社会心理学が未来に残せるもの
東洋英和女学院大学人間科学部教授を務める社会心理学者の岡本浩一さん。ある時は茶の世界の師範、将棋ではプロと張り合う腕前、その豊富な知識と感性の原点は音楽でした。「まだ見ぬ友に、本を書き残したい」という岡本先生の想いを、歩みを辿りながら伺ってきました。
小4で自らクリスチャンに、「ロン毛にヘアバンド」の学生時代
――こちらに伺う途中、ギターのお話が出てきました。
岡本浩一氏: クラシックギターは、学生のころにしていました。妹は、長く音楽の修業をして、フランスのエコル・ノルマルへ留学後、帰国し、フランスオペラなどの仕事をしています。ぼくの幼少期は、ピアノから始まります。習い始めたのは3歳くらいで、10歳になるとグランドピアノを買い与えられました。そのうち家に6台のピアノがある状態となり、買ったピアノを置くために2軒目の家を作ったような音楽一家でした。家にはたくさんの人が習いに来ていましたし、最も初期のハモンドオルガンもありました。僕の将来について、生まれた時にはすでに、「こいつは指揮者にする」と、父が勝手に決めていました。結局、小学校4年生くらいの時に猛烈な反抗期があってやめてしまうのですが、リコーダーは好きで、その道へ進もうかと思うくらい一時期は凝っていました。
それから将棋の棋士になろうと思ったこともあります。大人になってから有線テレビにも2回出させていただきました。一度は清水市代さんと。勝てるかな、と思いましたが、やはり執念が違って、最後にはバサッといかれましたよ(笑)。それがまだ40歳ぐらいの時で、4、5年前は高橋道雄九段と飛車落ちで対局させていただきました。途中までは良かったのですが、最後には負けてしまいました。実は、音楽も将棋も、学生時代は心理学のために長らく封印していました。
――その心理学の道に進む過程でも、色々ありそうですね。
岡本浩一氏: ぼくの母は小学校の教師をしていたので、私の育て役として、戦争未亡人の女性に、毎日家に来てもらっていました。彼女はクリスチャンで、近くの教会の長老をしており、私どもの家が教会に近く、私たちの子守と同時に、週日も教会の仕事をしていました。ぼくは、家で音楽を教えている父の邪魔にならないよう、教会の日曜学校へ行くことになります。小学校4年生になると、洗礼を受けると言い出して、30歳過ぎくらいまでクリスチャンでした。まあそんな感じでしたから、上の人に素直にハイと言える性格ではないので、会社のようなところに入ると、潰されてしまうのではないかと、小さい時から思っていました(笑)。
それで、大工さんのように、手に職をという思いがありました。親戚の家が工務店をしており、大工さんは身近な存在でした。また高校3年生の時にAFS奨学生としてアメリカの高校へ留学しましたが、そこのホストファザーは船乗りであり、政治家でもある人でした。そういう環境にいたこともあって、会社に雇われて働くということは考えませんでした。
留学先のオレゴン州アストリア高校にはとても良い暗室があったので、写真科へ進みました。その高校は、日本でいう実業と普通科が一緒になったような総合的な学校で、そこでしかできないことをやろうと思ったのです。最後の半年は、デイビット・ボーマンという写真家の助手もしていました。高校3年生の夏にアメリカから戻り、日本の高校に復学して卒業しました。東大の理Iに進んだ時は20歳になっていました。学生の時は歴史がつまらなくて……、歴史上の人物についても、それはその人の人生で私の人生ではないから(笑)と、興味を持てませんでしたが、数学や物理の世界には素晴らしさを感じ最初はそちらへ進みました。
大学時代はとても迷いの多い時期で、一生分迷ったのではないでしょうか。例えば、自分はどんな女が好きなんだとか(笑)。理系から文系に変わった時期には、音楽家になろうかと迷っていて、芸大へ入りなおそうと真面目に悩んだこともありました。迷いつつ、時間に押し流されていました。それから、当時はロン毛で、ヘアバンドをしていました。どこからどう見ても、社会に不適応な感じでした。ぼくは、自分が不適応だということを、その格好で表現したのだと思います。授業では、当てられるたびに「おい、そこのヘアバンド」と言われていて、未だに同窓会でも覚えている人がいますよ(笑)。
髪を切り入門!? 社会心理学への道のり
岡本浩一氏: さらには大学時代、小説家になろうとも思っていまして、マイナーな賞は幾つか取って、つぎは芥川賞を、と日々原稿用紙に向かっていました。大学3年生の夏休みくらいの時、私の最初の指導教官になられた古畑和孝先生という方が、その情報を誰かから聞いたようで、私の小説を読んでくれていました。その上で「それも立派な生き方だけど、ゼミでの君の発表の質や発言を見ていると、社会心理学も良いのでは」と言ってくださり、さらには「俺のゼミに来るのか」とお誘いを受けました。「大学院まで進みたい」と話をしたところ「まずは髪を切りなさい」と(笑)。
――髪を切って……「入門」する感じでしょうか(笑)。
岡本浩一氏: 「平均的な人の社会的判断というものを引き出さなければいけないので、その格好ではできない」と言われ、髪を切って、入門ですね(笑)。吉田拓郎さんの歌にそんな歌詞があったと思いますが、やけに心に染みました。長くなりましたが、そこからがぼくの社会心理学者としてのスタートです。アメリカ留学時にお世話になった政治家のホストファザーの影響で、何か政治に影響を与えるような仕事をと考えていたので、社会心理学は新しい学問だったし、最終的にはリスク心理学をやることになって、社会と密接に関わる事が出来たので、良かったかなと思っています。
ただ新しい分野であるリスク心理学を始めた時は、研究費がなかなか確保できず苦労しました。足りないお金は役所から出してもらって、政府の委嘱研究という形で細々とやっていました。僕がリスク心理学の勉強をするために留学したのが93、94年で、日本に帰ってきてからは、国の委員会などに出るようになってきていましたが、まだ自分の中で、この道でやっていくんだと言う確固たるものはありませんでした。
それが東海村のJCO臨界事故で一変しました。リスク心理学は科学研究費補助金でも重点領域になり、専門家を育てようという国策になったのです。東海村JCO臨界事故が起こってから、文科省が社会技術研究システムというのを作ることになりました。私はその立ち上げに参加し、最初の6年間は、社会心理学の研究全体を指揮しました。そこでの業績を、英語の論文だけではなく、国内向けに「本」という形にして、世間に発表する。そういう流れで、本を書くようになりました。