岩井俊憲

Profile

1947年、栃木県生まれ。早稲田大学卒業、外資系企業に勤務(営業課長、人事課長、総合企画室課長などを歴任)等を経て、1985年、有限会社 ヒューマン・ギルドを設立、代表取締役に就任。現在に至る。アドラー心理学を中心にカウンセリングやカウンセラー養成、各種研修を行っている。中小企業診断士。上級教育カウンセラー、アドラー心理学カウンセリング指導者 著書に『アドラー流 人をHappyにする話し方』(三笠書房)、『親と子のアドラー心理学 勇気づけて共に育つ』(キノブックス)、『アドラー心理学が教える 新しい自分の創めかた』(学研パブリッシング)など。『マンガでやさしくわかるアドラー心理学』(日本能率協会マネジメントセンター)等のシリーズも。

Book Information

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未来志向で生きていく



「未来志向で生きていく」――30年以上にわたり、アドラー心理学に基づく勇気づけやリーダーシップ、コミュニケーションの研修を通じて「人生を豊かにする方法」を伝えているヒューマン・ギルド代表の岩井俊憲さん。言行一致をモットーにする岩井さんの未来志向の源とは。幼少期から今までの歩みを辿りながら、その想いを伺ってきました。

30年歩み続けた アドラー心理学の実践者


――ヒューマン・ギルドのお取り組みについて伺います。


岩井俊憲氏: 21世紀の人間(ヒューマン)の幸せと進歩発展を目指す専門家集団(ギルド)から成っています。

Cカウンセリング(個人)、Cコンサルティング(企業)、Eエデュケーション(個人および組織)このCCEの中で、アドラー心理学を用いてカウンセリングや、各種講座の企画を実施しています。

わたしたちヒューマン・ギルドは、研修・講演に関してユニークさを提供しています。「勇気」「やる気」「活気」「元気」「本気」「根気」(五つの「気」)を高めるもので、「よかった」「感動した」の言葉を感想に書きながら、一週間もすると元の状態に戻り、日常生活に何の変化ももたらさないようなものではなく、効果が持続し、真の意識改革・行動変革をもたらす研修です。

アドラー心理学を中心とした心理学的なバックグラウンドを有するヒューマン・ギルドの講師陣は、その場が楽しく表面的に、ためになるような研修を超えて、効果が持続し、意識改革・行動変革につながる研修を提供しています。さらには、「勇気欠乏症」のこの時代に必要な「勇気」「やる気」「活気」「元気」「本気」「根気」を確実に高める研修を展開し実績を上げています。

今では北は北海道、南は沖縄まで1,300名の会員の皆様が、ヒューマン・ギルドの趣旨に賛同してくれています。

――ヒューマン・ギルドが設立されて30年が経ちます。


岩井俊憲氏: 今から30年前、過去の負の経験を背負い込んで生きている人が、あまりに多いと感じた、世の中への違和感からヒューマン・ギルドは始まりました。

過去の物語の中に生きている人は、生き方を複雑にしてしまいます。アレが悪かったコレが悪かった……と「悪かったオンパレード」になり、自己への否定に繋がります。アドラー心理学では、目的論の自己決定性を突き詰め、過去の出来事や社会の事象を原因にはせず、全て責任を自分に帰属して考えます。自分に帰属した責任をどう果たしていくのかが、「使命」につながるのです。

私自身、サラリーマンを辞め事業を興したのも、やはりアドラー心理学の、未来志向のシンプルな生き方が影響したからです。「何をしたいのか、そのために何が出来るか」自分の可能性を追求していくと、一点に集約されます。

一日の始まりと終わりには「菩薩道を実践するための愛と知恵と勇気と富と健康をお授かりしていることに感謝します」という風に唱えています。本当は菩薩道を実践するための愛もなければ知恵も、勇気と富と健康もない、ないないシリーズだけれど……あると決めるのです。未来志向で進んで行けば、条件はどんどん備わってくるのです。

「アズイフ(as if)の哲学」と言っていますが、心理学を自分の生き方に取り入れ、まるで自分があたかもそうであるように「決めてしまう」。そうすると、必要なものは後からついてくるのです。反対に決めてしまわなければ、何かと理由が出てきて一生懸命足を引っ張ります。終わった事は、取り戻せない。それよりは未来の、既にもう起きたかのごとく見る未来、これが自分を方向付けていくのです。

門前の小僧 人間の陰陽を読み解く


――岩井さんはどのようにして、未来を方向付けてきたのでしょう。


岩井俊憲氏: 私は、栃木の比較的裕福な家の5人きょうだいの末っ子として生まれました。地元の有力者である父の元には、色々な人がやって来ました。幼い頃、私はそんな父の元にやってくる人間を観察するのが大好きでした。
この人凄いなぁとか、あの人ほんとはアホだなぁとか……(笑)、本質を見抜く訓練をおのずとしていましたね。そうして、わからないはずの大人の会話をこっそり聞きながら、人間とは、経営とはというようなことを考えていた子どもでした。

図らずも人間の陰陽を覗いてしまったことで、その後の思考に深く影響を及ぼしたように思います。また、中学2年生の時に姉から新潮社の『日本文学全集』を丸ごと譲り受けたことで、武者小路実篤を読むようになり、彼の楽天主義、人道主義に大きな感銘を受けました。



小説もまた、アドラーが言うように物事を「相手の目で見、相手の耳で聞き、相手の心で感じる」共感力を磨くことに繋がります。小説には色々な人物が登場しますが、彼/彼女らが織りなす物語を、まるで自分もまた主人公のひとりになったかのように、想像するのです。だから『友情』を読んだ時は、自分が失恋したような感じになりました(笑)。そうして読書によって、私は知らない出来事を仮想、擬似的に体験していました。

また小説だけでなく、上に兄たちが沢山いたので、年齢よりも上の本が、家にはたくさんありました。高校2年生の頃には、光文社のカッパブックスシリーズで、社会学入門、心理学入門、文学入門、小説入門と読み漁っていました。

――領域にも縛られず、自由な読書をされています。


岩井俊憲氏: 父も母も本が好きで、家人は皆よく読んでいました。また「本」に関しては、小遣いとは特別の予算枠があり、本だったらいくらでも買ってよいということになっていました。兄たちは、百科事典や科学全集などの高価なシリーズものをまとめて買っていましたね。

それはのちの読書の姿勢にも影響を与えて、例えばビジネス書など特定の分野を学ぶ時は、まず関連するものを一気に読み進める様になりました。それが「何かを突き進めて行く」というポリシーにも繋がっていきました。

読書で“周辺領域”を広げる


――これと決めたら徹底的に。


岩井俊憲氏: その繰り返しで、読書によって徐々に知識を吸収し、自分の領域を広げてきました。アンテナが広がっていくような感じです。高校1年の時に、急性腎炎で入院したのですが、その頃日記をつけていました。そこには、一日の出来事と一緒に読んだ本を書いておくのです。入院自体は1ヶ月ほどでしたが、閉ざされた空間で、外界とのつながりは唯一小説でしたから、貪るように読みました。それがクセとなり、その年に読んだ本は276冊と、ほぼ1日1冊の読書ペースが出来上がったのです。

もっとも中学生のころから(恥ずかしくて誰にも言っていませんでしたが)、作家になりたいと思っていました。授業中、外を眺めながらストーリーを妄想する少年でしたね。そんなわけでずっと身近に本があり、読書が生活の一部になっていたので、将来、文学か哲学か心理学の道に進もうと考えていました。

突然の倒産 度重なる不運を楽天思考で乗越える



岩井俊憲氏: ところが、私が大学に入ろうとした頃、父親の会社がだんだん傾いてきました。「父親の会社は俺がなんとかしなければ」と志望先を文学部から一転、経営の知識を身につけるため早稲田の商学部に入りました。

文学の道は諦めましたが、せっかく進んだ道です。大学時代は、とにかく勉強しました。講義に出席するのはもちろんですが(結構みんなサボるのです)、授業の合間も図書館で勉強していました。

――お父様の会社をもち直すために、勉強に打ち込まれます。


岩井俊憲氏: しかし、とどめの一発がやってきました。傾きつつもなんとかもっていた会社が、火事にあったのです。2つのうちの1つの工場が、ほぼ全焼しました。ちょうど火災保険の更新の隙間に起きたので、十分な補償も得られず、ついに倒産しました。それまで家に来ていた客人たちが、手のひらを返したように父親に詰め寄りました。人の変わって行く様を目の当たりにしてしまいましたね。

けれども悲観する暇もなく、母親からは、なけなしの貯金を渡され「あとはなんとかするように」と言われました。当面のお金はそれで何とかなったものの、先々まで考えるととても足りませんでした。長期の休みには学費や生活費を稼ぐために、アルバイトを3つ掛け持ちしていました。昼は長兄が新しく興した会社で職工さんをやり、夕方から家庭教師、さらに夜は警備員をやっていました。

そうしてなんとか大学での学業も無事修めることができました。本当は大学院に進んでさらに学びたかったのですが、そうした経済状況から両親に頼ることは出来ず、ギリギリまで悩んだ末に就職活動を開始したのは、4年の12月のことでした。

――早くは……ないですね。


岩井俊憲氏: まわりはみんな内定を貰っていて、卒業旅行の行き先も決まっている段階ですよ(笑)。どうしたものかと思いましたが、ある日、毎日新聞を眺めていたら「従業員募集、新卒も可」という外資系企業の求人広告が目に留まりました。何も考えずに「これだ!」と思って応募し、大学4年生だけれども、就職先がないのでお願いしますと……それで入社できました。それが私の、社会人第一歩でした。

“第二志望”から見出した「道」


――なんとか無事に社会へと漕ぎ出しました。


岩井俊憲氏: せっかく入社できた会社でしたが、実は早く辞めようと考えていました。というのも就職の第一志望は、あるコンサルタント会社だったのですが、落ちてしまっていて……ですから、そこで働きつつもいつかは描いていた道にと思っていました。コンサルティングをおこなう上で、重要な資格であった「中小企業診断士」は大学時代から勉強していたので、就職した2年目、23歳の時に当時、最年少で合格しました。そこでサラリーマン時代は、3年間と決めました。

企画・人事・経理の志望順位で入社した会社でしたが、ふたを開けてみると、もっとも行きたくないと思っていた営業の部署に配属されました。最初の研修から1ヶ月後、上司の命令でレポートを書いたのですが、よほど腑に落ちなかったんでしょう。題名には『○○社7つの大罪』と書いて提出してしまいました(笑)。

――すごい新入社員ですね……(笑)。


岩井俊憲氏: コスト意識がないとか、方針も不明確だとかもう徹底的に書きました。それなりに非難で終わらないように、批判を書いたつもりでした。ところが精魂込めて書いたレポートは、何のフィードバックもなく、うやむやに。やはり辞めようと決意を固くしたところで、突然営業部長が変わりました。

新しい部長に、その状況を伝えると次の日に、その上司は的確なフィードバックを返してくれました。もちろん自分の浅い部分はしっかりと指摘もしてくれました。彼は東大法学部卒で、コロンビア大学に留学しマーケティングを修めてきた人物でしたが、当初の目標であった弁護士にならずに、その会社に入ったという経緯を知りました。

その上司は私に「第二志望の人生」という話をしてくれました。三鬼陽之助という財界評論家から聞いた話ということで「財界人の多くは、夢破れて第二志望の人生を送っている。そんな彼らに共通するのは、ライバルが第一志望の自分だと。そうやって、第二志望にいても、負けるものかと奮い立たせていた。そして、確かに第二志望だけど、その中に道がある、自分で選んだ道で挫折の道ではない、新たな可能性の道なのだ。そこで努力を重ねて今日の地位を築いていったのだ。」と、そういう話をしてくれたのです。

私もその頃、第一志望ではない人生を生きていたものですから、大きな衝撃を受けました。
結局、その上司は、その後40歳を過ぎて司法試験を受けて、弁護士になりました。

――岩井さんは、その後何をライバルにして第一志望に向かったのでしょう。


岩井俊憲氏: 私の第一志望は、最初に思い描いていた心理学、哲学でした。その会社で管理職まで務めたあとも、その第一志望をライバルに、想いを持ち続けていました。

実はその会社をやめる時に、私は3つのものをいっぺんに失いました。ひとつは仕事です。私は実はリストラの首謀者でシナリオライターだったんです。この会社は生き残れない、生き残れない、そのために従業員の半分を首切りしなくちゃいけない。総合企画室の課長だった私は社長に提言して、リストラを断行していったわけですね。当の本人が居座るのもおかしいと思い、社員の再就職の斡旋などが一段落して自分も辞めました。また家族も失いました。離婚する前に、一時期シングルファーザーとなりましたが、その後財産も子どももすべて渡し、ひとりになりました。1983年3月のことでした。

そこで人生を一度リセット。今までの経験が全くいきない世界で生き抜こうと決心したんです。その頃に知り合った僧侶の方の元で修行したことで、不登校の子どもとの付き合いが始まりました。

その頃、ボランティア活動を通して17歳のリストカットをし、不登校で家庭内暴力の子どもを引き受けることになりました。塾では不登校の子どもを持つお母さんたちと会い、家に帰ると現実の不登校児、家庭内暴力児がいる。24時間勤務でしたが、その子が私を育ててくれました
そうした活動をして行く中で、1985年の4月10日にヒューマン・ギルドを設立し今に至ります。「志(こころざし)」は絶対に修正可能で、第二志望を生き抜くことで見えてくる道は必ずあるのです。

著者と編集者と読者の想いが交わる「本」


――そうした経験を活かし、想いを本にして私たちに届けられています。


岩井俊憲氏: 最初の出版が『人を動かす人に29の切り札』1992年のことですね。「有能なだけでは必ず孤立する」という副題です。本を出すとは決めていたのですが、私が開いていた講座に石原加受子さんという有名なライターの方がいらっしゃって、そこでご縁をつなげていただきました。

この本を担当した当時副編集長だった、現在は三笠書房の取締役出版本部長の長澤義文さんという方から、この4月に突然メールを頂きました。他社で出している本の文庫化の依頼でしたが、こうしてご縁が復活するのは嬉しいことです。今年の7月29日に『アドラー流 人をハッピーにする話し方』となって息を吹き返しました。

今まで、色んな形で本を書かせて頂きましたが、どれも根底には幸福になるための考え方、アドラー心理学のシンプルさを学んで欲しいという想いが流れています。まだまだ原因論に固執して不幸を選んでいる人が多いと感じますが、未来志向の目的の世界で生きるほうが、実は簡単でそれはとてもシンプルだということを伝えたいですね。

変な話ですが、私は執筆の依頼を断ることがあまりありません。もちろん自分で出来ないときは、誰かを紹介します。それは、編集者の「本にしたい」という想いを、無下にしたくない、漂流させたくないという想いからです。

編集者は、表に出てこない存在ですが、本づくりに対して著者に負けずとも劣らない熱い気持ちをもっていると思っています。執筆において、編集者は共同作業者で、だからこそ彼らの意見は大切だし、どんどん著者に要求する編集者でいて欲しいと思っています。

このやろう!というぐらい赤を入れられる時もありますが、著者はプロダクトアウト、自分が思っている物を作りたいものなのです。しかし、それを編集者がしかるべきところにマーケットインしてくれる。読者がどんな風に読み取っていくのか、これを考えないといい本にならない。そうした存在が本づくりにおいては欠かせないのです。

――想いが交差する「本」、岩井さんにとってどんな存在ですか。


岩井俊憲氏: 命ですね。精神の支えです。人生の節目で迷った時に手に取ることもあるでしょうし、鼓動させる刺激にもなります。また、内省を促し、心をじっくり繙く。本を通してもうひとつの自我と向き合えます。私の使命は、人の幸せをお手伝いすること。楽な生き方を選ぶ事によって幸せになる、そのことを「命」である本で伝えたいと思っています。

未来志向で生きていく


――必要以上に思い煩う事はないと。


岩井俊憲氏: 世の中が、人の思考があまりにも複雑化しすぎている。だけど、本当はシンプルなのだと。複雑な生き方を放棄し、シンプルな自分らしい生き方を伝え続けていきたいですね。
今は、真の幸福論を書きたいと思っています。高校時代に影響を受けた亀井勝一郎という評論家の書いた『人生論・幸福論』は非常に素晴らしいものですが、私はその現代版を、現状にあった幸福論を提供したいと思っています。

――そうした想いが、岩井さんの原動力に。


岩井俊憲氏: 明確な将来を見据えているわけではないのですが、方向性だけはあると思うのです。この方向性が大事で、それが「志(こころざし)」だと思っています。心が指し示す方向に向かって、やるべき事はやる、やってはいけない事はやらない。このシンプルな未来志向の生き方をこれからも、実践していきたいですね。

(聞き手:沖中幸太郎)

著書一覧『 岩井俊憲

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