小林公夫

Profile

1956年生まれ、東京都出身。一橋大学大学院法学研究科博士後期課程修了。法学博士(一橋大学)。桜美林大学北東アジア総合研究所客員研究員。 専門は刑法、医事法、生命倫理であるが、各種難関受験教育のエキスパートでもある。 著書に『「勉強しろ」と言わずに子供を勉強させる法』『「勉強しろ」と言わずに子供を勉強させる言葉』(PHP研究所)、『公立中高一貫校』(筑摩書房)、『高学歴な親はなぜ子育てに失敗するのか』(中央公論新社)、『一般教養の天才』(早稲田経営出版)、『医学部の面接』、『医学部の実戦小論文』(教学社)、『治療行為の正当化原理』(日本評論社)などがある。医学部受験に関する新書が祥伝社より年内に発売予定。

Book Information

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己の見極め 山本譲二さんに引導を渡される!?



小林公夫氏: 時はたち大学に進むのですが、第一志望とは違う進路に進み不本意だった私は、あまり学校になじめませんでした。ただ、単位にならない講義でも興味があれば出席する……そんな学生でした。それ以外の時間は、教えることが好きだったので家庭教師をしていましたね。
大学3年生になると、今後の人生の身の振り方を考えさせられる衝撃的な体験をします。その頃、フォークソング同好会に所属しており、ちょっとは歌えるかもと素人参加型のテレビ番組に出場しようと考えていました。『全日本歌謡選手権』という日本テレビ系列の番組で、10週勝ち抜くと歌手になれるというものでした。私はなにを勘違いしたのか、1週ぐらいなら勝ち抜けるかもしれない、記念に出てみようと思っていたのです。
ところが、ある日、長髪の濃いお顔の……伊達春樹という出場者が、細川たかしさんの「心のこり」を歌っているのを聴いてその歌声に驚愕しました。まず、登場の際の顔つきが違っていました。このコンテストにかける思いや、背水の陣という言葉を感じさせる何かが体全体から漂っていました。勝ち抜いて進む出場者の平均が70点そこそこのなかで、彼の点数はダントツの87点。
もうビックリしまして、あまりの上手さに感動すら覚えました。こんな素人がいるのかと驚き(実際はプロが再挑戦していたわけですが)、それから一切、冗談でも出場を口にすることはなくなりました。その伊達春樹という出場者は、のちの山本譲二さんでした。

――期せずして、歌声を山本譲二さんと比べてしまうことに。


小林公夫氏: こちらは素人で相手はプロという状況でしたが、若いうちにこうした自分を凌駕する存在に出会うという体験は、とても大切だと思います。勉強でも、スポーツでも同じです。そういう体験の中で自分のやれることとやれないことを見極め、やれる中で最大限努力をしていかなければなりません。

――小林先生は、どこにその場を定められたのでしょう。


小林公夫氏: そういう体験をしてしまった訳ですから、せめて就職だけは第二志望のままで終わりたくない、打倒 東大生という感じで、高倍率でも興味のあったマスコミを志望していました。
しかし、そこでもなかなか思うようにいきませんでした。大学4年次は膨大な部数を誇る少年誌を発行する神保町の出版社を受けましたが、最終面接でダメでした。面接で「マンガに全く興味がありません」と言ってしまいました。面接の担当役員から「マンガに興味がないのにウチを受けるとはどういう了見だ」と言われてしまい、30人の最終候補から15人には残れませんでした。1年間マスコミ留年を経験し最終的には博報堂、日本短波放送(現ラジオNIKKEI)、主婦の友社と内定を頂いた中で、主婦の友社に入社しました。博報堂については入社していたらどういう人生だったろうと今も考えることがあります。ただ、創業者の末裔の方のご推薦で受験しておりましたので、これで良いのかと、心のどこかに引っかかりがありました。

激動のサラリーマン時代



小林公夫氏: 風変わりな新入社員で、指示を受けても「もっとこうしたほうが良い」とか、そのまま考えずに実行することが出来ないところがありました。個性は強かったと思います。ただ、そんな私を評価してくれる上司もおりました。不思議なことに私を評価してくれた二人の上司は、その後、二人とも社長になりました。ちょっと変わった人間も組織の中で生かす、普通とは違う方法論を採っていたのかもしれません。普通ならばクビ候補でしたから(笑)。

――信念を見極めてくれる上司がいて。


小林公夫氏: そのおかげで、10年近くの在籍期間に、多くのことを学ばせて頂きました。医学事典の編集がしたかったのですが、会社では、書籍は先輩方が担当するようになっていたので、未だ若い私は雑誌をやるように言われました。退職の数年前はファッション誌を担当しており、『Ray』の創刊時には、創刊プロジェクトの企画チーフとしてとりまとめを任されました。
楽しく働いていたのですが、勉強が好きで、だんだんと教育に対する熱が湧きあがり、押さえることが出来なくなりました。そこから会社が終わってから、自宅で3~4時間勉強をするようになります。仕事の合間を縫っての勉強で、疲労が貯まりすぎて眠ったと思ったら朝が来るような生活でした。そうした生活を送りながらも、社長賞を頂いたことで、ある程度会社に恩を返せたと区切りをつけ、新たな道へと進みます。もう時効ですからお話しすると、退職する半年くらい前には、会社の上層部から編集長をやらないかとの打診もありました。有難いお話ですが、未だ若い身の上でもったいない話であり決心がつきませんでした。
会社を辞める時は、食えなくなる心配よりも、何とか食えるだろうと楽観的な思いのほうが勝っていましたね。とにかく、自分のやりたいことが出来ることが嬉しくて、ここからまた人生のやり直しだけれど、頑張ろうと意気揚々としていました。
W早稲田セミナー(現:TAC)の講師募集が朝日新聞に掲載されていて、それに応募したところから新たな歯車がまわり始めました。マスコミ人として壇上で1時間話すというもので、気軽に応募したら採用されました。当日、聴衆は5、6人くらいだろうと思っていたのですが、講義室に足を踏み入れて度肝を抜かれました。そこには大学生が200人ぐらい集まっていたのです。その時は頭がクラクラし、今日はこれまでの人生で最も恥をかく日だと覚悟をして腹を決め臨みました。ダメなら土下座して帰ろうと……。

――背水の陣を敷いて臨んだ結果は……。


小林公夫氏: 意外にも観衆のウケは良く、笑いもとれました。出版社でどういう仕事をしてきたか、という話題を中心にお話ししたのですが、気がつけば1時間が経っていました。その後一週間ぐらいして、予備校側から、定期的な仕事のオファーを頂くことになりました。そこから、社会人第二弾、W早稲田セミナー講師編がスタートしました。

著書一覧『 小林公夫

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