思考を磨き 正しい判断を
早稲田大学政治経済学部教授を務める経済学者の若田部昌澄さん。専門である経済学史の視点から、現代の経済事象を分析、執筆されています。若田部先生が経済学史から発信する想いとは。
経済学史の曇りなき目
――先生の研究とゼミについて伺います。
若田部昌澄氏: 私はここ早稲田大学で経済学史を専門に研究しています。経済学史とは経済学の歴史、平たく言うと昔の経済学者の本や論文を読むということになりますが、そういう本や論文で書かれていることの内容を理解しなければなりません。経済学史は、まず何よりも相手の主張を理解することから始まります。相手の主張を理解した上で、できるだけ確固たる論理とデータなどに基づき評価、分析をしていくことになります。
私が担当する演習・ゼミでは、こうした分析力・判断力を身につけてもらうための訓練として、ミクロ経済学やマクロ経済学などの専門書だけでなく、話題になっている新書も講読し、書評をほぼ毎週のように課題にしています。ゼミの最初には『論理トレーニング』という、野矢茂樹先生の名著を使い、実際に練習問題を解いていく形式で論理的思考力を身に着けてもらっています。
世の中に存在する“問題”には、答えのあるものとそうでないものがあります。むしろ答えのないものが多い中で、自ら考え解決する力、思考力が問われます。また、別の意見や批判が不在であると、その目は曇り、大まかなレッテル貼りで判断を見誤って“正しい分析”から遠のくことになってしまいます。これから社会へと羽ばたく学生には、その思考力――賛成、反対、批判、意見を、さまざまな情報の中から取捨選択し、論理的に相手に伝える力を養ってもらいます。
父との会話 経済学者への道
――経済学史の研究者になられたのは。
若田部昌澄氏: 私の父も昔、早稲田大学院の修士課程で経済学史を学んでいたため、実家の書棚にはアダム・スミスやデヴィッド・リカード、ジョン・メイナード・ケインズなど過去の経済学者の本がたくさん置かれていました。父は研究者ではなく普通の会社員になっていましたが、家族の会話の中でそうしたことが話題に上っていました。また私はよく新聞を読んでいましたが、そこから社会の問題を考えるきっかけが芽生えていきました。
中学、高校と具体的な将来像は、あまり描いていませんでしたが、歴史や政治の分野に興味を持っていて、世界史に触れる中で、やはり歴史の根本には経済があると思い、まずは経済学を学ぼうと決めました。その後、ずっとそこにいるわけですが(笑)。
――どのような学生生活だったのでしょう。
若田部昌澄氏: 大学では、それまでエンジンがかかっていなかったぶん(笑)、猛烈に「勉強したい」という意識を持っていました。入学してすぐに「政治経済攻究会」というお堅いサークルに入りましたが、「政治経済学部の教授の3分の1がOB」だということで、しっかり学べそうだと思ったのです。
私が学生になった80年代は、今では信じられないぐらい、日本経済が上向きの時代でした。
将来に対する経済的な不安はほとんど感じられず、楽しい空気に満ちていた中で、勉強する学生は変人でした。大学が知的刺激を提供してくれなかったので、「政治経済攻究会」は知的な刺激に飢えた、ちょっと変わった学生の集まりでした。
政治経済攻究会の活動では、経済学の初級テキストからケインズの一般理論まで、いろいろな本を、場合によっては背伸びしながら読み、わからないところを議論し、他大学とのインターゼミナールも活発におこなっていました。当時の政治経済学部の講義はごく一部を除いて経済学を学ぶには役に立たず、そのごく一部の役に立つ講義も濃密ではあるけれどもスピードが遅すぎました。ある経済学入門の講義は、大変緻密でしたが一年間でミクロの独占までしか進みませんでした。今の早稲田大学政治経済学部ならば一年間あればミクロとマクロを一通り終えます。私が経済学を勉強できたのはこのサークルのおかげです。また、提供される講義内容を受け身で習うのではなく、自分の意思で学ぶことの大切さと可能性を感じました。その頃、切磋琢磨した友人とは、今でも付き合いがあります。
3年次の演習、ゼミ選択でその後に続く、経済学史を選択します。日本の場合、経済学が輸入された学問ということもあって、経済学史は、経済学全体を俯瞰する役割を担っていた時代がありました。まだ私の学生時代には多少その名残がありました。経済学にも、労働経済学や公共経済学、財政学に金融論と様々な分野がありますが、どれかひとつに絞れなかった私は、全体を見ることができると考えて経済学史を選んだのです。
当時の学部は、学生に対して教授の数が少なく、提供される科目も限られていて、ゼミに所属できる学生は希望者の半分くらいでしたでしょうか。私の入ったゼミはいわゆる人気ゼミではなく、参加者はわずか4人でしたが、指導教授の上原一男先生からは多くのことを学びました。
経済学史の研究者としての心構えもそのひとつです。経済学史の研究者も経済学者なのだから経済の理論をしっかりと勉強しなくてはいけないこと、日本の社会科学者なのだから日本の現実経済に対して一家言を持つべきこと。けれども結局は経済学史家なのだから、古典をコツコツと読むべし、と。
私自身は経済学の歴史は過去から現在までつながっていると考えていますが、経済学史家が、現代の政策について発言することには、ある種の飛躍があると思っています。けれどもなぜ、領域をまたいで飛躍し、発言をするのか。それにはこうした先生の教えが影響していているからだと思います。
経済学史の役割
――『ネオアベノミクスの論点』では、低成長と格差の時代は終わらせることができるという、力強いメッセージを発信されています。
若田部昌澄氏: 低成長と格差には密接なかかわり合いがあります。たとえばトマ・ピケティの『21世紀の資本』では経済成長をすると格差は縮小するということが書いてあります。この考えが正しいかどうかはともかく、両者の関係は密接です。私は現状のリフレ政策の先にあるもの、次に挑戦すべき課題であると考えています。私自身にさほどユニークな視点があるとは思っていませんが、数ある視点を理解した上で議論を組み立てるよう意識しました。また、かつての「成長と格差」をめぐる論争についても振り返ってみました。今でも成長を優先するか、格差是正を優先するかで論争がありますが、高度成長期の日本にもそういう論争はありました。もちろん完全な俯瞰はありえませんが、例えば本書では「低成長と格差」という事柄についての別の意見や批判は取り入れています。
――問題を切り分けて読み解く。
若田部昌澄氏: 分析とは分けることです。そうすることで「アベノミクス」も、金融緩和、財政出動、成長戦略など、項目を分けることで冷静な判断を下すことが出来ます。たとえば、金融緩和は良いけど、財政出動はそこそこ、成長戦略はだめ、とか。最近では消費税増税もあるので、アベノミクスはまずまず良かったけど、消費税増税はダメだったという評価もできます。
それぞれの項目について、経済学史は、現在一線級の経済学者が研究するものではないという位置づけになりつつありますが、古典には経済学者が長年格闘している論争、たとえばデフレについての答えを提示できる力があると思います。
学者は、自分の研究については新規の学説を唱えるべきですが、一般社会に向けた情報発信は、自説ではなくできるだけ通説を唱えるべきだと思います。例えばケインズが『一般理論』で、最初に「これは専門家向けである」仲間の経済学者に向けている本だと書いています。一般の読者は、そこに参加するのは自由だが、あくまでこれは、基本的には経済学者の間に起きている論争を、終結させるために書いているんだと言っているわけです。これは、専門家向けと一般向けを意識した発言ですね。
社会に向けて情報発信する場合、私は、これまでの歴史の風雪に耐えた経済学の精髄の部分を伝えないといけない、時流を追いかけるのではなく、しっかりとしたタイムスケールで見るものを、ちゃんと伝えなければいけないと考えます。もちろん、風雪に耐えたからと言って、それがいつも正しいとも限らないので、そこは現代を見る目も必要です。
点と点を繋ぐ 本の可能性
――そうした経済学史の研究の成果を、本にまとめられています。
若田部昌澄氏: 最初の単著は自分の研究というよりも、むしろ一般に向けた本ですね。まとめることになった大きなきっかけは、猪瀬直樹さんが主宰されている『日本国の研究』というメールマガジンでした。当初、猪瀬さんに相談を受けたのが、田中秀臣さんで、彼は私とは大学院での同門でした。
田中さんのつてで猪瀬さんにお声をかけて頂き、『エコノミクスの考古学』という形で発信するようになったのですが、このときに今の原型である、経済学史から現代に向けた発言というコンセプトができました。
――『経済学者たちの闘い』となり、さらに数々の受賞作へと続きます。
若田部昌澄氏: この本では、内輪の学者ではなく、一般社会に向けて書くということで、まず興味を持ってもらうように、導入部、つかみを非常に意識しました。自分の考えを、そうした形でまとめ凝縮する過程は非常に新鮮でした。この本は、10 年後の2013年に増補版として刊行されました。
執筆の過程において、編集者は常に重要な役割を担ってくれました。プロデューサーであり、マネージャーであり、最初の読者でもあります。感想、評価をしっかりして言ってくれる編集者はありがたいですね。そのリアクションに対して、しっかりと対応したいと思っています。今では出来上がった原稿は事前に妻が読んでくれるのですが「ここ、よくわからないよ!」と相当な数の指摘を受け、書き直しています(笑)。
上原一男先生のゼミでは外国の経済学史の研究書を翻訳させられることが多かったのですが、翻訳した文章には徹底的に赤を入れられました。経済の勉強をしているんだか、日本語の勉強をしているんだか……(笑)、よく分からない時期もありましたが、あれは「人に伝える文章を書く」訓練をしていたんだと、今になって思いますね。
スティーブ・ジョブズが2005年のスタンフォード大学卒業式で行った有名な演説で言っていたように、人生は「点」と「点」をつないでいくこと――コネクティング・ドッツです。ただ「点」はどういう形で、どこに繋がるか分かりません。
経済学という学問は、制約条件の元で自分にとって一番望ましい選択肢を選ぶ、選択の科学とも言われます。けれども正直、制約条件も、自分にとって望ましいこともよく分からないところがあります。だからといって経済学に意味がないわけではない。むしろ、経済学は、選択は難しい、制約条件や目標は何かを一生懸命考えなくてはいけないということを教えてくれると思うのです。
本も同様に、「点」のようなものです。手に取ること自体、偶然なのか必然なのか、その時点では分かりませんが、必ずどこかの「点」につながっていくのです。ですから、読んできた本もこれから読む本も、興味の如何を問わず、人生の一部だと思っています。
――こちらの書棚にも「人生の一部」となった、色々な本が見受けられます。
若田部昌澄氏: 学生の時に真剣に読んだ本といえば中公文庫の『国富論』ですね。挿絵も入っていたりして工夫がされています。もっとも、通読は痛読に近かった思い出があります(笑)。岩波文庫では、『ケネーの経済表』や、ウイリアム・モリスの『ユートピアだより』ですね。ユートピア文学は、ある種の社会批評でもあり、社会科学というか反社会科学なので気になります。ラス・カサスの『インディアスの破壊についての簡潔な報告』も、社会科学の古典ですし、非常に重要な告発文です。このラス・カサスが出たサラマンカ大学のサラマンカ学派は初期の経済学学派のひとつで、物価革命、貨幣数量説の話につながってきます。こうした古典は、歯ごたえのある分だけ、うまく消化すれば、おおいに血肉となります。もちろん古典だけでなく、新たな本を積極的に読むことで、新たな「点」も目指したいと思っています。
チャレンジで自らの人生を切り拓く
若田部昌澄氏: 私は、今年50歳になりますが、そうなると人生の残り時間を意識せざるをえません。どう生きていくか。ためになる人生訓は世の中にたくさんありますが、人は他人の人生を生きられません。自分の人生を生きるために何が出来るか。そういうことを考えています。
『The Oxford Book of Ages』という、過去の文学者や哲学者が、各年代について述べている面白い本があります。“50歳”については、「誰もが自分に相応の顔をもつ」という表現が載っています(ジョージ・オーウェル)。「50歳の誕生日は無視すべきだ、ここまでやってきたことの貧しさと、これからやれることの少なさに、愕然とする」という言葉もあります(フィリップ・ラーキン)。
けれども、嘆いてばかりいても仕方ありません。人間年をとって肉体は衰えても知的、精神的には、いつもチャレンジができます。退嬰的保守的になってしまえば、成長はありません。経済だけでなく、私は成長が好きなのです(笑)。とはいえ、さすがに田中秀臣さんの『 AKB48の経済学』のような発信ができるほど、私の関心は広くありませんが、方向を定めつつもアンテナは広げたいと思っています。そして、これからも成長を止めずに、研究、執筆に限らず新たなチャレンジをし続けたいと思います。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 若田部昌澄 』