世界一の会社を作る
一人暮らし専用家具販売サイト「ZIPANGs(ジパング).com」を運営する株式会社ユナイテッド・ビジョン代表の中村あきらさん。資本20万円一人で始めた事業は、一年間の売り上げゼロ期間を経て、社員30人年商5億の会社に成長します。しかし、その後個人で7000万円の借金を抱え……。起業のノウハウと倒産の危機、教訓を『東京以外で、1人で年商1億円のネットビジネスをつくる方法』としてまとめられました。経営者から学生まで、その価値観に注目が集まっています。本であますことなく伝える、その根底に流れる「シェア」への想いとは。爆竹遊びの少年時代から飛び込み営業まで、移住先のアメリカ・サンノゼから一時帰国した中村さんに「今」の想いを語って頂きました。
東京以外で、豊かに生きる
――移住先のサンノゼはいかがですか。
中村あきら氏: 沖縄から引っ越しして半年ぐらいになりますが、とても住み心地の良いところです。起業家の“聖地”などと呼ばれているシリコンバレーですが、現地の日本人のうち駐在員が六割を占めています。残り三割は学生で、起業家は一割にも満たないですね。けれども、その一割の日本人起業家たちに世界中から、この地で働くこと、この地の情報を聞きに人がやってきます。ぼくに会いにきてくれる人もいます。学生の場合は、自分が手がけているECや起業の話を、起業家の方には、こちらの情報と日本との違いをシェアしています。
情報やノウハウは出せば出すほど集まってきます。昔、リスク分散についてのブログ記事を書いた時には、大学でリスク分散について研究されている方から連絡を頂き、実際にお話をさせて頂く中で、経営以外の「リスク分散そのもの」について知識を深めることが出来たりと、ぼくの方が勉強になりました。シェアや交流を通じて広がりを実感しています。
一度外部に出してしまえば頭の中もクリアになり、出した意見は「ここにある」と自分自身を再確認することが出来ます。アウトプットによって、一度記憶のメモリーの空きができ、その分新しい事を学べるようなイメージです。
爆破少年アキラ
――シェアすることで知識が集まってくる、と。
中村あきら氏: 今は広がりや可能性を実感していますが、昔はシェアも集団行動も苦手な子どもでした。ぼくの故郷である長崎には「精霊流し」というお祭りがあって、よく爆竹を使うんです。その余った爆竹を、近くの森の地中で爆発させて遊んだりして、よく怒られていました(笑)。一人遊びが多く、ぜんぜん社交的ではなかったですね。
ぼくの祖父が高校野球の監督で、父も野球をしていて、遊ぶ時はいつもキャッチボールでした。少年野球チームに入った流れで、そのまま中学から野球部に。結構ストイックな現場で……冬はタイヤを引きながらランニングをしたり、そこで少しは団体行動を学んだと思います。特に疑問は抱かず「こういうもんだ」と思ってやっていましたね。
割と自由な家風でしたが、これといってハングリー精神があったわけでもなく、
そういう意味でぼくは本当に「普通」でした。将来の夢も普通で、「プロ野球選手」とか書いていますが、仕方なく空欄を埋めていた感じです。起業なんて考えてもいませんでした。
――まだ、勉強の「べ」の字も出ていません(笑)。
中村あきら氏: 勉強はてんでダメでした(笑)。頭の良い子のノートを借りたり、用もないのに職員室に入り浸っては、クラスの違う先生たちが普段配るプリントを貰って集め、そこから定期試験の出題傾向を掴んで、なんとか乗り切っていましたね(笑)。
飛び込みからテレアポまで 営業成績は半年で「1件」
中村あきら氏: 大学では生産工学部という、理系のものづくりの経営を学ぶ管理工学学科に進みました。倉庫運営や、サプライチェーンマネジメントを学んだり、物体の強弱を確かめる実験をしたり……「仕組み」を学んでいました。一年時は、当時の彼女の影響を受けて「自分に出来ることは単位を習得するぐらいだ!」と考え、1限〜5限まで片っ端から講義を入れていました。二年になると、就職に有利だということで色んな資格に挑戦します。結局とれたのはカラーコーディネーターだけでしたが(笑)。
最初の二年で卒業要件である126単位のうち120単位をとり、三年生からは企業のインターンに出ていました。社会保険労務士事務所やベンチャーキャピタル、学生団体にも所属して就活生と企業をマッチングさせる活動に参加していました。
――まだその頃は「就職」だったんですね。
中村あきら氏: 将来(就職に)役立つものをこなしていく、という考えでしたね。リクルートに進みたくて、リクルートのOB訪問も二十人ぐらいさせて頂きました。そこで「営業が出来ると何でも出来る」と聞いて、営業の会社に半年の期限で働くことにしました。
飛び込んだ先は自社の研修に力を入れていたIT企業で、そのノウハウを外部向けに提供しようと、企業向けの研修を売っていました。先輩社員がいる訳でもなく、マニュアルがある訳でもないので、手探りでやっていました。飛び込みや、電話営業など古典的手法で、山手線周りのビルに入っては、最上階から順に片っ端から回っていました(笑)。その間、成約に至ったのはたったの1件だけ。もともと世界一周をしたいという想いから、お金も稼げて社会も知れると考えて営業をやっていたのですが、良い成績もおさめられず期限をむかえてしまいます。
インドか沖縄か 彼女探しの旅
中村あきら氏: 半年間の営業後は、いよいよ旅だというところで、迷ってしまいます。インドに行くか、沖縄からスタートするか……山添勝志さんの『ヒッチハイクで日本一周』を読んだこともあり、出発予定日ギリギリまで迷って、そのときチケットが入手できた沖縄へ行くことにしました。
実はこのとき失恋を引きずっていて、先ほどの営業先のお姉さんにも慰められるぐらいひどい有様だったのですが、この日本一周の旅は、彼女探しの旅でもありました。そうして沖縄で、今の妻に出会いました。
――いきなり、スタート地点で出会っちゃいましたね(笑)。
中村あきら氏: でもその後も、ちゃんと日本一周を続けています(笑)。ぼくにとって一番落ち着く存在で、ドイツ語と英語と沖縄弁がしゃべれる、知的ではっきりとした性格の彼女は、その後妻となり、ぼくが起業してからも楽しい時もピンチの時も、支えてもらいながら一緒に乗り越えています。
相手の「困った」を解決する
中村あきら氏: 旅を終えて、営業のアルバイトをしていた時の講師の方と縁があり、その方が主催していた起業塾に通うことになります。起業したいユニークな人たちが集まっていて、初めて“仲間意識”を持ちました。群れないけれど仲間。そこで感化され、就職しない生き方というものを知りました。
――「起業しよう」ではなく「就職しない」、と。
中村あきら氏: まずはそこでした。居心地が良いと感じた仲間の生き方に興味を持ったんです。大学四年の夏で、そこから起業塾のコミュニティに本格的に参加します。そこで「直感フィードバック」、互いの印象を率直に言い合う場面がありました。しゃべれるわけでも、コミュニケーションに長けていた訳でもない自分の、周りから見た唯一の強みは「長時間PCの前に座っていられそう」でした(笑)。
じゃあ、それを強みにして何か仕事をしようと思ったんです。両親には最初「就職しない」と伝えたとき心配されましたが、一度言ったら聞かないぼくの性格を両親は知っていたので、なし崩し的に認められた様に思います。当たり前ですが、卒業後は仕送り等の資金の援助はなくなるので、卒業までの半年の間に、なんとかして仕事を作らなければなりません。「何か食べられるもの×得意なもの」を考えた結果、サイト制作に行き着きました。起業塾や、講師の方のウェブサイトの作成から始めて、そこに通う生徒のサイトを作ったのが、最初の仕事となりました。
今では一週間で作られるようなものに、三〜四ヶ月もかかってしまい……日々の生活もやっとでしたが、学生ローンで食いつないでなんとか持ちこたえていました。サイト作成で得た報酬は即家賃に消えていき、というスタートでした。不安もありましたが、とにかく目の前にはお客さんがいて、このお客さんの仕事を「終わらせる」ことしか考えていませんでした。
――出来る目の前のことをこなして。
中村あきら氏: また、仕事を通して自らも学んでいきました。サイト制作の知識というのは膨大です。全てを身につけてからビジネスをスタートさせよう思うと「学習」だけにすごく時間がかかるんです。しかも次々と新しいものが出てくるので、常に学習が続くといってもいいと思います。だからぼくは、学習と実践を同時並行でやって行こうと思ったんです。
誤解を恐れずにいうと、知識を使えるレベルまで身につけるにはお客さんを持つことが一番早いのです。
ぼくにできるか未知数な案件にも積極的に手を挙げて、仕事をしながら技術や知識を習得していこうと決めました。お客さんの案件を受ける時はその時点で知識量が100%じゃなくても「やります」と答え、足りない分を仕事をしながら勉強していきました。ぼくに依頼してくれたお客さんの困りごとを、自分が勉強して解決してあげるという感じです。
こうして自分の進度や、知識量も客観的にわかり、同じ悩みを持った方へ、次はもっと余裕をもって提供することもできるようになっていきました。
――仕事と個人のレベルアップを重ねていくんですね。
中村あきら氏: ドラクエで言うと、レベルがまだ十分でないけどボスを倒しにいくことと似ています(笑)。近場の安全なステージでレベルアップをして挑んだら次のステージまでいくのに時間がかかってしまいます。
その時十分なレベルに達していなくても、ボスに行くまでの過程で強くなることができます。大事なのはボスに会う瞬間にボスを倒せるレベルであればいいのです。
つまりウェブ制作で言うと、仕事を受ける段階でできていなくても、納品の瞬間に100%できていればいいんです。それだと誰よりも早く次のステージに行けます。誰よりも多く次のゲームを遊べます。ひいては、仕事とビジネスが誰よりも早く成長できるのです。それが一番勉強と成果において早い方法なのだとやりながら学びました。
そのうち個人から企業も手がけるようになり、とりあえず食べられるようになったところで、次は本田健さんやロバート・キヨサキさんのいう「自分のビジネス」(=Own your business)を持とうと考えます。ウェブ制作は言ってみれば人のビジネスのお手伝いでした。自分のビジネスを持つということは、人のビジネスの手伝いではなく、自分のビジネスを持ちそれを大きくしていく、ということです。それが自分にとってはEC、ネットショップでした。そこからは、どのように東京以外で自由な暮らしを達成したか、起業から倒産の危機までについては本を読んでください(笑)。
価値観と想いの共有
――『東京以外で、1人で年商1億円のネットビジネスをつくる方法』には、中村さんの価値観が記されています。
中村あきら氏: 講師業の方たちを対象としたサイト制作に特化していた25歳くらいの頃、「この人にお願いしたい」と思って頂けるように、まずは自分の価値観を記した小冊子を配っていました。「ぼくはこういう価値観を大切しています。皆さんにはこういう技術でお役に立てます」とアピールしていました。後になってその小冊子を読み返したら、「25歳のその時」の気持ちが感じられると同時に「今なら書けないな」とも感じました。
ならば今また新しく挑戦する、28、9歳の自分が感じていることを、振り返っては書けない今の想いを本に残そうと思いました。これを読んでくれれば、特にぼくが経験したECビジネスについて、理解してもらえるそんな本を届けたい――ぼく自身、学生時代も起業した時も本に助けられました。自分の経験を記すことで、誰かの人生に少しでも役に立てたらと思い、書くことにしました。
これからビジネスが大きくなって、30代、40代になっているその時にぼくが言う言葉と、今言う言葉はおそらく全然違ったものになっているはずです。そのとき信じていたもの。それを聞きにきた今のぼくと同年代の人やこれからの学生が、読んで分かるものをと思いました。出版企画書を色んな人に見て頂いたのですが、アップルシード・エージェンシーの鬼塚忠さんは、ぼくの「営業力」や「売上力」ではなく、「企画」を見てくれました。「本は、本屋にあって売れるものじゃないと」と教えてくれました。
――本自体に魅力があるもの。
中村あきら氏: ぼく自身はやることも、場所も変わっていきます。ぼくがどうこうではなくて、本自体が一人歩きできるものを作りたいと思っていたぼくの想いと見事に合致しました。「東京じゃないところで仕事したい」、「ネットショップをやってみたい」と思う人が純粋に手に取ってくれるものを目指しました。
初めての本でしたが、編集者や出版エージェントである鬼塚さんには本当に助けられました。編集者は読者を向いていて、ぼくはそこに想いをぶつけていきます。その間に入ってアドバイスをくれる鬼塚さん。この本には、東京から地方へどれくらい人口が移動しているかなど詳細なデータを記していますが、なかなか大変な作業で、それに関しても多くの助言がありました。ノウハウやテクニックもそうですが、モチベーションを高めてくれる存在が編集者であり、間に入ってくれるのが鬼塚さんでしたね。
――三位一体で作り上げられる本は、中村さんにとってどんな存在ですか。
中村あきら氏: 世代をつなげてくれる存在です。本を出版する前は、先輩も後輩もありませんでしたが、一冊の本を通じて世代を超えたコミュニケーションが出来るんだと実感しました。今回の『セミナー』もそうしたつながりで実現しました。「東京以外で、東京と同じ収入で働き、もっと人生を楽しみ、人間らしい生活を送りたい」ぼく自身の試行錯誤してきたネットショップ経営の体験とノウハウを、時間の許す限り開示したいと思います。ゆとりある地方生活を実現するために 「年商1億円」を稼ぎ出すには、どうすればいいのか。「東京以外」で無理せずネットで稼ぐ秘訣を本によって繋がった人たちに伝え、交流し、お互いに「今」の想いを交換できる場になればと思います。
世界一の会社を作りたい
――「世界一の会社を作りたい、その途上にある」と言われています。
中村あきら氏: 海外に住む事によって、生活や仕事における価値観の変化を感じています。一番大きく変わったことは経営に対する考え方です。日本では、経営を深く追求していくことが評価されるため、自分ももっと深いものを目指していくものだと思っていました。ところが、アメリカでは世界中の人種が集まる国であり、そこには常に言語や文化の壁があります。
だから、誰もが分かるものを広めないと、ビジネスとして成長しません。一つの商品にしても、日本の繊細さや奥深さ・美しさ尊さよりも、大事なのは「インパクト」でした。その商品を見た瞬間に他との違いが明確なものが売れるのです。会社においても、理念や思想など「なぜやるのか?」などのバックグラウンドの深さよりも、もっと表からみた成績、成長スピードなどわかりやすく社会へのアウトプットが注目されやすいのです。
なので、外国人が世界で商売をするにはわかりやすく説明がいらないものをビジネスにする必要があります。ECにはそのインパクトがあり、何をやっているかが「すぐわかる」「すぐできる」という魅力を持っていることに改めて気づきました。
海外で実際に経営をするのはこれからの挑戦なので、この仮説をもとに海外でも勝負していきたいと思っています。
今この考えが、これからどのように変化していくのか、そしてどんな仕事に繋がっていくのか、自分にも予想できません。ただEC事業を通じてこれからも多くの人と出会い、経験し、自分自身の言葉を生み出していくことになるでしょう。その第一歩をぜひ、本を通じて受け取って欲しいと思います。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 中村あきら 』