枝廣淳子

Profile

1962年生まれ、京都府出身。東京大学大学院教育心理学専攻修士課程修了。2年間の米国生活をきっかけに29才から英語の勉強をはじめ、同時通訳者・翻訳者・環境ジャーナリストとなる。環境問題に関する国内外の動き、新しい経済や社会のあり方、幸福度、レジリエンス(しなやかな強さ)を高めるための考え方や事例等、伝えることで変化を創り、つながりと対話で、しなやかに強く幸せな未来の共創をめざす。著訳書に『不都合な真実』(ランダムハウス講談社)、『レジリエンスとは何か―何があっても折れないこころ、暮らし、地域、社会をつくる』(東洋経済新報社)、『世界はシステムで動く』(英治出版)など。

Book Information

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レジリエンスで社会を変える



東京都市大学環境学部教授で環境ジャーナリスト、翻訳家の枝廣淳子さん。環境問題に関する講演、執筆、翻訳等の活動を通じて行動変容と広げる仕組み作りを研究されています。レジリエンス=しなやかな強さで、数々の挑戦を重ね、今の活動へと繋げられてきました。「その時々の気づきや想いを、次代につなげていきたい」という枝廣先生の想いを伺ってきました。

現場へ飛び出そう


――枝廣先生のブログで、風力発電所の写真を拝見しました。


枝廣淳子氏: 9月に世界の持続可能性のシステム思考を研究しているグループの大きな集まりがあったのですが、事前にフランスでおこなわれる運営委員会に出席していました。プログラムの選定や、途上国の奨学生の選抜や、実務者レベルの打ち合わせも多かったですね。フランスには1週間くらい滞在していましたが、日本のように朝から晩まで仕事という文化でもないので、午前中は真面目にみんなで会議して、お昼休みは割と長めに時間をとります。そして夕方に終わって、それからはそれぞれ好きなように過ごしていました。その時に撮った写真ですね。

私たちは色々なことに対して、「こういうものだ」という先入観を持ってしまいがちで、フランスにおいても原発大国というイメージで伝えられがちです。確かにフランスは原子力発電の割合が75%を占めており、その点から見ると原発大国という表現は間違っていませんが、実際に行ってみると、風力発電所の写真のように風車も多く建っていて、「今は75%の原発比率を、50%まで低下する」目標を出しています。固定化されたイメージに捕らわれず現状を把握するには、やはり現場に足を運ぶのが有効な手段だと思います。

――第一期が始まった枝廣ゼミのスローガンにも「飛び出せ、エダヒロ研」とあります。


枝廣淳子氏: 私がこの大学に赴任させて頂いたのは「社会を変えられる人を、ひとりでも増やしたい」という想いからでした。枠の中に閉じこもったままでは、社会を変えることはできません。やはり外に出て、皆でプロジェクトを実行しながら、進め方や社会を変える方法を考え、手応えを感じながら進めていきたいという想いから、「飛び出せ!」と言っています(笑)。

ただ、社会を変えるためには“基礎的な力”も必要です。例えば「自然エネルギーが環境に良い」ということを示すためには、自分たちが理解するだけでなく、それを伝えたり合意形成を進める力も欠かせません。そうした基礎力を養うために、枝廣研では「読む・書く・話す・聞く力」を徹底的に鍛えます。第一回は『思考の整理学』という本の中から、「エッセイを400字で要約する」という課題を出しました。次は、それに自分の考察を加えて、再び400字にまとめました。課題提出時に学生に読書量を問うと、けっして多いとは言えませんでした。「数ページのエッセイを読むのも、大変だ」と言っていましたが、この2年間でどのくらい成長してくれるか楽しみです。情報に触れる窓口は増えているので一概に読書量だけでは計れませんが、やはりそれでも私たちの頃に比べて、“読む”機会は少なくなってきているように思えます。



「野生児生活」で学んだ自然の“恵み”と“確かさ”



枝廣淳子氏: 私の家は、父の仕事の関係で転勤族でした。京都で生まれ、その後は宮城県の田舎の方、それから名古屋に住んでいました。京都に住んでいたころは「大きくなったら舞妓さんになる」と言っていたそうですが、宮城で外で遊んで真っ黒に日焼けしてからは、舞妓さんの夢は諦めました(笑)。

けれども、その宮城での野生児生活が、今の私のベースになっています。子どもたちは、山にそれぞれの秘密基地を持っていましたが、私の“基地”では、春になると必ずふきのとうが生えてきました。そこから毎年生えてくるという “自然の確かさ”を学びました。

ある日、両親が好きだったタラの芽を発見し、高い木によじ上って枝をポキっと折って、家に持ち帰ったことがありました。両親も喜んでくれ、皆で天ぷらにして食べました。けれども、次の年は、枝を折ってしまったがため、タラの芽にありつけることはありませんでした。「持続可能性」ということを意識するきっかけでしたね。

舞妓さんを諦めすっかり野生児と化した私でしたが、小学校の卒業文集に書いた将来の夢は「作家」でした。うちはあまり裕福ではなかったのですが、母は「本は大事だ」と、よく買ってくれました。今でも覚えているのが、赤い背表紙で全24巻の『少年少女世界文学全集』です。そらで言えるくらい繰り返し読みました。晴れの日は外で遊び、雨の日は本を読む。本を読むと書く力もつきます。本の虫になってからは、作文も好きになりました。このことは、のちの方向性に大きく関わっていると思います。

―― その頃の“晴遊雨読”が、基になっているんですね。


枝廣淳子氏: 母に感謝しています。母は兄弟を大学にやるために自分は高卒で働きに出ました。自分が思うように勉強することができなかった分、「子どもには勉強をさせてあげたい」という気持ちが強かったようです。けれどもそれを「教育ママ」という形で発揮することはせず、独特の教育観で育ててくれました。小学校の時などは、私は家で勉強をすることができなかったんですよ。宿題が出ても「勉強は学校でするものだ。家に帰ってきたら外で遊びなさい」と怒られましたから(笑)。それで宿題は、授業が終わった後に学校でやるか、帰り道にどこかでやるようにしていました。

久しぶりに遊びに来た叔母に「何が欲しい?」と聞かれ、「学習ドリルが欲しい」とねだったのも、母から禁止されていた「学習ドリル」を持つ友だちが羨ましくて仕方がなかったからです。一事が万事、私の性格に合わせて見てくれていたように思います。成績が芳しくない時には「あなたの持っている力はそんなものじゃないでしょ?持てる力を発揮するのは、力を持っている人の義務だよ」と。そんな諭し方をする母でしたね。

その後、名古屋から川崎へ引っ越し、こちらに住むことになりますが、中学から引き続き、体育会系の軟式テニスをやっていて、高校時代もテニス一色でしたので、受験勉強を本格的に始めたのは、高3の夏ぐらいでした。「もう後がない」と短期集中型でやることに。今は「バックキャスティング」などと言われますが、目標と自分の今いる位置を把握することが大切ですね。そうやって苦手なものを克服して、なんとか東大へと進みました。

挑戦を重ねて 繋がる問題意識



枝廣淳子氏: 教養課程では、色々な心の動きを解明できる一つのフレームである心理学と出会い、その面白さを感じました。3年時には教育心理を選び「カウンセラーになろう」と臨床心理を学びました。当時カウンセラーになるには、修士もしくは博士に進むのがセオリーでしたが、大学で理論を学んだだけの人間に、社会の苦しみが理解できるのか、解決できるのか。私はしだいに大きな疑問を感じるようになりました。修士までは進みましたが、修士2年の秋に、一度社会に出ることにしました。

院卒で、女性で、学生結婚という状態の私を採用してくれたのが、サンマークという会社でした。幼児用教材の訪問販売の営業職の募集に応募したのですが、私は開発部で採用されました。しかし、採用担当の役員の方が異動になり、社会人のスタートは訪問販売の営業から始まりました。地図と名簿を渡されて、訪問販売につなげるためのアンケートをとりにまわりました。

つらいことも多く心が折れそうになりましたが、すごく勉強になりました。4年後の29歳の時に、夫の留学でアメリカに行くことになり、退職しなければならなくなりましたが、懇意にしていただいた部長から「アメリカ支局長」に任命され、現地の新聞や雑誌を見て、日本関係の情報をレポートする仕事を頂きました。苦手だった英語も克服しながら、レポートを毎月提出していたことが、のちの同時通訳者という仕事に繋がります。

それまで、英語は大の苦手でしたが「一生、英語コンプレックスを引きずるのもしんどいから、2年間頑張ってみよう。どうせやるんだったら、同時通訳者を目指そう」と決心をしました。
当初は、英語のスピードの速さに驚きましたが、聴覚障害者向けのキャプションを活用して、リスニングを鍛えました。最初は“Clinton(クリントン)”という固有名詞しかわからなかったのが、だんだんとわかるようになってきました。

帰国後に、通訳の仕事を始めました。通訳者には一定の仕事場はなく、コンピューターの会議から政府間交渉まで様々でした。その中でも特に興味深かったのが、環境会議の通訳の仕事です。環境問題は、人間の私利私欲で起こる一方で、その問題解決には「人類のため、未来世代のため」と考える人たちがいます。そうした人間の善悪がせめぎ合うことに興味を覚えました。

環境問題の通訳をするようになったのは、当時愛読していた『地球白書』の版元であるワールドウォッチ研究所に直接、ボランティアの押し売りとも言えるハガキを駄目元で出したことがきっかけでした。ハガキを出したのも忘れかけていた頃、「レスター・ブラウン(アメリカの思想家、環境活動家)の来日にあわせて、アテンドをやってくれないか」と連絡がきたんです。環境の通訳をメーンにするようになったのは、そこからですね。

通訳は、ただ訳すだけでなく、その分野について勉強する必要があります。当時は、温暖化問題に入る前で、“Global warming(グローバルウォーミング)”という言葉を、日本語で何と訳すか、環境省の担当者と相談したりもしていました。



こうして、通訳で色々と見聞きしたことや、それについて調べたことを、「自分ひとりにとどめておくのはもったいない!」とメーリングリストで流すようになりました。当初18人に「時々情報を送信します」と始まったこの活動も「最初、時々って言ったのに、毎日くるじゃん」というクレームも頂くまでになり (笑)、次第に読者も増え、新聞から寄稿を依頼されたりと、活動が広がってきました。

――挑戦を重ねられます。


枝廣淳子氏: そこから出版にも繋がってきます。最初のメールニュースをまとめた本は、出版社の方がたまたまメールを読んでいらしたのがきっかけです。本ならば、自分の寿命よりも長い間、読んでもらえるだろうと思いました。環境問題にあまり興味のない人に、この問題の大切さをわかってほしいという想いで書きましたが、評判を得たのは環境問題に関心のある方からでした。

無関心に届ける「トロイの木馬作戦」



枝廣淳子氏: 次に出した本は『朝2時起きで、なんでもできる!』というタイトルで編集者から提案頂いたものでした。題名通り環境とは関係のないもので、当初の希望とは違いましたが、結果的に “環境”関連の書棚、コーナーに置かれなかったことで、逆に関心の薄い人々に届けることが出来ました。自分が一番届けたいと思う人は、そこにまだ関心のない人です。特に環境という分野は、そういう人にこそ届ける必要があります。

このとき、私は編集者に学びました。編集者には、すでにある概念とこちらのコンテンツを上手に料理して出してくれるタイプと、自分では気づいていない、世の中に何か提供できるものを見つけて引っ張り出してくれる二つのタイプがいますが、まさに前者のタイプの方でした。『レジリエンスとは何か』のようにこちらから提案する場合もあれば、「これまであまりなかったジャンルだけど、社会にとって大事だから出しましょう」と、共同作業をしてくれるような編集者の方もいらっしゃいます。そういう方と仕事をするのは楽しいです。

――『レジリエンスとは何か』は、新たなジャンルに分類されます。


枝廣淳子氏: レジリエンスという言葉に最初に出会ったのは、10年以上前だったと思います。「これは日本にも、私にも必要だ」と感じて、研究していました。ある程度資料もまとまり、社会の機運も熟してきたところで、少しずつ書き進めていきました。最初はコンセプトだけで、編集者に話をしようかなと思いましたが、新しいジャンルだし難しいだろうなと思ったので、初めて、全部原稿を書いてから出版社を探すことにしました。こうして本になるまで2年かかりました。

「レジリエンス」とは、強い風にも重い雪にも、ぽきっと折れることなく、しなってまた元の姿に戻る竹のように、「何かあっても立ち直れる力」のことで、私はよく「しなやかな強さ」と訳します。レジリエンスの入門書である本書では、もともと生態系と心理学の分野で発展してきたレジリエンスの考え方や、そこから教育、防災や地域づくり、温暖化対策など、さまざまな分野で広がる取り組みをみていき、人生と暮らしのレジリエンスを高めるための考え方を紹介しています。

先の見えない激動の時代をたくましく、しなやかに強く生き抜いていくためには、ひとり一人も家庭も、組織も、地域も社会も、レジリエンスの強化を考え、実行していくことがとても大事です。今回の『レジリエンスとは何か』もそうですが、非常に大事だけれど難しいものを、わかりやすく手渡せていけたらと思います。

社会のつなぎ役として


――活動や想いを手渡し、つなげられていきます。


枝廣淳子氏: 私は自分のことを、つなぎ役だと思っています。今、社会を変えられる人を育てることに関して、今いくつか企業との共同プロジェクトを計画していますが、その過程を本にすることで、次代へとつながっていってほしいと思っています。

15年前に、今の自分は想像できませんでした。だから15年後の私というものはわかりませんが、基本的に、未来世代も含めた今の時代において大事なものを掴んで、それをわかりやすく伝えて、皆さんを巻き込んで(笑)……違いや変化を生み出していくのは変わらないと思います。新しい分野だから色々なことが試せるし、やって失うものは何もありません。

私は人生のピークを90代に持っていく予定なので、そこを目指して、まだまだ勉強しないといけません。10年前、取材を受けた時に「まだ、やりたいことの3%くらいしかやっていません」という話をしましたが、やりたいことはどんどん増えていくので、10年経った今でも、3%のままです。死ぬ時も「3%」と言うかもしれませんが、それもすごく幸せな人生だなと思います。

(聞き手:沖中幸太郎)

著書一覧『 枝廣淳子

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