益川敏英

Profile

1940年2月7日、名古屋生まれ。日本の理論物理学者。あまり勉強好きではなかった幼少時代を経て、高校時代に当時世界的な物理学者だった坂田昌一博士に憧れ、名古屋大学に進む。理学博士号を取得後、1970年に京都大学に移り、理学部、基礎物理学研究所の教授、所長などを歴任。1973年に、小林誠博士とともに発表した「小林・益川理論」は、物質の存在の謎を解く画期的な理論として、世界中の注目を集める。2003年に京都大学名誉教授となり、大型加速器を使った観測によりその正しさが次々に実証され、2008年秋のノーベル物理学賞を受賞。2009年には京都産業大学益川塾塾頭、名古屋大学特別教授に就任。現在も研究の最前線で物理学の発展に努めている。

Book Information

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考え事をしたいときは、とにかく「歩く」んです。



2008年に「小林・益川理論」でノーベル物理学賞を受賞した、京都産業大学教授の益川敏英さん。「高校生時代には、芥川龍之介論を書こうと思っていた」という益川さんに、子供時代の読書体験からその読書法まで、幅広く語っていただきました。

最近の若い人は勉強家だが、こじんまりしている


――本日はお忙しいところお時間をいただきまして、どうもありがとうございます。現在、京都産業大学には、益川さんが2008年ノーベル物理学賞を受賞されたおりに設立された、教育研究機関「益川塾」があるそうですね。自然科学を志す研究者の教育研究機関になっているそうですが、現在、具体的にはどんな活動をおこなっているんでしょうか?


益川敏英氏: まず、理系と社会人類学系の二分野の研究者から、入塾希望を募る。そこから、僕ら選考委員が何人か選んで、大部屋で議論をしてもらうんです。そこで、なにかおもしろい話が出てくれば、それをテーマに年に1回ぐらいシンポジウムをやるんですね。

ちなみに、今年3月におこなったシンポジウムのテーマは、「神々の京都」だったかな。ここでは、「神像」をテーマにしている。「神像」というのは、「神様の像」のこと。意外と知られていないけれども、結構探せばあるんだよね。仏像をテーマにした研究は多数あるんですけど「神像」を題材にして研究している人はなかなかいない。だから、それをテーマにしたんです。

――参加者はどのような方がいらっしゃるんですか?


益川敏英氏: 年齢層でいえば、理系は比較的に若者が多いけど、人文社会系だったら40代ぐらいまでいます。ただ、僕はこの塾で成功するのは人文社会系の人たちじゃないかと思っている。理系の場合はね、そこで職を得て然るべき業績をあげていって、巣立っていくというのが一般的なんですよ。でも、人文社会系の方っていうのは、結構色んなところで活動されているんだけども、名刺があって、ちゃんとした肩書きがあって……というように、しっかりとした身分がないと調査ひとつでも申請しづらいわけなんですね。この塾を立ち上げたときも、「肩書きがないばかりに研究がうまくいっていない」という方々の手助けもしようという狙いもあったんですよ。ちなみに、現在の参加10名ちょっとぐらいだと思います。

――理系の研究者のように、若い20代の方と接されることも多いと思うのですが、若い人たちが「昔と違うなぁ」などと思われることはありますか。


益川敏英氏: いまの若い研究者たちも、よく勉強はしていますね。でも、理系の人だけに限った事じゃないと思うんだけど、いま、社会全体が、サラリーマン化しているんですよ。なんというか、覇気がなくなってきている。例えば、僕と同じときにノーベル物理学賞を受賞した南部陽一郎先生はね、29歳で大阪市大の正教授になっているんです。当時は、就職難で普通の人からしたら本当に職をみつけるのが大変だったにもかかわらず、もう既に正教授までいってるんですよ。それで普通の人だったら「もう満足」と思ってしまいますよね。でも、その南部先生はもっとガンガン議論の出来る仲間が欲しくてアメリカへ行ったわけ。

それに対して、最近だとよく言われることなんだけど、研究者たちの間で留学希望者が少なくなっている。「トップを目指さなきゃ、ほどほどのポストはあるじゃん」ということなんでしょうね。ほどほどの仕事をして、美しい奥さんと可愛い子供がいればそこそこ満足ということになっちゃった。だからそういう場合に、「最近の研究者は、少しこじんまりしてきちゃってるんじゃないかな?」っていう印象を僕は持ってますけどね。

古来エジプトから続く、「近頃の若者はダメ」論争


――最近は、「若者があまり本や新聞を読まなくなった」と言われて久しいですが、そうした若者の読書離れについてはどう感じられますか。


益川敏英氏: 単に、読んでいる内容が違うだけなんじゃないかとも思うんだけどね。我々が学生の頃、「お前たちは何も知らん」とかね「本を読まない」とか言われたけど、我々の10何歳上の人たちは、旧制高校なんだよね。そうすると彼らは全寮生活をしている。だから、文系理系みんな色々刺激し合えるわけ。例えば「お前もゲーテも知らないのか?」ってバカにされる。それは、文系理系関係なしにそういう話になるんです。彼らはそういう意味では素養があった。そういった社会の構造が変わってきて、我々みたいな年寄りが若者に「近頃の若者は…」って言っちゃうわけね。

あとね、「近頃の若者は」っていう言葉はね、エジプトのピラミッドの壁に落書きにも書いてあるらしいですよ(笑)。だから、それが本当だったら、人類は滅んでるはずなんだよ。滅んでないということは他のものに関心が移っているんだと思うんだよね。しかし、大人は若者にね、「ヘーゲルもあるよ。読んでみたら意外と面白いと思うよ」と、そういうことは伝えてあげてもいいんだと思いますけどね。ヘーゲルは難しいとは思うけど。

――先人たちに教えてもらって自分の知らない世界を知るというのは、若者にとって非常に大事なことですよね。


益川敏英氏: でもね、僕が考えるに、若者たちが自分と同じくらいの世代の仲間と議論するというのは非常に重要なんですよ。先輩、先生からお聞きすることはあります。伝わることもあります。しかしそれだけなのね。決して広がりがない。同じくらいの到達度と習熟度の人間が議論するとね、話が飛ぶのね。「お前こういうもの読んでるか?」といった時にね、読んでない時は他のものをぶつけるわけね。話題がそんなことで広がっていく。それは先生や先輩との議論ではあまり得られない体験であると思う。



人生のなかで「失敗」だと感じたことは、一度もない。


――ちなみに、若い頃の益川先生は、どんな学生だったんですか? 過去の失敗談や、逆にこれはやっておいてよかったなと思われることを教えて下さい!


益川敏英氏: いや僕は、失敗っていう概念がないんです。全てが成功ですよ。どういう意味かと言うと、「こうやってやったら、こういう答えが出るかな?」と思ってやってみて、期待していた答えが出なかったとする。でも、それは失敗じゃないんです。「そうやってやったら、そういう答えになっちゃった」という成功例になるんですね。しかも、その後に僕は、「なぜ自分の思った答えが出なかったのか?」ということは徹底して考えて、記憶しておく。そういう蓄積があるから、その次にまた一歩を踏み出すチャンスが来たときに、ボケっとしてた人よりは、それに早く気が付くんです。僕は何かをおこなったら、それを徹底的に分析します。その結論を棚の中に置いておくんです。

例えば、僕と共同研究して一緒にノーベル賞を受賞した名古屋大の小林誠くん(名古屋大学特別教授・2008年にノーベル物理学賞を共に受賞)とやった「速報会」。これは、参加者が海外文献を和訳して発表し合うという会合なんです当時は最新の情報は全部雑誌で来るんですけど、みんな早く読みたいから取り合いになる。だから、当番を決めて紹介することになっていたんです。英語で言う「ジャーナルクラブ」ですね。今だったらインターネットがあって、クリックすれば情報が出ますけど、当時そんなものは無かったから、お互いに情報交換する必要があったんです。

僕が「速報会」にデビューした時に渡された論文の中に、1964年に出たフィッチ・クローニンたちの論文がたまたま入っていた。そのときは、「これなんだろうな?」って思っていただけなんだけれども、その内容が、なんとなく頭に引っ掛かっていて…。自分でもそれなりに考えたんだけど、その段階では答えは出ないと。だから、棚の中にしまっておきました。それで1971年にトフーフトとベルトマン達の理論が出て、その計算が可能になったんです。「これで時期が来た」と思って、取り上げてみた。それが「小林・益川理論」だったんですね。

しかもね、日本人が書く論文はね、東洋の片田舎の若造が書いたようなものだから、せっかく書いてもほとんど世界には知られないの。そこで、実際に僕らが論文を書いた3年後にアメリカの人が似たような論文を書いているしね。普通だったら、そのアメリカ人の論文が知れ渡ってしまうと、あとから「日本にもこういう論文があるぞ」って言っても、せいぜい同着になっちゃうんだよね。

――先に論文を書かれた人がいても…ですか。


益川敏英氏: 先に内容が知れ渡っちゃったほうが勝ちだね。だけど、そのときはそうならなかった。筑波大学の元学長の岩崎洋一さんっていう方がいるんです。彼は昔、京都大学基礎物理学研究所の助手をやっておられたんですが、彼がたまたまその仕事を見ていて下さった。その後、東京教育大(今の筑波大)に移られて、箱根の向こうに伝えて下さったわけですね。

そこで、のちに筑波大学の高エネルギー加速器研究機構機構長を務めることになった菅原寛孝さんという先生が、「この研究は面白いから、ちゃんと世界に宣伝しなきゃならない。私の知人の何人かへ手紙を書くかい?」って言って下さったわけです。

しかし、あんまり反響がないもんだから、彼は少しその論文を発展させてね、論文にしてアメリカの物理学会で講演された。それでようやく「無視できないと」と知れ渡ることになるわけね。でもさ、面白いものでね、仮に誰かの論文と似た内容のものを書いても「見なかった」ってことにすればいいんですよね。つまり、無視しちゃうんですよ。

――つまり「誰の影響も受けてない。これはオリジナルである」と言い張れば、その論文はまかり通ってしまうということですね。


益川敏英氏: 結構そういうケースがあるんですよね。でも、耳で聞いちゃうとダメなんですよね。それから、僕たちの論文を読んだという人たちが、ぼつぼつ増えていったっていう感じですね。だから、岩崎先生、菅原先生のお二方は、僕にとっての恩人ですね。

紙に書いてある文字は、一度手に取るとすぐに頭に入るんです


――今回、本との関わりについて伺っていますが、益川さんは、電子書籍を使われたことはありますか。


益川敏英氏: 僕は、手を出したことがない(笑)。本っていうのは、仕事場に置いといて積んでおくものだと思ってるんですよね。気が向いた時に同じような本を10冊くらい集めてきて、これどう違うか見比べながら読んだりとかするのが好き。電子書籍でもきっと、本と同じことができると思うんだけども、まだ使っていないっていうのは、私が使うことに慣れてないっていうことなんだろうね。

――実際にご覧になったことはありますか。


益川敏英氏: ありません。積極的に手にしません(笑) 。というのも、プログラム書いて、デバッグやる時に、パソコンの中で読むのはどうしてもやりにくいんですね。やっぱり打ち出して紙を見るとね、一遍に分かるんですよ。紙と電子とでどこが違うのか知らんけども、視野がやっぱり狭くなるんだと思う。

――電子書籍のメリットを挙げるとしたら、例えば遠隔地にいる学童だとか視聴覚にハンディキャップがある方などが、等しく知へのアクセスすることが容易になってくるといったことも挙げられています。そういった意味で電子書籍が、教育界においてどんな変化をもたらすと思いますか。


益川敏英氏: 例えば、これまでにも私は本代にはかなりたくさんお金を使っているんだけども、場合によってはお金がないこともあるわけね。それでも、ほとんどお金を持っている、持っていないに変わりなく本にアクセスすることができる。だから、そういう意味では、かなり環境が特殊なんでしょうね。どんな本でも検索するのも楽だし、入手するのも楽だというような環境は整っていくんだと思いますね。

話は変わるけど、最近本書いてもね、本屋さんに平積みしてあるのは2週間くらいなんですよ。もうジャンジャン新しく生産してくるわけね。だから本を並べる場所がいるわけね。1冊置いてあった本も2週間くらいでなくなって、なくなると追加しない。最近は印刷が楽になったらしくて、本屋さんで注文すると、注文が1冊あったら1冊だけ作るわけね。だから、そういう意味で本の回転が早くなる。「この本が絶版になってしまったら大変だ」と思って買うわけですよ。

子供のころ、図書館で一冊の本を抜き出すときに、感動で手が震えた


――益川先生の幼少期から学生時代の読書遍歴や、影響を受けた本などをお伺いできますか。


益川敏英氏: 思想文化面の本は、特にないんですよ。我々高校の終わりぐらいから大学の初めくらいに定番であったのは、阿部次郎さんの『三太郎の日記』。だけど読んだ時に難しくてわからなかった。何回読んでも分からなかった。最近もう一回買って読んだんだけど、「なんだ、こんな簡単なことが書いてあったのか?」と思ってびっくりしました。



でもね、こういう体験をしてみると、若い時は読むだけの準備ができていなかったんだと思う。読んだ時に日本語は分かるんだよ。「これが何を意味しているか」っていうことはね。でも言葉というのは、読んだ後にもう一度膨らむもの。だから、「ここで言っていることは、こういうことだったのか」って分かるには、ある程度体験もいるんです。最初に本を読んだ時に、分からなくても半年経って読んでみれば分かるとかね。だから僕はね、「読んで分からなかったら飛ばしておいて、時期をずらしてもう一回読んでみろ。そしたら分かるようになっているよ」ってよく言っている。

あと、物理の本は、ほとんど読まない。なぜかっていったら、論文で読むから本で読んだってしょうがない。ここに数学の本がたくさんあるんだけどね、物理屋だとね、仕事のために数学の本があると思われがちなんだけど、そうじゃないの。数学の本っていうのは面白いから読んでるだけなの。

――子供のころからやっぱり本はお好きだったんですか?


益川敏英氏: 僕が覚えている一番鮮烈な本の体験は、小学校の5年の時。グループ研究っていうのがあるでしょ? クラスメイトを何班かに分けて、その1班にテーマを与えて、それを調べてというやつ。そこで、なんていうテーマだったか忘れたけど、友達のところに集まって、議論して手分けして、調べたわけですよね。そして、名古屋でちょうどその頃に鶴舞(つるま)図書館っていうのが出来るんですよ。そこへ行って、調べ物をするわけですけど、小学生の課題ですから10分くらいで終わっちゃうわけですよ。その後に時間が空いているものだから、図書館内を探検するんです。

図書館の中にずらりと本がたくさんある中から、1冊の本を抜き出すときに手が震えた。多分、期待感だったんでしょうね。そのときの感覚は、今でも覚えている。それまでは、学校で指定された本を一括購入して、配られるだけだったから。たくさんある本の中から1冊自分で選ぶという経験はほとんどしたことがなかったから、その時は非常に緊張しましたね。実際、どんな本を選んだかは覚えてないんだけどね。

あと、図書館に行くとき、半分ぐらい下心もあったんですよ。うちは砂糖屋をやってたもんだから、家の近辺をうろうろしているとね、お使いを命ぜられるわけ。「この砂糖をどこどこへ配達してこい」とか。だから、「図書館に行って調べものしてきます」というとね、家を抜け出せるわけ。それで、図書館にいる時間のうち4分の3ぐらいの時間を使って『十五少年漂流記』だとそんなものを読んで、4分の1くらいのところで、勉強に関係するようなことをやって。

高校3年生のとき、「芥川論」が書きたくて芥川作品の98%を読破!


――鮮烈な読書体験ですね。中学に入った後も、やはり読書はお好きだったんですか?


益川敏英氏: 中学生になると、今度は図書係になってしまいました。図書係は、購入したものを最初に読めるわけ。そんなこともあって中学校までくらいは、自分で本を買ったことがなかったんです。でも、中学3年になって初めて自分の意志で本を買ったわけ。というのも、僕の家は砂糖屋をやっていることもあって、結構お小遣いをくれる家だったんだ。当時は、砂糖の入ってた空袋を売りに行くと、結構いい値段で買ってくれるところがあったんですよ。例えばキューバ糖なんかはね、麻の袋に100kgくらい入っちゃう。それでいらなくなった麻袋を売ると、結構いいお小遣いになったんですよ。その袋をなにに使っていたのかは、知らないけど(笑)。

――いったい当時はどんな本を買っていたんですか? 


益川敏英氏: 初めは小説みたいな文学書をたくさん買ってね。高校3年の時かな? 芥川の作品は98%までくらい読んだ。芥川全集なんてものは買わない。1冊ずつ古本屋で見つけてきて、「あ、これ持ってない」とか言って、リスト作って消していくわけね。これだけ読んでいたから「いつか芥川論を書いてやろう」と思ったんですね。なぜ芥川は自殺しなければならなかったかってことを書こうと思った。彼は、短編が多いでしょ。どの短編でも、ストーリー展開して、見事に終わってみせるわけ。彼はそれが目的だったわけね。

でも、そんなストーリーをいくつもいくつも作れるわけはないじゃない。それで次第に追い詰められていって、何に逃げたかっていうとね、キリシタン。キリシタンの奇跡は勝手に作れるでしょ? だから、見事に終われるわけ。だからキリシタンに逃げるんですよ。しかしそれにも種が尽きるし、虚しくなるんでしょう。そこで、自殺したと。せざるをえなくなったというのが僕の説ではあったんだけども。それを書いてやろうと思ったわけ。そしたら、僕が考えたことと同じようなことを書いているやつがいるんだよ。こりゃやられたぁ~と(笑)。

数学の本は後ろから読んだほうが、理解が早い


――世の中には同じことを考える人間がいるんですね(笑)。本の内容やつくりなどで以前と比べて変わったなと感じるような点はありますか。


益川敏英氏: そういう意味では、数学の本でもそうなんだけども、実に手が行き届いていますよね。まず、最初に要約が書いてあってね。こういう本はどういうことが書いてあって、1章は何がテーマかっていうことが、初めに書いてあるのね。

僕は、数学の本は、後ろから読むの。なんでかっていうと、数学の本はね、構造がしっかりしているから、たいてい最後にその本の結論が書いてある。「なになにの定義」とか。それを証明するための準備がずっと書いてあるわけでしょ? それが分かるようになるまでね、遡っていくわけ。初めから読んで分かるわけない。ずっと遡っていって、「ああ、こうか」と。分かった段階で終わるわけ。

そうするとね、とんでもないことが分かる。何かっていったら、本の中で脇道に逸れている話があるわけ。「ここのところでこういう面白い脇道があるよ」っていう。僕は、そういうのを読み落とすわけ。で、同じ本を読んだ人に「益川、お前この本を読んだって言ったじゃないか?そこに書いてあるだろう」と言われる(笑)。

「路上と喫茶店」が最高の仕事場です


――次に、仕事術をお伺いしたいと思います。著書に『路上と喫茶店が書斎だ』と書かれていたと思いますが、ご自宅に書斎はお持ちではないですか。


益川敏英氏: ない。概ね、女房に取られるんですよ(笑)。一応引っ越しをしたり、新しい家に移ったりなんだりするとね、一応書斎らしきものは作ってくれるわけ。だけども僕は今まで仕事をするときは、ソファーとか、そういう所でやっているもんだから、そのうち女房が書斎らしき部屋を占領して、もういっぱい色んなものを置いちゃう。

――書斎じゃなくなっちゃうんですね。ではお仕事は、ご自分の研究室でされていらっしゃるんですか。




益川敏英氏: 研究室でも同じことなんですよ。僕は自分の机に座るとね、思考が停止するの。だから、若い人が来て質問をされたときでもね、「今、それ分からんから明日までに書いとくわ」って、私が言うわけ。で、別れてドアを出るでしょ? 出かかったところで思い出して、気が付くんですよ。だからね、考えなきゃいかんことがあれば、徹底して歩きます。

ある人のドクター論文を指導していて、基本的には「出来たな」と思った時に、ちょっと遡って全体を見通したのね。そしたらスタートラインのところが違ってた。スタートラインのところを、新しい状況をもとに、シンプルな話を拡張して考えるわけね。その時にスパッと「この道筋でいける」と思った時にミスをしていて、もう一度慎重にやらなきゃいけないということに気が付いたわけ。しかし、ドクター論文だからね。提出期限があるわけ。その時は大変だけども3日間ずーっと、51時間寝ずに考えましたよ。

――よく巷のサラリーマンがやっているように「何時から何時まで決められた時間、机に向かう」……という方法ではないんですね。


益川敏英氏: もちろん、世の中にはそういうお仕事もあるんですよ。着実にこれだけこなして、そういうのを積み上げて次に行くのが大事という仕事が。例えば、辞書を編纂するような仕事があるでしょう。あれは、本当にきちっとやらなきゃいけないから、ちゃんと机に向かってやったほうがいいと思うんです。

でも、私が選んだ仕事には、そういうものは必要なかった。例えば、僕は長い論文も短い論文も書いたことあるんだけど。長い論文なんてね、それをやるために色んな山を越えて行かなきゃいけないわけね。1つやり残せば、次の日にもやるわけね。

だからそういう時には、3時間睡眠くらいで、勤労、勤勉に半年過ごすとかしますよ。3時間でやっていこうっていうわけじゃなくて、人間っていうのは睡眠に山があるでしょ? そうすると3時間くらい経って睡眠が浅くなった時に、仕事のことが気になってて目が覚めちゃうのね。それで、3時間睡眠くらいで半年過ごしたこともあります。で、その反動で、たっぷり寝ていることもあります。

――今はしっかり睡眠は取られてますか。


益川敏英氏: いや、年取っちゃったから4時間くらいで起きちゃいます。10時頃に寝て、2時頃にもう目が覚めてね。しばらくはしょうがないから布団に入っているわけ。で、もう布団に入っているのも面倒臭くなって、3時とかね。4時に布団から出る。

「物理」と遊び感覚でじゃれていることが、「仕事」になっている


――現在のお仕事のサイクルは、どのように進めていらっしゃるんですか。


益川敏英氏: ここ京都は、週に1日。名古屋に3日。そして、琵琶湖に3日。あとの日は、北の方の、西岸で牧野っていうところ。そこで過ごしてますね。あとはターミナル駅みたいなものとして、四条烏丸のところに中継基地があります。そこでマンションを借りているんですよ。ん? いや、買ったのか、あれは。そういうことに関しては、女房の方が偉いね。

――ちゃんと奥様が計画的に購入されたということですかね。


益川敏英氏: 僕は40過ぎてからそんな買い物したことないんだけど、各場所で女房が買ってくれます。「あんたに頼んどいたら何も決まらないから」って。

――益川さんにとっての奥様は、どういった存在ですか。


益川敏英氏: なかなか世間的な常識っていうか、ノウハウっていうか、知恵っていうのはあって、大概のことはやってくれます。下手なことをしていると僕は指導を受けます(笑)。まぁ、彼女だったら一緒にやっていけるなぁって感じたから結婚したんでしょうね。

――プロポーズの言葉とかユニークだったんですか。


益川敏英氏: なんだったかなあ?(笑)

――ご飯は一緒に食べられたりしますか。


益川敏英氏: 夕食は一緒に食べますね。僕は50年以上2食主義なんですよ。

――2食ということは、朝と昼ですか。


益川敏英氏: 朝じゃなくて、「第一食」って言います。だから一般的な人の朝飯には対応しない。大体10時半くらいに食べるのが一番快適なの。どうしてそんなことになったかしらと思ってずっと考えてみたの。そしたら、高校の時の早弁(笑)。僕は1時間くらい離れたところから自転車通学してた。朝起きると7時半ころにはもう家を出なきゃいけない。だからお袋が作ってくれた弁当を持って朝飯食わずに飛び出すわけ。それで、2講目と3講目の間ぐらいのところに早飯をやるわけ(笑)。それがずっと続いて、今でも10時半ごろに食べていますね。名古屋大学の生協に食べに行くんだけど、生協は10時半に開いてない。だから11時に飛び込んで最初にご飯を食べるんです。

――研究者の方々にもいろんな方がいると思うのですが、益川さんがプロの研究者として貫いているスタンスのようなものがあったら教えて下さい。


益川敏英氏: 僕はかなりほかの人と違うんだよね。基本的に、僕にとって仕事は「遊び感覚」だから、あんまりプロとは言えないかもしれませんね。物理であろうがなんであろうが、ほとんど同じ感覚で遊んでる。じゃれてるわけね。たまたま僕の場合は、趣味が仕事になっているところが幸せですね!

――その中で、「絶対にやりたくない」と思われるものってありますか。


益川敏英氏: 英語の勉強は絶対したくない(笑)。

今解決出来るいくつかの『課題』を取り出して考える


――これまでにたくさんの研究や分野で大活躍されてきていて、ノーベル物理学賞も受賞なさっています。そんな大きな快挙を成し遂げた上で、今後どんなことをしていきたいかお聞かせ頂けますでしょうか。


益川敏英氏: もうこの年ですからね。そんな野望なんてないんですけどね。ただ、気になっているものは、「現在」という概念がわからない。ニュートン力学だったらね、「t=0」っていったらもうぱっと決まるんです。でも、相対性理論だとね、ここにいる人はこういう考え、でもちょっと動いている人だったら、現在だと思っている。でも、相対性理論だと、質量をもつ物体、いわゆる動いている人はそれぞれ流れる時間が違うから、厳密に言うと「同時刻」というのは考えられない。

それでも「同時刻平面」っていうのは物理でよく考えられる概念なわけなんですが、それが一体どうなっているのかよくわかんないんですよ。だから、ニュートン力学ではt=0が平面と考えたら、それはもうはっきりしてるんですね。だけど、それは物理的な同時刻t=0っていう平面なんですよ。そうなると、「われわれが今考えている現在(相対論的)はなんなのか?」っていうことになる。多分もう少し深いものがあるんだろうと、僕は思うんだけどもね。もう、僕は年を取っていて、ご老人ですからね、そういう間が抜けたことを考えても怒られないんですよ(笑)。

――やりたいことはたくさんあるんですね! 頭の中の棚に常に「やりたいこと」がたくさん並べてあって、その時期がきたら取り出して実行されていくというイメージでしょうか。


益川敏英氏: そうですね。過去においてもそうでしたね。だからいくつか課題がある。その中のいくつかが「今、解決出来そうだぞ」っていって、取り出してきて考えてるという感じですね。

でも、いろいろストックがあることはあるけれども、もうこの年ですから、若者と一緒に競い合うことはできない。なぜかといったら、年間、我々の分野っていう狭いところであっても、1万くらい論文が出てくるの。それに全部目を通すことはできない。若者たちはどうしてるかっていったらね、コミュニケーションで、おもしろそうだと思うことはセミナーでやる。我々なんか、セミナーで聞かせてもらうだけね(笑)。本来は、セミナーやるようでは1歩遅いのね。人より早くちゃんとそういうものを見つけてきて、自分なりに加工してね、課題化しなくちゃいけない。でも、僕はそんなこと到底できない。

本は自分にとって、一生手放せない「おもちゃ箱」です


――最後のご質問になります。今回は本に関するテーマということでお話をお伺いさせて頂きましたが、本は益川さんにとってどんな存在ですか。


益川敏英氏: 学術雑誌はほとんどがインターネットに変わっちゃっているので、インターネット出る情報が、自分のやっている学問の最前線が飛び込んでくる情報源ですね。だから「本」って言った時には、論文以外の本で言うと、面白いことが書いてある、じゃれることができるアイテムだと思います。僕にとって、おもちゃ箱だね。一生手放せないんじゃないかな。

(研究室の本棚を指さして)あそこに古めかしくて、細い本が20冊ぐらいあるでしょ? あれは、いまでは『岩波数学叢書』っていうのかな。一冊抜き出したら分かると思うんだけど、それはね、戦前に岩波が出したシリーズなんですね。多分、日本で最初に数学を体験的に導入した本なんじゃないかな。だから読んでもね、凄くよく分かるんです。「この学問はね、こういうことを狙っているものですよ」っていうことが初めに書いてあるんです。最近はけしからんのでね、専門家が専門家に向けて書いてるんです。一般人が読んでも、ほとんど分からないですけどね。

――これは、戦前に発行されたものなんですか。


益川敏英氏: 面白いでしょ? 本文がカタカナで書いてあって、人の名前はひらがなで書いてる。それでね、傑作な話があってね。戦後にある人が、数学の本で初めてひらがなで書いた本を自分の先生の所へ持っていった。でも、受け取ってもらえなかった。「こんなものは受け取るわけにいかない。学術書ではない」と言われて(笑)。

なぜかというと、かつての日本の数学界を支えた数学者である高木貞治の『解析概論』っていう本は、本文がカタカナで書いてあったの。それを我々も読んでいたわけ。でも、最近になって、みんなひっくり返ったんだよね。だから、そのときは、本文は基本ひらがなで書いて、人の名前がカタカナ。だから、本文がひらがなの本を持って行ったら「こんなもの解析概論じゃない」って言われてしまったわけですね。でも、逆に読み慣れるとね。それの方が読みやすくなってくるから不思議なものですね。

――時代とともに、形式も変わっていくんですね。ちなみに、この本は、いつごろ手に入れられたんですか。


益川敏英氏: それは、1950年の終わり頃。本屋さんで1冊1冊集めてくるわけ。1冊とか3冊とか、そういうところにありますよ。本屋さん行って、「これ、僕はまだ持ってない」とか言って、買ってくる。全集を買ってくることもありますけどね。

――古本はコレクションという感じで購入されるんですか。


益川敏英氏: いや、それで勉強しましたよ。これがね『現代数学講座』ですね。「現代」って書いてある。こういう風に「現代」とか、タイトルを入れるもんだから、書く方も気負うでしょ? あと、この『岩波講座 基礎数学』。これは面白い内容で、結構一生懸命に書かれていますね。

――これは、昭和32年に発刊された本ですね。あ、でもこれは今私たちが読んでいるものと似たような書き方になっているんですね。


益川敏英氏: これはね。数学の全集を出すときの1つのスタイルで分冊になっている。なぜこうするかっていうとね、本を書かせるときにね、先生方は絶対に「いつまでに書く」って言っても、その通りに書いてこないからなんだよ(笑)。

――出来たところから、徐々に発行していくわけですね。


益川敏英氏: そうそう。「先生、出来上がったところ下さい」って言うでしょ。そうすると、そのうちにだんだんだんだん出揃ってくるわけね。そうすると、まだ出来てないものを書かせる圧力になる(笑)。

本は「蒸発」していくから、たくさん持っていてもいいんです


――なるほど。ちなみに、益川さんの蔵書は全て合わせると何冊くらいですか。


益川敏英氏: 4か所に分散してるんだけども、1万冊くらいかな。でも小説家とかは、10万冊単位で持っていて、初めて「持っている」と言えるものらしいですよ。

――10万冊もすごいですが、1万冊という数は通常では考えられない数ですね…。今まで捨てられたものを除いてということですか。


益川敏英氏: そうですね。僕の場合、本は捨てないんだけど、「蒸発する」んですよ。これまで3分の2くらい蒸発した。なぜかいったらね、僕の研究室に若者が入ってきて、黙って本を持っていってしまうから。僕は部屋にカギをかけないからね。そして、彼らの大半は本を返さない。安田君っていうやつはもっと堂々としていてね、『益川さん、これもういらんでしょ?』とか言って、さっと持って行っちゃうんですね(笑)。シリーズになっているやつもね、シリーズ全部それごと持っていっちゃうです。だから、今持っている本の3倍くらいは買ってるんじゃないかな……。

――そうやって、どんどん本は読み継がれていくものなのかもしれないですね(笑)。本日は、色んなお話を頂きまして、ありがとうございました。

(聞き手:沖中幸太郎)

著書一覧『 益川敏英

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