“場”づくりを通して学んだこと
柴田励司氏: 学級参観の時に語った将来の夢は「文部大臣」、学校が大好きだったんです。今でも、学校をなんとかしなきゃいかんという思いから、全国の校長先生などに想いを伝えるべく、年に10から15本ぐらい、講演しています。
中学生のころは、生徒会の会長として校則を変えたり、市内の中学校の生徒会同士をつないで交流しようと活動していました。高校は埼玉の川越高校へ進み、そこで男声合唱団に入りました。ぼくが入部した時期は低迷からの復活期でした。3年生が卒業して人数が減ってしまった時は、色々な策を練りました。一番効いたのは、川越女子高校との混声合唱でした。新入生への説明で「今日、実は川越女子高校との合同練習があるから、5分しか話せない。興味がある人は音楽室に来てください」とだけ言って、さらには川越女子高校の方に、わざと新入生に見えるように練り歩いてもらったら、40人の新入部員が入りました(笑)。その中の一人は、今、アメリカで著名なオケの指揮者をやっていますから、何がどうなるかわかりませんね。
新入生のおかげで人数は増えましたが、音は安定しなかったので、その年のコンクールでは良い成績をおさめられませんでしたが、2年目からは黄金時代に。そこからずっと、川越高校は全国大会優勝です。
――色んな“場”作りをしてこられたのですね。
柴田励司氏: ただ、勉強はやり直しでした。駿台予備校に通って半年で3年分の勉強をしました。それで、上智大学に進みます。しかしそれも当時かっこいい先輩がいて、彼のルートを真似していたのです。
大学では楽しい学生生活をエンジョイしようとパーマをかけ、テニスウェアを買ってと準備していましたが、入学式の後のオリエンテーションで、川越高校音楽部のOBに羽交い絞めにあって連れていかれて、半ば強制的に上智大学グリークラブに入れられてしまいました(笑)。
演劇にも目覚めてしまって、柴田恭兵さんが現役だったころの東京キッドブラザーズに、すっかり感化されてしまいました。自分で貯めたお金でドラマスクールに行き、アングラ劇団のオーディションを受けて入りました。初舞台では任侠の役で、しかもベッドシーンがあるという……(笑)。
劇団も立ち上げました。上智には立派な小劇場があり、劇団もいっぱいあったのですが、サークルの延長線上を脱するために、あえて金のかかる新宿や銀座、六本木などの小屋を借りてやっていました。役者も、色々な大学へ勧誘に行きました。2ヶ月に1回ほど公演をやっていくとだんだん実力もつき、演劇フェスティバルで決勝まで行くほどになりました。結局、演劇集団キャラメルボックスに負けて、優勝は逃しましたが、「やれる!」と思っていました。
――演劇を続ける気で。
柴田励司氏: ラジオドラマのバイトでもらっていた40万円を、劇団の運営費に入れて本気でしたよ。就職するつもりはありませんでした。でも、ウチの親は色々なものを大目に見てくれるものの、みんな公務員の家系で、親戚一同、区役所で働いていたり、学校の先生をしている方ばかり。祖父が浪費家で、親たちはその反動からか皆、堅い職業に就いたようです。だから、「演劇で飯を食いたい」と言える空気がありませんでした。
まさか!の内定取り消しを乗り越えて
柴田励司氏: そんな将来への迷いの日々を過ごしていたある日、京王プラザホテルから一通のダイレクトメールが届きました。親の世代の京王プラザホテルに対する信頼度は高く、家族に「(就職先を)ここにする」と話したら、喜んで賛成してくれました。面接では、面接官が話している単語がわかりませんでした。なにしろ、高級ホテルなんか泊まったこともないし、トイレ以外は使ったこともありませんでしたから (笑)。
そんな状況の中「ホテルをどうしたいですか?」という質問が、ぼくに降ってきました。自分の領域を入れて「ホテルは都会の劇場です」と、そのとき思ったことを自分なりに伝えると、常務が興味を持ってくれて、そのまま就職が内定しました。ただ、内定は貰ったものの自分の心は100%ではなく、芝居の公演と重なっていたこともあって、内定者研修も半分ほど休んでいました。
そんな時、大学演劇フェスティバルで入賞した芝居を見た、ある映像関係の会社からオファーが来ました。「若手のクリエイターを雇おうと思っている。柴田さん、来ませんか?」と。ところが、忘れもしない3月31日にこの映像関連会社の創業者である会長さんが、長い間アメリカに行っていて、ぼくたちの採用のことを知らず「聞いていない。こんな奴らの採用は認めん」ということで内定は取り消しになりました。
もう学校も卒業してしまっていたので、困り果てました。それで、断ったばかりの京王プラザホテルに電話して、「すみません!騙されました!」と話したところ、どうにか採用は有効にして頂けました。