アーティストからデザイナーへ 生まれ変わる新たな挑戦
鈴木康広氏: 子ども時代から18歳まで、わからないことばかりの中で感じていたことや思っていたこと、それらを思い出しながら形にした創作の18年間が過ぎました。自分の感覚や思いを対象化し、表現する手段がようやく見つかった36歳の今、ひとつの区切りを迎えているのだと思います。
――浮遊させてきた18年間と、それを形にしてきた18年間。これからはどのように。
鈴木康広氏: 2017年の5月には宮城県の石巻市、牡鹿半島で完全に屋外でのおこなわれる展覧会、リボーンアート・フェスティバル(Reborn-Art Festival)に参加することになっています。
美術館の中とか美術表現という枠が取り払われて、本当に何もなくなった所に人間がどう関わっていくかということを考えざるを得ない状況での試みです。
何もなくなった状態……自分自身も今まで感じられなかったことを感じられる自分になる。そのためにも、今まで身につけてきたものをもう一度、脱いでいく時期にきているのだと感じています。
また、ぼくがいいなと思ったものや、作りたいものを発表するのは実はすごく簡単で……これからは何かを必要とする人に対して、ふさわしいかたちで応え得るデザイナーにならなければいけない局面もあると思っています。要求に対して最善の形で応えるのが職能としての「デザイン」だとしたら、果たしてぼくにそれができるのかはわかりません。
今、広告をはじめとするデザインの仕事は、すぐに結果が必要に見えます。そして前提として良い評価を求めています。どれだけ売れたかとか、どれだけの人が見てくれたとか、成果がすぐ出ることに合わせた技能になってしまっています。そうした限られた技能のためにデザイナーの能力を伸ばすのではなく、もっと幅広く、未知の分野にも挑戦すべきだと思うのです。そのこと自体を指摘し、実際に見つけるのもアーティストの役割かもしれません。実際に、何百年も前に描かれた絵が今の人の心を掴み、多くの人の心に何かを与えていること。それに際して、芸術の「時間を超えた価値」という見方が正しいのかどうかもわかりません。自分の生きている時間の中で体験できないことも、実際に出会えない人にも、何か影響を与えうるということです。可能性はまだまだありそうです。
つねに過去のことに対して「油断してはいけない」と思っています。歴史のように、情報化した瞬間に人は「油断」しがちで、自分の体験に結びつかないままに終わってしまうのです。
とはいえ、リアルタイムでは分からないことばかりです。今のことをいま分かる人なんていないからです。もちろん、現在は一瞬で過去になりますけど、その、分かるまでの時間の捉え方に、さまざまなバリエーションがあると思います。そして“懐かしさ”の感覚がひとつの手がかりになると思っています。
「空気の手紙」という作品は、まさにそんなことに気づくきっかけになりました。保存した空気が5分後だったら、躊躇なく抜けるものも、朝とってきた空気をその日の夜に抜こうとしたら、もったいないと思い、抜けませんでした。人によって懐かしさを覚える時間は違うし、おなじ5分という時間でも、10年ぶりに会った人同士の5分であれば、まったく意味合いの異なったものになってくると思います。時間の感じ方や価値が発生することを感覚的に捉える実験をこれからも日常の中で続けていきたいと思っています。
でも、そういうことは20 世紀の初頭に、マルセル・デュシャンが「パリの空気」という作品で空気自体を対象化するということをもうやっているわけです。ぼくらがやっていることの前には、すでに先駆者がいるんです。ですから「アートの歴史としては終わっている」とも言えるわけで、美術評論家に言わせれば「もうそんなのデュシャンがやっているよね」とか「ヨーゼフ・ボイスがもう社会彫刻と言っているね」となるわけです。ぼくが考える現代美術は、まったく新しいものではなく、過去の繰り返しでもなく、たとえ同じ手法でも自分たちの時代の感覚として、また違った視点でやってみるべきことだと思っています。それが油絵でいうと画家が取り組む模写なのかもしれません。過去にこそ「油断」してはいけないなと思っているんです。
今の時代の空気や感覚でやることによってまったく異なる次が見えてくる。過去におこなわれたことの本当の意味や、別の価値を体感できるかもしれない。既に人がやったことでも、それを新たな視点で捉え直してみること。油断せず、行動に移す精神をもち続けていきたいと思います。
(聞き手:沖中幸太郎)
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