏: そしてもう一つ。僕が講義をしている大学で、学生たちに「電子書籍を買ったことがある人」と、よく聞くのですが、買ったことがある人は、50人学生がいたら、1人か2人ほど。しかも買ったのはマンガです。専門書やビジネス書を買ったことがある学生に出会ったことがありません。なぜなのか、問いつめていくと段々分かってくるのですが、日本人はインターネット上のものにお金を払うのに、ものすごく抵抗感があるのです。僕の記事も、日本ビジネスプレスなどでは、タダで誰でも見られます。ネット上の媒体はタダであるというのがデファクトスタンダードなのです。知恵と情報はタダという考え方がどうも日本人にはある。何かモノになって初めて価値を持ったと考えるところがあるのです。知恵と情報って形がないのでタダだと思っている。これが、根底にあるような気がするのです。だから僕は、日本では電子書籍はあまり流行らないと思います。

総決算と議論


――本を出版することになったきっかけとは。


湯之上隆氏: 僕の最初の本は、同志社大学で5年間研究した成果をもとに作ったものです。あちこちの媒体に書いたり、論文や記事を書いたりしていたのですが、自分の総決算としての本を出版したいと思ったのです。出版社に持って行けば、直ぐに本になるものだと思っていたのですが、4社くらいに断られました。編集者が会ってもくれなかったところもありました。それで、僕の最後の頼みの綱が光文社でした。光文社は暴露本が結構多いからです。『内側から見た富士通』は感動しました。それで、編集長をされていた山田順さんに、原稿の内容をまとめたものと、目次案を持って行ったところ、「面白い。日本の課題がここに凝縮しているかもしれない」と、僕を拾い上げてくれたのです。

――編集者とは大きな存在なのですね。


湯之上隆氏: 価値ある文章を見つけ出して、世に知らしめてくれる人が編集者なのだと思います。
実は2冊目と3冊目もその山田さんが書けと言ってくださって出版されました。1冊目で湯之上というのはこういうことを知っている、こういう文章を書く人間だというのが分かったのでしょう。それでエルピーダが倒産した時に、「お前、何か書けるだろう」と言われ、2冊目の本を書きました。しかしこれは専門家しか読まないということで、もっと広く読んでもらうために、新書にしようと言って頂き、3冊目の本ができました。ある話題、あるいは目的に対して山田さんという編集者が僕の能力を引き出してくれた、そういう存在だと思いますね。

編集者の方と言えば、驚かされたことがあります。文春新書に、飯窪成幸さんという編集局長がいたのですが、『日本型モノづくりの敗北 零戦・半導体・テレビ』を作った時に、「この半導体って零戦と似ているね。まえがきにチラッと書いてご覧」と言われました。しかもちょうど作っていた頃に、映画『風立ちぬ』で零戦ブームだったので、「ここに零戦と一言入れるだけで、売れ行きが違うんだ」とも。僕は抵抗したのですが、結果的には編集局長が正しくて、6刷目に入っています。タイトルには「日本型のモノづくり」とありますが、決して、モノ作り全般について物を述べているのではなく、半導体と電機産業についてしか言っていないのですが、こういうタイトルを付けたので、車や機械など、そういうモノづくりの方まで読んでくれて。読んだら読んだで面白いところもあるらしくて、講演に来てくれなど、これをきっかけに色々なことが起きました。編集局長は、零戦と半導体の類似性にまず気づいた。しかも世の中、今は零戦がブームだという、世の中の動向をつかんで、それをタイトルに反映させた。悔しいけど見事だなあ、という思いを持ちましたね。

――著者を発掘し、能力を引き出す。それこそ編集者の本当の役割かもしれませんね。


湯之上隆氏: 本を書く目的は2つあります。1つは、自分にとっての総決算というつもりで取り組むこと。そしてもう1つ。1冊、丸ごとの論考をよりたくさんの人に提供して、僕の書いていることが全て正しいわけではないから、そこは正しい、でもここは違うのでは、というような議論が起こるといいなと思っていましたね。

――本を切り口にして、議論の場になってほしいと。


湯之上隆氏: 本を読む時の態度というのが、その著者との知的な格闘だと思っています。疑い深い目で見ているわけではないですが、僕だったらこう考える、そこは僕もそう思う、など、そういう思いで本を読むことが多いです。だから、僕の提供する本も、僕はこう思うのだけれども、あなたはどうですかという思いがありますね。

半導体と電子産業を復活させたい


――今後はどういった本を出したいとお考えですか。


湯之上隆氏: これまでの本は、敗戦や崩壊、敗北などがタイトルに付いていますが、これは出版社が付けたものなのです。それで、「あなたはネガティブな内容の本しか書けないの?」と言われます。ですから、もし次があるとしたら、「○○の成功」というような、ある企業の成功例を書いたり、日本のある産業の上手くいった例を書いたりしたいなと思っています。

残念ながら半導体は壊滅的になってしまいました。日本の電機産業もかつての輝きは失われてしまいました。僕は、この半導体や電機の出身ですから、この事態のまま死にたくはないと思っています。日本というのは潜在能力はあるのですが、それが上手くビジネスにつながっていない。それは一体何が足りないのだろうというと、それはリーダーだろうと思います。スタンフォード大学の教授をしている西義雄さんという方がいらっしゃいます。スタンフォード大学は、シリコンバレーのすぐ近くにあり、非常にイノベーティブなベンチャーを次々と排出している、そういう学生を出している大学です。そういった大学で、どういう教育方針でやっているのか、聞く機会がありました。

「世の中を見てご覧よ。一企業も一国も、人間というのはピンからキリまでいるんだけれども、決して平等・公平ではなくて、一企業も一国も一握りのピンが引っ張っているんだよ。これが世の中の正しい姿だ。大学の役目は何かと言うと、一握りのピンを排出することなんだ。自分は教育なんかはしない。ピンが自らピンとして成長するように、それをサポートする。ピンを排出するための何かお手伝いをする」というようなことをおっしゃったのです。日本とは違うと思いました。日本がもう一回輝くためにはリーダーが必要です。そのリーダーを育てるためには教育の基本システムからして変えないといけないと思い始めました。何か貢献できないだろうかということで、小学校教育にちょっとですが、関わっています。

――どういったことをされているのですか。


湯之上隆氏: 僕の出身は静岡県の島田市というところで、東日本大震災で出たがれきの処分の協力依頼に全国で一番最初に手を挙げた市なのです。ところが、がれきにわずかながらセシウムの汚染があるということが分かって大反対運動が起きたのです。まったく問題にならない量のセシウムなのですが。ところが、普通の人はどこまで安全で、どこから危険というようなことは、ほとんど知らないわけです。ちょっとでもセシウムがついていたら癌になるのではないか、と過剰反応してしまうのですよ。それで、大騒動になったわけです。ガレキ受入れに対して、賛成派と反対派が真二つに分かれてしまって、険悪な空気になってしまった。これをどう解決したらいいのかなと考えた時に、これは教育しかないと思いました。小学校、中学校で放射線の基本を教えようと、教育委員会に提案しました。教えるためには、まず先生がその素養を持たなくてはいけない。それで、先生向けの研修会を行いました。次に、理科の先生に学習指導要領をつくってもらって、モデル授業をやりました。そして、島田市では小学校4年生から中学3年生までのすべての生徒に、放射線の授業をやるとことになりました。ですが、僕はここで終わらせるつもりはなくて、島田市の次は、静岡県全体に広げ、その次は日本全体に広める。最終的には、放射線を大学受験科目にしたいと思っています。原発をどうするのか、というのは日本、そして世界全体の問題です。それに関わる人、研究者、学者を育てるためにも、こういった教育は必要なのではないかと思っています。

(聞き手:沖中幸太郎)

著書一覧『 湯之上隆

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