“道”を究める
久米繊維工業株式會社会長の久米信行さん。家業のTシャツ創りを進めると共に、Tシャツを使用したプロジェクトやイベントを次々と立ち上げられています。観光、社会貢献、執筆、教育など多岐に渡る活動の原点は、“職住一致”の下町コミュニティーでした。「縁」を紡ぎ進まれてきた久米さんの“道”とは。
思いついたら即、発信
――様々な形で「すみだ発」のプロジェクトを発信されています。
久米信行氏: 今、日本中で同時多発的に「町おこし」をする面白い人が出ていて、新しいコンテンツや古典の見直しもされています。教育や水辺活用プロジェクトなど、色々な仕事をしていますが、それぞれの仕事を引きずらないように、頭の中をクリアにしてシンプルに“今”を大切にしながらやっています。
FacebookやTwitter、あるいは直接人と話すことでもいいのですが、頭の中をクリアにするためアウトプットを先行することが重要です。思いついたら発信し、その都度片づけてメモリ空間を広げる感じです。熟慮するより、まず発信して思いつきの在庫を一掃するのです。ミスやトラブルを恐れては不良在庫がたまります。十人いれば八人が批判的でもおそれません……。
――毒まんじゅうを食らうようなことも……。
久米信行氏: ありますが、僕はそのまま食べて飲み込んでしまいます (笑)。一人か二人でも「面白い」と言ってくれればいい、と僕は考えています。昔は、添加物の塊のようなお菓子もありまして、下に落としても「3秒ルール」で食べていましたし、ケガをしても消毒もしないで赤チンを塗っていた世代ですが、どっこい生きています。ホメオパシーという治療法もありますが、時々、毒まんじゅうを食べたほうが体が強くなるのです。僕の師匠である日下公人さんは「自分は失うものはないので『言うべき時に、言うべきことを言う』と心掛けてきた」とおっしゃっていました。だから僕も、思ったらすぐに言うようにしています。「見る前に跳べ」です。経験上、それによるリスクは、意外と少ないのです。
日本人は空気を読み過ぎるところがあるので、三カ月くらいは居心地が悪いかもしれませんが、そのうち「あの人は、ああいう人だから」と変人枠で認めてもらえるようになります。そこも日本のいいところかもしれません。だから問題は、その三カ月か一年の違和感を耐えられるかどうかですね。プロの集まる会議でも「斬新で、面白い」と言われるのは、案外素人の意見だったりします。だからそういう時こそ、変人枠で呼ばれた僕の「出番だな」と考えます。チャンスと捉え、捨て身で思いついた妙な意見を言いますよ(笑)。
“物知りのぶちゃん”の原点
――久米さんのトリガー(引き金)は、どうやって引かれるのでしょうか。
久米信行氏: 五木寛之さんも「若い頃はエッセイを頼まれても書けなかった。40歳、50歳になって、突然書けるようになった」と言っています。人間は日々感動して、忘れていくけれど、その感動は必ずどこかの見えない引き出しに入っている。それが4、50歳になると、富士山を見た時とか、キーワードとか何かがきっかけになって、その引き出しが二つ三つ、同時に開くのです。五木寛之さんも、「今は何を見ても、エッセイを書ける」と言っていました。だから、脳のパラボラ力=ありとあらゆることに感動するアンテナを増やした方がいいのです。すると、いつしか多くの引き出しに素材が詰まって、いざという時、ピッと取り出せるのです。
脳のパラボラアンテナを増やし知的好奇心を広げるツールとして、「本」はとても重要なのです。僕と本との出会いは保育園の頃までさかのぼります。同居していた父の妹や、保育園の先生が教えてくれましたので、僕は、早い段階で読み書きができるようになりました。保育園の横にあった緑図書館でお迎えを待つのが僕の日課でした。図書館には「空はなぜ青いの?」といった素朴な疑問がぎっしりつまった、「なぜなに」シリーズの本が何十巻もありました。これらの本が僕の原点です。読んでいるうちに、わかることがどんどん楽しくなっていきました。迎えに来た祖父母に「今日は何の本を読んだ」と聞かれて、「空はなんで青いか知っている?」などと話すと「凄いね~」と褒めてくれて、“物知りのぶちゃん”と言われるようになったのです。
小学校に入学してからは、月に一度、学研の図鑑が届くのを心待ちにしていました。図鑑を見ると、世界の扉がひとつずつ開かれていく感じがしたものです。幼少期に視野を広げる読書体験を身につけたのはありがたいことでした。国旗や国の名前を覚え、色々な写真を見て「こんな景色があるんだ」とか「こんな蝶がいるんだ」と好奇心を増幅させていました。