“レッテル”は要らない――デジタル化による新しい教育の姿
大阪府教育委員会教育委員を務め、教育の世界のスペシャリストである陰山さんに現在の教育の問題や執筆活動や蔵書の電子化、そして今後の教育の未来に関して大いに語って頂きました。
人間性の二極分化が進む現代、教育界を襲う問題とは?
――早速ですが、今皆さんに近況として仕事内容含めお伺いさせていただいているんですが、大阪府の教育委員長などのお仕事含めて近況をお伺いできますか?
陰山英男氏: 最近は教育のデジタル化や教育委員会の制度に関するものが多いですね。教育の根幹の部分が改革を求められている時代の潮目に入ってきたなと感じています。10年ぐらい前まではそうした制度の中での提言で済んでいたのが、今は立場上、やることなすこと言うこと、責任の重さを感じるようになってきました。自分としても大きな転機の時期だと感じます。
――潮目ということですが、それは具体的にいうと?
陰山英男氏: 早くなることが求められている時代、と言えば分かりやすいでしょうか。教育委員会というのは基本的にさほど早いところじゃないのですが、それを早くしなければならない。動きにくいものを無理やり動かさなければならない立場なので、しんどさを感じますね。
――具体的には今、どんな案件が?
陰山英男氏: ここしばらく想定外に現れてきた「いじめ問題」の対応ですね。
最初は、「自殺の練習をさせるようないじめって酷いんじゃない?」という、いじめの内容についてだったものが、「なぜ教育委員会はそれを隠ぺいするのか?」という制度問題に転換していきましたよね。
僕らからすると「教育長としてあの人は適正だったのか」という人事問題と当初見ていたのが、教育委員会制度そのものに対する疑念に変わりましたよね。滋賀県教委などから是正指導がなされるなど、自浄作用が働くような動きがあれば流れはまた違ったものになったんでしょうが、学校や教師なんて同じようなものと思われ、ネットでは “陰山さん、あんたも同じ穴のむじなかよ”という風に言われてしまったりして。
――自著の中で「子ども自身の成長の鍵は学校だけじゃなく家庭の中にある」といった内容を書かれていますが、現在では家庭の力もどんどん弱まっているんじゃないかとも思います。
陰山英男氏: 家庭の力は弱まっていますし、実際のところ、一般の方々が思っておられる以上に“モンスターペアレンツ”の存在が教育界を歪めています。いじめに限らずさまざまな問題行動を起こす子どもの“親”にも問題があるのに、誰も議論の俎上(そじょう)に乗っけない。なぜならば加害者の子供たちの人権が重視されるから。
教育委員会の隠ぺいはもちろん看過できない問題ですが、それはあくまで二次的な問題で、一次的にはそういう事件を起こす子ども、そしてその親が居るわけです。教育基本法では、教育の一次的な責任者は「親」としているんですよね。ところが実質的に親の責任が問われることはありません。大津の事件でも、大津市が組織した第三者委員会の調査委も、加害とされる生徒の親はこれに協力してないということが言われています。実は非常におかしいんです。
大阪府では一所懸命いじめ問題の対応をやっていますが、やっていながら同じように叩かれる。それが僕らからすると一番つらいところですね。
――教育、あるいは子どもと読書の関連性についてはどのようなお考えをお持ちですか?
陰山英男氏: 意外に思われるかもしれませんが、子どもたちの読書は全体的に増える傾向にあるんですよ。特に2000年から状況は良くなっています。それは、文科省は読書元年とし図書予算が増やしているからです。子どもたちは新しい本が好きだから、昭和のころに買ったような古い本が図書室にたくさんあったところで読書は進まないんです。時代に即した本を子どもたちは読もうとしているのです。
森本哲郎さんの『旅シリーズ』に学んだ日常と非日常の境界線
――ところで、先生ご自身の読書体験の思い出をうかがえればと思うのですが。
陰山英男氏: どちらかというとあまり読まなかった方ですね。それでも若いころ、僕は2回読書に狂った時期があって、そのころの読み方は異常でした。1回目は高校生の時。哲学にはまって、哲学書を読みまくりました。2回目は教師として教育書を読みまくった時期。でも、両方ピタっとやめたんですよね。なぜか激しく読むうち、自殺したくなってきてしまって。
活字中毒って行き過ぎると自殺したくなるよね。それ以降はのめり込む読書じゃなく、むしろ自分自身の生活を重視しながら、その生活そのものをよりよくするための読書へ変わってきているような気がします。
――中でも印象深いというか、今でも影響を及ぼしているような本はありますか?
陰山英男氏: 森本哲郎さんという方の『旅シリーズ』ですね。高校時代の哲学書にはまる前に出会ったものです。森本さんが世界中の旅をしながら文明論を説いていくものなんですが、田舎の高校生だった自分がそういうものを読むと、凄く人生の幅が広がっていろいろな夢が持てるようになった気分がありました。
中でも『生きがいへの旅』というのが非常に印象に残っていて、スウェーデンとベトナムの2つの国の若者たちを比べてるんですね。ベトナムは当時ベトナム戦争の最中ですから、非常に悲惨で、スウェーデンは当時高度福祉のトップに行っていましたので、天国と地獄だと。
ところが実際にその国へ行ってみると、ベトナムの若者たちは活き活きとしていて、スウェーデンの若者たちはむしろ表情が暗い。一体この違いは何なんだろう、人間が生きることとは何なのだろうかっていうようなテーマで語られていて、特に答えらしい答えがあったわけではないけれど、自分自身がどのように生きていけばいいのかを考える上で、表面的に考えちゃいけないんだと思い知ったんです。
ただこれが面白いんだけど、この「生きがいへの旅」、実は教科書に載っていた一節が最初の出会いでした。その続きが読みたくて書店で探したんです。それで旅シリーズの存在も知ったんですが、その中でも当時面白かったのが、インドに旅したときの見聞録。そこから10年近く経って、実際僕もインド旅行に行ったんです。
――どうでしたか?
陰山英男氏: やっぱりあそこに書かれていたことは本当なんだなと。森本さんのインドの見聞録を読んでいると、バックパッカーでないとインドは分からないみたいなノリでしたから、これはバックパッカーしかないだろうと。それも1日2日行くだけじゃダメで、やっぱり彷徨わなきゃいけないんだとインドは。だから、デリーから入って、それから定番のアグラーとジャイプール、ヒンズー教の聖地バラナシに行って、それからインド洋が見たくて、ブバネーシュワルという街に飛行機で飛んで、それからカルカッタへ行きました。26歳くらいのときです。初めての海外旅行がインドへの3週間のバックパッカーだったというね。ほんとバカですよね。
僕らの世代はエネルギーがあるけど、常識がなかったから突飛なことを平気で言ったりやったりしてたんですが、今の子供たちはわれわれが思っている以上にものすごく常識があるんですよ。いきなり「インド行きます」なんていうやつはまずいないですよね。
――そのとき、周りから止められなかったんですか?
陰山英男氏: 止められましたよ。兵庫県の自分の実家の近くの小学校に転勤してきて数カ月くらいのときのことしたし。「夏休み3週間海外に行く」と言ったら校長も教育長も口あんぐりですよ。僕は「英語の研修だから」とか適当なこと言ったら、今でも忘れられないんだけど、「前例がない」と言われました。
教育の世界で前例がないと言ったらダメという話なんだけど、前例がないから、どういう方法があるか考えるって言ってもらって。「見所あるじゃねえか」と。結局、研修旅行という手続きを取ってくれたんです。当時は「(行かせてくれて)当たり前だよ」だなんて思ってましたけど、今考えるとよく許してくれたなと思いますね。今そんなこと本校の教師が僕に言ってきたら「お前バカじゃねえのか!」って言いますから(笑)。
インド旅行は僕にとって特別な体験でしたが、それ以降もどこかに出かけていっては、日常ではないことに思いを馳せるっていうことを日常的にやっていますから、そういう意味では『旅シリーズ』との出会いはとても重要でしたね。