厳しくも優しい母の教育
――清水さんは、どのような教育方針のもとに育てられたのでしょう。
清水章弘氏: 私は3兄弟の一番下で、両親は「とにかく子どもには苦労をさせよう」と考えていたようです。母は特に厳しく、子どもたちの初めての遠足には必ず、お弁当の箸を1本しか入れず、対応方法を見るような人でした(笑)。長男は甘えん坊タイプで、先生に泣きついて箸を貸してもらい、2番目の兄は、ガキ大将タイプだったので、友だちから調達したそうです(笑)。私はというと、箸を半分に折って使いました。両親は、それぞれがどのように対応したのかを確認し、子どもたちの性格を把握して、教育方針を決めたそうです。
――すごいお母様ですね(笑)。
清水章弘氏: 「可愛い子には旅をさせよ」を言葉通り実践している母親でした。3歳のころには「この本を図書館に返してきて」というミッションが与えられ、三輪車で1時間かけて図書館に通わされることもありました(笑)。帰りは、母親と仲がよかった司書さんが家まで送ってくださいました。千葉県の北習志野という場所で育ちましたが、地域の方々に育ててもらいました。
また、母が「本を好きになれば、将来、勉強に困ることはないだろう」と読み聞かせをしてくれていたので、小さい頃から本は大好きでした。地元の図書館に通い詰めていたので、置いてあった児童書は、ほとんど読んだのではないかと思います。中学生の頃は「かばんの脇にある小さいポケットに、必ず文庫本を入れろ」という先生の教えに従い、往復三時間の通学中、そのポケットに忍ばせた本を常に読んでいました。
芽生えた教育への問題意識
清水章弘氏: 私が通っていた海城中学では、1学期に一度、自分で関心を持ったテーマを設定して、論文にまとめていました。中学2年のある日、「日曜討論」というテレビ番組で「ゆとりの教育の是非」に関する内容を見たことが、その後の私を変えることになりました。ゆとり教育の弊害と、その元に育ったいわゆる“ゆとり世代”の害を論じていました。私たちが新課程の「ゆとり第一世代」だったこともあり、出演者の方々に取材をさせてもらいたいと電話をしてみました。
いきなり電話で、自分の所属を名乗り取材を申し込んだのですが、みなさん快く応じてくれました。レポートは全て教育問題で書き続け、中学時代に100人以上に取材をさせてもらい、レポートは累計10万字以上になりました。“尾木ママ”こと尾木直樹さんや、和田秀樹先生、早稲田大学の総長をされていた西原春夫先生などにも取材をさせて頂き、取材中、「教育で世の中を変えるんだ」とイキイキと語っておられる方々を目の当たりにして、私も同じ仕事に就きたいと思うようになりました。さらに当時読んでいて一番面白いと思ったのが、東大の教育学部の教授が書いた本だったので、東大の教育学部で学ぼうと決めました。
――在学中には伝統ある海城の制度改革にも乗り出します。
清水章弘氏: 生徒会長を務めていた時に、指定かばんの自由化を実行しました。海城の前身は海軍予備学校だったので、戦時中に使われていたような「白かばん」だったのですが、当時、それを使っていない生徒も少なくありませんでした。生徒会でも10年ぐらい前から「白かばんを変える」という議論は出ていましたが、変わらず続いていたのです。「なんで変わらないのだろう」と不思議に思って観察をしたところ、「言われたことも守れない生徒の主張なんて聞けない」という先生方と、「守られていない校則なんて変えてしまえ」という生徒の対立が問題の根を深くしていることがわかりました。次に、この「白かばん問題」の関係者を分析したところ、先生と生徒だけでなく、保護者(PTA)も深く関わっていることに気がつきました。三者をうまくまとめなければいけません。
まず、私たちがしたことは、毎朝誰よりも早く学校に行き、正門の前で「全員で白かばんを使いましょう」と呼びかけたことでした。「権利を主張する前に義務を果たそう」と。その上で「先生方、お願いします!」と “要望書”を提出しました。PTAの方々にも「どういうかばんが理想的か」というアンケートをとりました。
ただ、それだけでは校則は変わらないと思いました。「外圧」として、近くの整形外科の先生に取材をさせてもらい、“小中学生に対する、骨のゆがみ”に関してレポートを書いて、併せて提出しました。伝統校の厳しい一面もありながら、こんな「やんちゃ」な中学生の声に耳を傾けてくれた海城は、本当に良い学校だと今でも感謝しています。